13
以来、朝は、日の出の時分に自然と活動を始めるアデリーナの好きにさせるものの、昼と晩はウゴが厨房から自分と彼女の二人分の料理を運んできて、地下から力ずくで引きずりあげた彼女と一緒に食事をとり、夜は一〇時頃に、やはり地下から有無を云わさず引きずり出して強制就寝、という習慣が出来上がってしまった。
あんなに警戒していたのに、結局アデリーナを中心に一日が回っていることに気がついたウゴは、何となく、どうとなくげっそりした気分になって落ち込んだものの、一度出来上がってしまった慣習を今更やめるわけにもいかず、あと一〇分待ってだとか、もう少しで区切りがつくのとか云い張るアデリーナを分厚い本や怪しげな物体群――彼女曰く「試作品」――から引っぺがして地上へ蹴り出し、三日に一遍は風呂に叩き込んで着替えをさせ、髪は毎日寝る前に百回ブラッシングをするんだよと云い聞かせつつ結局櫛削ってやり、食事の後は歯をゆすげ、顔は毎朝洗えと怒り、……
(オレはあいつの母親か!?)
と時々頭を抱えつつも、甲斐甲斐しく世話を焼いた。
その日も、ウゴがそうして運んできた昼食をよそって並べていた。
(そろそろあいつを運びだしに行くか)
食事の支度があらかた済んだテーブルを満足げに見下ろして、ウゴがそう思ったとき。
折よく背後の壁が音もなく開いて、得意満面のアデリーナがようようと現れた。
「ウゴ!ちょうど良かった。今さっきちょうど、これが完成したところなのよ!」
得意げに、嬉しそうに、一見細い木の棒としか見えない物を掲げる彼女に、ウゴはわずらわしげに、追い払うように手を振って見せた。
「それどころじゃないんだ。あのな、さっき閣下に云われたんだけど――」
「ファハドに色々教えてもらって作ったんだけど、これ、すごいのよ!」
例によってウゴの話は聞かず、アデリーナは一方的に説明を始める。
「一見ただの棒のように見えるけど、その実何個もの細かい部品で組み立てられてあってね、内部には、ごく細ーい空間ができてるの。で、そのなかに濃縮した溶剤が詰めてあって、特定の動作や扱いによって、少しずつにじみ出るようになってるの」
「おい、だからな――」
「定期的に補充することさえ忘れなければ、描くごとに一々硬筆先を溶液に浸さなくても良いし、それにこんなこともできちゃうのよ」
アデリーナが細い棒で目の前をさっと払うと、その仕草に従って、ほの蒼白く輝く半透明の幕が現れた。
見慣れない物体の出現に、ウゴは急いでいたことも忘れて、ついつい尋ねてしまった。
「なんだそれ」
「空間に、一時的に神文字を描きとめる幕みたいなもの。ファハドの指先に仕込んである技術を応用したのよ。持続時間は三〇秒足らずと短いし、有効距離は一〇ヤードで、あんまり遠距離には使えないんだけれど、これでちょちょい……っと」
棒――いわく新しいペンを走らせて神文字を完成したアデリーナは、にやーりと、さも楽しげな笑みをウゴに見せると、
「えい!」
ペン先で幕を弾いて彼のほうへと飛ばした。
「どわああああああああっ」
先日、アデリーナの実家の小屋を吹き飛ばした事件を思い出したウゴは、悲鳴をあげて仰け反った。仰向けに倒れかかった身体を両手で支える、いわゆるブリッジの姿勢を維持する彼の鼻先すぐ上を、神文字がふよふよ飛んで行くのを、冷や汗を流して見送る。
「あ、避けちゃった」
心底残念げに呟くアデリーナに、立ち直ったウゴは本気で食って掛かった。
「殺す気かっ!?」
「何でそんなに怒るのよ?」
怒鳴られるのは心外だと、アデリーナは顔をしかめる。ウゴは唾を飛ばして怒鳴り散らした。
「いきなり身体爆破されかかったら、誰でも怒るわいっ!」
きょとん、とアデリーナは両目をしばたたいた。
「爆破?今飛ばしたのは、明かりの神文字だったんだけど」
「へ?」
振り返ってみればなるほど、ウゴの上をふよふよ通過して行き、そのまま壁に張り付いた神文字が、ぺかぺか光っていた。
「ほんとだ……」
安心したとたん、体から力が抜けた。へなへなとその場にへたりこんだウゴを、アデリーナは、唇を不服の形に尖らせて睨みつけた。
「当たり前でしょ。そもそもさ、このあたしが突然、理由もなく他人の身体を爆破しようとするはずがないでしょ。常識で考えてよ、常識で」
「お前の口から常識って言葉を聞かされる日が来るとは、思ってもみなかったよ」
「え、何ですって?」
あえて説明する気も起きなかったウゴは、厳しい口調でアデリーナに云った。
「とにかく、いきなり、断りもなくひとの身体に神文字を貼り付けようとするんじゃないっ」
「断ったらやっても良いの?」
「内容にもよるっ!」
怒鳴ったウゴは、ついでがっくりうな垂れた。「お前見てると、紙一重って言葉を思い出すぜ」
「紙一重ってほどぎりぎりじゃあ、なかったんじゃない?あんた、結構素早く避けてたよ」
「オホメノオコトバ、ドウモアリガトウ」
「どういたしまして」
「……なんか、疲れた」
ウゴは頭を抱えて呟いた。程度の差はあれど、毎日がこんな調子なのだから、本当に疲れる。
その脇で、ようやくテーブルの上の食事に気づいたアデリーナが嬉しそうに歓声をあげた。
「わーい。今日はソーセージとキャベツのスープだぁ!」
早く食べようとはしゃぐアデリーナにため息をひとつ、ウゴは立ち上がった。
「ここに来てから、生活が楽になったなあ」
ピリッと香辛料の効いたソーセージとキャベツのスープを食べながら、アデリーナがしみじみそんなことを云い出した。彼女の向かいの席に座ってパンをかじりながら、ウゴは胸を張ってうなずいた。
「そうだろ、そうだろ。まめまめしい世話と気遣いのできるオレ様に感謝しろよ」
「何をしなくてもご飯が出てくるし、掃除洗濯家事炊事の指示をゴーレムに与えなくていいし、ただ研究に打ち込める生活って、天国だわ。これでやれ風呂に入れだとかやれ顔を洗えだとかうるさく云ってくるヤツがいなければ、最高なのに」
「お前も、自分が辛うじて人間の端くれに分類させてもらっている存在だと云う自覚があるなら、なら、少しは文化的かつ衛生的な生活を送ることに気を配れ。……って、炊事までゴーレムにさせてたのかよ、お前は!かわいそうにおじさん、何食わされてたんだ?」
「あら、元を教えたのはあたしなんだから、ちゃんと美味しい食事を出してたわよ」
当然、と胸を張るアデリーナにスープ皿を手渡したウゴは、あさっての方角を見てふっとため息を吐いた。
「おじさん、苦労してたんだなあ……」
「どう云う意味よ?」
アデリーナが眉を吊り上げたそのとき、ズフラの墓参りに行っていたファハドが戻ってきた。長身の彼は、はじめにウゴから借りたシャツとズボンではなく、エンリーケから特別に下賜された衣装を身に着けている。
「身の丈に合わぬ装束を無理に着ている姿は見苦しい」
と云うのがその理由だったが、なるほど、クリームと空色の二色を基調としたその衣装は、浅黒い肌をした彼に良く似合っていた。
「よ、ファハド。今日のズフラさんはどうだった?」
ウゴから手振りで進められた椅子に腰掛けながら、ファハドは穏やかに微笑んだ。
「先日いただいて側に植えさせていただきました薔薇の苗木が無事に根付いたようで、新芽が出ていました」
「そりゃ良かった。あれは春と秋に花をつける種類だから、今度の秋には綺麗な花を咲かせるよ」
「ズフラ様は、白に近い薄紅色の薔薇を好いていらっしゃいましたから、きっとお喜びになられるでしょう」
失ってしまった主人のことを思い出しているのだろう、しんみりとしたファハドの口調に、ウゴもつられてしめやかな心持になった。が、そうした他人の感情に興味がない、ついでにその場の雰囲気を読む努力もしないアデリーナによって、蕭然とした空気は唐突に吹き払われた。
「そう云えばさ、前から不思議に思ってたんだけど、そもそもどうして教会は、神文字やゴーレムに関して学ぶことを、一般人に対して禁じているのかしら?」
ウゴとファハドは顔を見合わせた。
「さあ?教会が決めたからには、何か理由があるんだろ」
「私は、この時代に関しては何も存じませんから」
「二人とも、不思議に思わないの?どうして教会は、俗世に対して知識の制限を課しているのかしらって。それも、単に学習を制限するだけじゃなくて、神文字と云う存在そのものを、庶人の目に触れさせないようにしているわよね。単に神文字を習わせたくない、ゴーレムを勝手に造らせたくないだけなら、教会が窓口になって、生活に役立つ神文字やゴーレムを庶民に分けたり貸し与えることだってできるはずなのに、それすらしていないんだもの。これって不可解だわ。まるで神文字やゴーレムって存在そのものを、この世から消し去ろうとしているみたい」
「そうだな。日常的に誰でも神文字が簡単に使えたら、夜の暗さを不便に思わなくてもすむよな」
最近アデリーナに明りの神文字を描いてもらって、それを利用することを憶えたウゴが同意すると、アデリーナは鬼の首を取ったようににかっと笑った。
「他にも、便利なことは色々あるわよ」
「ソウダロウナソウダロウナ。お前に限って云うと、反面、危険も増大するけどな」
「は?危険?」
きょとんとなったアデリーナにため息をひとつ、ウゴは続けた。
「けど、今話すのは神文字やゴーレムの利便さじゃなくて、何故教会がその習得を一般人に対して禁じているかって云うことだろ。何でなんだ――って、そりゃやっぱ、危険なヤツが、軽はずみに、簡単に他人を傷つけたり爆破したりしないようにするためかな」
ちろっと嫌味たらしい眼をくれてやると、アデリーナは眉間にしわを寄せてソーセージを噛み切った。
「その云い方。当てこすりめいたものを感じるわね」
「それはお前、被害者妄想ってもんだ。それとも何かリーナ。お前は、オレに当てこすられる憶えでもあるのか?」
「無いわよそんなもの。あるわけないじゃない!」
一片の迷いもなくきっぱりと断言したアデリーナは、そうだろうな、そう云うと思ったぜと顔をしかめたウゴから、このやり取りを傍らで静かに聞いていたファハドに向き直って尋ねた。
「ねえ、ファハドが眠りにつく前の時代はどうだったの?ファハドは特に研究者についていたとかそんなことはないって云っていたのに、神文字のこと良く知ってるし。だから昔は、今みたいに神文字の習得や研究に制限が課せられてたわけじゃあないんでしょう?本の記述からも、一般人がみんな、日常的に、俗字と同じように神文字を習って使っていたように受けとれるんだけれど」
ファハドは穏やかに頷いた。
「はい、確かに皆、ごく気軽に神文字を扱っていました。私の知識や経験は、この都市とその周辺野に限られていますが、それでも、神文字やゴーレムの研究を禁じている国や教会があるとの噂は、耳にした憶えはありません。そもそもあの時分、北の蛮族は別にしても南の半島人にとっては、ゴーレムなくして行われる戦さは考えられませんでしたし、だからどの国、地域でも、領主や王侯貴族は、少しでも強大な効果を持つ神文字や能力を持つゴーレムの製作や開発に躍起になっていたはずです」
「やっぱりそうだったんだ!じゃあいつから、誰が、一般人にこれらを使うことを禁じたのかしら」
「存じません。ただ、神文字を気楽に使っていたと申しましても、アデリーナ様のようにその構成を解明し理解して、自ら新しい神文字を作り出そうと研鑽を積み重ねていたのは、ごく一部の研究者を除いてほとんどおらず、大抵の人は、いくつかの形を丸暗記していたように憶えています」
「へえ。じゃあ、その成り立ちを理解してなくても、描けば効果が発動するものなんだ、神文字って」
ウゴが感心して思わず口を挟むと、アデリーナは詰まらなさそうに顔をしかめた。
「まあね。神文字が効力を発揮する際に問題となるのは、その形であって、描く側の理解の度合いじゃないから」
「だったらオレでも、描こうと思ったら描けるんだ?」
「あら、ウゴも神文字に興味持った?だったらいくつか教えてあげようか?」
にこにこと咲うアデリーナに、ウゴは真面目な表情で、胸の高さに持ちあげた両手のひらを広げて見せた。
「遠慮します。どうせ教えてもらうなら、ファハドがいい」
「明りとかに限って云えば、あたしだってファハドと同じくらいちゃんと描けるわよ?」
「神文字の正確性はともかく、お前に習うと、なんか余計な、危ないことを憶えさせられそうだ」
あいにくと、オレはまだ命が惜しいんだよと付け加えるウゴに、アデリーナはソーセージの出汁を吸ったキャベツをかみしめながら首をかしげた。
「危ない余計なことって、例えば何?」
「明りの神文字だと云って教えておきながら、その実爆発するものだったとか、新開発してまだ実地実験をしていない神文字の試験を黙ってさせようだとか、色々あるだろ」
アデリーナが、ポンと手を打った。
「そっか、その手があったか!」
「納得するなこの研究狂人!」
やっぱりお前にだけは、絶対教わらないぞと改めて誓ったウゴは、そしてふと思い出した。
「そうだ。閣下がさ、昼食終わった午後にお前に会いたいから来いって、そう云ってたぞ」
「用があるなら向こうが来れば良いのに」
「お前、何様だ?……つーか、その台詞、そのまま閣下に伝えてやろうか」
「はいはい、解ってますって。行きます行きます。行けばいいんでしょ」
あんまり反省していないらしい、アデリーナはちぇーっと拗ねた声を漏らしてキャベツをかじった。




