鏡渡り
加代子は愕然とした。この非常識極まりない事をする死神に騙されてるのではないか、と。
「鏡が《どこでもドア》みたいになる、と? なんでよ?」
「なんでと問われても、昔からこうですからねえ。」
雅は苦笑しながら、斎にお礼を言うと加代子の手を引いて鏡の中へと入り込んでいく。加代子も半ば諦め半分、興味本位半分で鏡の中へと入ってみた。
「うわあ・・・・・・。」
何もかもが左右逆転だ。
「鏡の国のアリスになったみたい。」
加代子が雅の手を離し、その場でくるくると回ってみせる。
「時計を持った白ウサギとか出てくるのかな?」
「それはないんですが、案内役が僕じゃご不満ですか?」
「そんなことないよ。」
昨日、今日の二日間で恋愛のそれではないにしろ、加代子は確かに雅に好意を抱いていた。
「余り遠く行くと別のところに行っちゃいますよ?」
「はあい。」
加代子は雅の元に戻る。ごく自然と加代子の手を取ると、鏡の国のなごみ屋を出る。
「・・・え?」
そこはなごみ屋の前の道路ではなく、雅の家のあるマンションのエントランスだった。
「これが鏡渡りの醍醐味ですよ。」
そして、そのままあべこべの世界のエントランスを進み、エレベーターに乗り込んで、雅の家の前に着く。
「でも、これって鍵穴が合わないんじゃない?」
「はい、なので、こちらを使います。」
そう言うと懐から手鏡を取り出した。
「それでどうするの?」
「こうするんですよ。」
雅は手鏡に鍵穴を映すとそれに鍵を差し込みガチャリと回す。
「姿見は書斎にあるんで、こちらへ。靴は持ってきてくださいね。」
加代子は玄関でパンプスを脱ぐと手に持って部屋に入った。そして、入った時と同じようにして雅に続いて姿見から現実の世界に戻る。
「おかえりなさい、加代子さん。どうでした? 初めての鏡渡りは?」
雅に鏡前で出迎えられて、ふふっと笑う。
「鏡の国のアリスになって、どこでもドアを通ってきたって感じ?」
「さっきと変わらないじゃないですか。」
雅は加代子の感想に苦笑した。
「それにしても、何も持って帰って来れなかったなあ。」
加代子は居間のソファーに腰掛ける。
今朝、家を出る時は貴重品や私物を持ってくるつもりだったのに、何もかもなくなってしまった。
「明日は仕事、行かないといけないのに。」
その言葉に雅も隣に座ると、「ああ、それなんですけど、加代子さん、今の会社に勤めたきっかけを聞いてもいいですか?」と、尋ねてきた。
「何を藪から棒に。」
「ご自身で見つけた就職口だったんでしょうか?」
「うーん、実は就職試験に失敗しちゃったんだよねー。それで、確か亨の友達とかいう人の伝手を使って・・・・・・。」
そう話して、そのまま無言になる。
あの男はマンションのワンフロアを丸々異空間に再現する男だ。仕事場を異空間に作ることなど、造作もないだろう。
そして、導き出されたのは――。
「もしかして、私、失業した?」
加代子が呆然とした顔で雅に尋ねると、雅も少し眉尻を下げて「もしかしたらそうかもしれませんね」と話した。
念の為、そこからは仕事場の同僚の名前を聞かれたり、具体的にどんな仕事をしていたのかも聞かれたが、思考がぼんやりと霧がかかったように思い出せない。
「何でか記憶が霞がかっているんだけど、そのところは亨に作られた空間にいたってこと?」
「その可能性が高そうですね。」
あまりのことに「そんなあ」と加代子が口を尖らせる。
家なし、職なし、お金なし――。
突きつけられた現実に頭を抱える。
「一度、実家に戻るかなあ・・・・・・。」
幸い財布に身分証も銀行のカードもあるから、最悪、通帳の中身は何とかなるかなと思いながら涙目になる。
「家はここに住めばいいじゃないですか?」
「でも・・・・・・。」
「外は危ないのは、今日、色々と実体験したでしょう? 必要なものがあれば、明日、お買い物にはお供しますよ。」
その言葉に加代子は今日一日の出来事を思い出して、首を横に振った。
「ダメ。 お医者様に安静にっていわれたでしょう?」
「でも、ないとお困りなんでしょう?」
「こ、困るけど、困んないッ!」
出かけると聞いて加代子の脳裡に過ぎったは、雅が剣に貫かれる後ろ姿だった。
血で赤く染る床。
駆け寄る事も出来ない自分。
目の前で崩れ落ちる雅と、その背中越しに見た、地獄の火のような赤い両眼が忘れられない。
別に仕事がなければ、外に出かける理由もないし、一日、二日、篭もりきりでも支障もない。現金は僅かだけど、通販でクレジットカード決済すればいい。引き落とし出来るくらいのお金は、銀行口座に残っていると信じたい。
加代子が項垂れて考え込んでいるから、雅は「加代子さん?」と呼び掛けた。心配そうな雅の様子に、加代子はふっと笑みが漏れる。
「そんな顔しないでよ。生命は無事だったんだし。それにね、私。他のものが無いのより、雅がいなくなる方が困るみたい・・・・・・。」
そして、言ってから、急に気恥ずかしくなった。頬が熱を帯びていく。
雅は目を細め、それから本当に嬉しそうに破顔する。
「嬉しい事をおっしゃるんですね。」
雅の手が頬に触れる。肌を滑る指先はそのまま耳朶をなぞり、擽ったさに首を竦める。
「もっと、しっかり見せて・・・・・・。」
耳元で乞われるように囁かれると、ぞわりと肌が粟立つような心地がして後退さる。
「ん・・・・・・っ。」
下唇を噛んで声を堪えると、益々火がついたのか、そのまま覆い被さってくるように近付いてくる雅に、加代子は為す術もなくソファーへと沈められた。
なんでこのヒト、こんなに自然にこういう事するかなと思う自分と、押し倒されているのに嫌がっていない自分の狭間で心が揺動く。
(ああ、もう・・・・・・。)
まだ出会って二日なのに。どうしてこうも心惹かれるのだろう。
「近い」と一言文句を言えば、雅はまだ待ってくれる。この二日間一緒に過ごしていて、そういう人だと言うのは肌で感じた。
でも、そうする事が不思議と躊躇われて、加代子はそっと目を閉じた。
雅の指先が顔にかかった髪を払う。そして、耳から首筋へと滑らせ、加代子の髪を避ける。そして、その首筋が顕になると指の動きはぴたりと止まった。
「六花の烙印・・・・・・。」
恐る恐る加代子が目を開くと、雅からはさっきまでの甘やかな雰囲気は霧散しており、険しい表情をしている。
「雅・・・・・・?」
「加代子さんの魔法はこれのせいですね。」
その声が凍るように冷たくて、加代子は息を飲んだ。雅の指先が首筋に触れると、途端に加代子はピリリと痺れるような痛みが走る。
昼間の亨の触れたところだ。
「六花の何・・・・・・?」
「烙印です。黄泉の国の高位の者の所有の証。」
その言葉に加代子はサッと顔色を変えた。手が震える。
「これって消せる・・・・・・?」
今度は雅は首を横に振った。
「消すとしたら、彼の方を斃すか、もっと強力な呪を施すしかありませんね・・・・・・。」
「それって・・・・・・。」
絶望的なんじゃと言いかけて、雅が険しい表情を崩さないから加代子は黙った。
無くならないものは仕方ない。
こうなったのは自分のせいだし、雅を責めるつもりもない。そう逡巡すると、加代子は「何か今後に支障ある?」と訊ねた。
雅は肩をすくめる。
「そうですねえ。」
そう言うと、もし仮に亨の次の彼氏が普通の人だったならと話した。その場合は亨と別れた後の彼氏は関係を持った途端に、一夜にして死んでいく運命になるらしい。
「それって腹上死させるってこと?」
「男冥利には尽きるんでしょうけどね。」
「それ、どんな悪女よ?」
加代子が困惑の色を露わにすると、雅はようやく笑みを零した。
「まあ、僕は《死神》ですし、人の世の理にはありませんし、少し力を削られるだけで腹上死はしないでしょうけど。」
「それ、フォローしてるつもり?」
「フォローではなく、口説いているんですけど。一時的ではなく、このまま僕の所に嫁いで来ません?」
「それはそれで、両親を説得するのが大変そうだとかは考えてくれないの?」
その言葉に雅はククッと喉を鳴らすようにして、「確かに骨が折れそうでね」と笑う。しかし、その表情を見れば、彼が本気で口説いてるのではなく、責任を取ろうとしているのだと感じる。
加代子は甘えるようにして雅の肩に頭を預けた。
「この印、他にも何か問題があるの?」
「そうですね、その印を持っているのは、三界のどこに行っても厄介です。」
人間は兎角、異端な者を迫害する。そして、高天原の者は無垢なるものを愛し、穢れを酷く嫌う。
「それに黄泉の国にあって、その印は《自分は供物だ》と証明する印。」
黄泉の国の者同士の争いに巻き込まれる可能性が高く、魂が滅されるよりもひどい状況に陥る可能性もある。
「ですから・・・・・・。」
しかし、加代子はそこまで聞くと首を横に振る。
「これは私の問題だよ。雅が背負わなくていいの。」
そして、「ただ、一難去って、また一難って事ね」と笑った。
◇
あくる朝。
加代子が目を覚ました時、まだ夜明け前なのか、辺りは青薄闇の部屋で目を覚ました。
いつもと違う部屋に落ち着かなさを感じながら、起きようとすると腰の辺りで自分の手ではない腕に触れてハッとする。
斜め後ろを見ると心地よさそうな寝息を立てて、雅が眠っていた。
(睫毛、長いな・・・・・・。)
最初に出会った時も思ったが、人形みたいに端正な容貌をしている。でも、その実、彼が結構な頑固者で、死神の割に人間味溢れているのも、昨日の口論でよく分かった。
コーヒーを飲み終わり、「怪我人なのだから、自分はソファーで寝るからベッドで寝るように」と言ったのに、雅は頑として首を縦に振らなかった。
その後もどっちがソファーで寝るのか話が平行線になったところで、加代子が「広いベッドなんだから、一緒に寝ればいいじゃない!」と言ってしまったがゆえに、「じゃあ、そうしましょう」とお姫様抱っこされてここまで運ばれてしまったのだ。
(意固地な《死神》さんか・・・・・・。)
加代子を抱きしめるようにして寝ている雅は、とても幸せそうな表情で夢の国の住人をしている。それなのに、加代子がベッドを抜け出そうとすると、実は起きているんじゃないかというくらい腕に力が入るから、うまく身動きが出来ない。
(全く、もう・・・・・・。)
そう思いつつも、雅の程よい腕の重みと、すっぽりと包んでくれるこの感覚は嫌いじゃなくて困惑もする。雅の腕の中には、亨の時には感じなかった安心感と懐かしさがある。しかし、それ故にこの安心できる場所を失う事が怖かった。
《飼い主は誰だかちゃんと覚えてる?》
あの時の亨は心底怖かった。
目を伏せると見据えられた時の恐怖がフラッシュバックしてくる。
加代子は雅を起こさないように気をつけて寝返りを打つと、その胸に深く顔を埋めた。
《黄泉の国にあって、その印は《自分は供物だ》と証明する印。》
昨夜はあれ以上、雅の傷付いた表情を見るのが嫌で、押し殺していた気持ちが湧き起こってくる。
怖くて、怖くて、堪らない――。
六花の烙印が自分を蝕んで、雅が言ったように別の自分になってしまい、自分らしからぬことをしでかすのではと不安になる。
亨は「島崎 加代子」という人間ををよく知っている。
三年も観察していたのだ。
彼はどう言えば自分が甘言に耳を傾けるかを知っているだろう。
加代子が擦り寄れば、その感触に目が覚めたのか、雅は二、三度、ゆっくりと瞬きをした。
「どうかしましたか・・・・・・?」
自分の服をきつく掴んでいる加代子の様子に、宥めるように加代子の髪を撫で梳く。
「嫌な夢でもみました?」
加代子が小さく首を横に振る。そして、一言、「怖い」と呟くと雅は何も言わずに加代子の腕を取り、自分の体に巻き付けるようにして引き寄せる。
「私はいつまで《私》のままでいられるのかな?」
不安そうな、震える声――。
雅は加代子を安心させるようにきつく抱き締めた。
「加代子さんはこれから先も《加代子さん》ですよ。」
加代子のしがみついていた力が少し緩む。そして、少しまだ不安そうな、頼りなげな様子で雅の事を見る。
「迷子にならないよう、僕が案内しますから。案内役が僕じゃご不満ですか?」
加代子が小さく首を横に振る。
窓の外は青空が広がる。空にはいつかのように有明の月がぽっかりと浮かんでいた。
次回、5月21日0時更新予定です。