追憶と遭遇
廂より侍従の彬久の退出を促す声がする。
「そろそろ夜が明けます。」
蔀戸から外を見れば、夜が明ける少し前の青白い光が入ってくるのと、有明の月が白く光っているのが見えた。
雅信が上体を起こすと、隣に横になっていた琴子も目を覚まし、袿を引き寄せながら頼りなげな表情で自分を見つめてくる。
「短夜が、もう明けてしまうようです。」
そう告げて、長い髪を掻きやり、細い肩を抱き寄せれば、荷葉の香りが鼻腔を擽る。
「いっそこのまま夜など明けねばいいのですが・・・・・・。」
しかし、琴子は「明けぬ夜はありませぬ」と聞こえるか聞こえないか、微かな声で返してきた。
「つれないことを仰るのですね。私はあなた一筋だというのに。」
僅かに揺れる燈台の火に、琴子の少し物悲しげな表情が見えた。
「夏が過ぎれば秋が来るのが道理。私もいつかはあなたに忘られる身ですもの。」
後朝のやり取りとしてはよくある流れだと言うのに、雅信は静かに話す琴子が、このまま儚く消えてしまう心地になって、もう一度その腕に力を入れた。
「どうしてそのように悲しいことを仰るのですか?」
しかし、琴子は哀しげな表情を崩さず、首を横に振るばかりだ。来世は蓮の臺に共に生まれ変わろうと約束したばかりだというのに。
「つれないあなたに常に心を焦がす私は、つつめども隠れぬ夏虫のようですね。それとも、そんな夏虫は氷を笑うものとして、お厭いでしょうか?」
そう告げると、琴子は目にいっぱいの涙を浮かべて、ほろほろと涙を流す。
「私こそ、あなたを思って時鳥のように鳴くばかりですわ。ずっとお傍に置いて欲しいと。」
次の一瞬、琴子の姿は、鳥の姿に転じて自らの腕の中から飛び立ち、蔀戸の先の空へと消えいく。
そこに至って、雅はようやくこれが「夢」だと気が付いた。そして、心の奥底に沈めていた感情が溢れてくる。
苦しい。
悲しい。
辛い。
しかし、重く暗い気持ちに沈みそうになったところで、ふわりふわりと蛍の弱い光が近づいてきて、そのまま近づいてくると女体に転じて頭を撫でた。
《大丈夫・・・・・・?》
心配そうな声が頭の中に響いてくる。
その声を頼りに目を覚ますと、頭の上に加代子の掌がのっていて、指先が雅の髪を梳いていた。
「目、覚めた・・・・・・?」
加代子の声に目瞬きで答える。
「だいぶ魘されてたよ。」
膝枕をされたまま、優しく髪を梳いてくれる指先に、さっきまでざわついていた心がゆるゆると鎮まっていく。
「夢見があまり良くなかったんですよ。」
そう話して、加代子の方を見れば、すぐ近くに驚いた表情の彼女の顔があった。
「きゅ、急にこっち見ないでよ。」
雅はくすくすと笑いながら、上体を起こすと、加代子を引き寄せて抱き締める。
華奢な抱き心地と、自分の行動を咎める声色、そしてつれない態度まで、夢の中の琴子のそれと同じだ。
「離して」ともがく加代子の耳許に口を寄せると、「もうしばらく、このままで」と強請る。
加代子は耳を赤くし、ぶるりと震えてそのまま固まった。
「ねえ、離して。もういいでしょ?」
甘え拗ねるような声が在りし日の琴子と被る。
「そう仰らないでください、愛しい人。」
雅は加代子の髪を梳きながら、ひと房手に取ると口許へと寄せる。途端に胸元の加代子が、顔を真っ赤にさせて、腕の中から逃げ出した。
「ちょっと、絶対、寝ぼけてるでしょ!!」
しかし、雅は肩を竦めただけだ。
「表向きは、私が溺愛する妻になったんですから、これくらい慣れてくださいよ。」
「その設定、まだ引っ張るの?」
「引っ張るも何も、つい先程、命懸けの交渉の結果、龍翁も認めてくださる公認の仲になったんですけどね?」
「はい!?」
雅はゆらりと立ち上がり、フラフラと進むと、ソファーに身を沈めた。
「龍翁は、高天原の中でも重鎮の方の一人です。その方があなたの移籍を認めてくださったのですから、もう覆ることはないでしょう。まさかご本人様が自宅まで直接いらっしゃるとは思いませんでしたけどね。」
呆気に取られている加代子に追い討ちをかけるかのようにして、雅は死神界での龍翁の立ち位置を教えてくれた。
「住民票を出したら、官房長官兼、法務大臣兼、外務大臣が直接見に来た感じですので、高天原の新聞にその旨が書かれるでしょうね。」
加代子はみるみるうちに、蒼白な顔色になっていく。
「見出しは《龍翁、部下の恋人を視察》ってところでしょうか?」
「そうなったら・・・・・・。」
「もちろん死神界中に伝えられますね。」
「のおおぉぉぉーーーっ!!」
加代子の声が辺りに響く。
「なんでそんな大事になってるの?!」
「きっと加代子さんの日頃の行いのせいじゃないですか?」
雅はにやりと笑うと「まあ、高天原に新聞はないですけどね」と続ける。
「からかったの!?」
「昨日の悪口の仕返しです。」
「物凄く、焦ったのに!!」
雅は内心「斎に話してる時点で、新聞以上の効果はあるんだが」と思ったが、これ以上、加代子の機嫌を損ねるのは得策ではないなと思って黙っておいた。
その後、軽い朝食を済ませ、雅と加代子がマンションを出たのは、龍翁による急な訪問もあり、昼を回る少し前だった。
貴重品と着替え、化粧ポーチくらいはないと困ると言うので、加代子のマンションへと向かう。
「まさか、こんなことに有休を消化する羽目になるなんて・・・・・・。」
「有休を消化せずに死んだら、それはそれで悔いが残るのではないですか?」
雅のスマホの案内に従いながら、今日は恐ろしく遠回りをして家に向かっている。
「だいたいすぐ近くまで来てるのに、家に着くのはいつになるんだか・・・・・・。」
「そうは言っても、加代子さんの言う通りに行こうとすると、たくさんの人が巻き込まれて命を失うような事件や事故が起こるようですからねえ。」
本来は最寄りの駅からまっすぐ大通りを通って家に向かうのが一番なのだが、そうすると、昨日みたいにブレーキの効かなくなった車が歩道に突っ込んできたり、スプレー缶に引火したビルの爆発事故が起こったりするらしい。
普段ならそんな眉唾な話は無視するのだが、昨日、散々雅に危ないところを救けられた加代子は訝しみながらも雅の言うことを聞かざるを得なかった。
「ここからなら、次の角を曲がって帰るのが最短だけど、あの道は大丈夫?」
「そうですね、まあ、これくらいなら回避出来そうですね。」
「良かった・・・・・・。」
その言葉に安心して角を曲がろうとした途端、雅に急に腕を引っ張られた。
「な、何?」
「足元。」
いつもこの道を使う時には見たことのない、ちょうどマンホールくらいの穴が空いている。
「これ・・・・・・マンホールみたいだけど、マンホールじゃないよね?」
「そうですね、これは時空の歪みの穴ですから、落っこちたら神隠しにあうでしょうね。」
「落ちたら・・・・・・、どうなるの?」
「さあ? 試したことがないので何とも。理論上、三界のいずれかには出られると思いますが、入るのはお勧めしません。スプラッタはお嫌いなのでしょう?」
顔色の悪くなった加代子の心中を慮ってか雅はふっと微笑んだ。
「大丈夫ですよ、時空の歪みの穴はそんなに大きくも開けられないし、すぐに閉じます。コツを掴めば加代子さんでも避けられますから。」
「そんなコツ、覚えたくないんですけど・・・・・・。」
そんな話をしながら、雅に先導されてマンションへと向かう。
「あの白っぽいマンションだけど、もう何もない?」
雅はスマホを操作すると「大丈夫そうですね」と答えた。
「や、やっと着いた・・・・・・。」
加代子はマンションのエントランスへ入りながら、思わず両腕を上げて喜ぶ。
「こんなに家に早く帰りたかったの初めてだよ!!」
「お疲れ様です。」
スキップし出しそうな加代子に案内されてエレベーターに乗りこむと、加代子は四階のボタンを押した。
「達成祝いにお茶くらい淹れるよ。緑茶でいい? こっちだよ。」
加代子はいつも通りエレベーターから降りて、四〇四号室の自宅に向かう。しかし、加代子に招かれて四階に足を踏み入れた雅は、エレベーターを降りるなりサッと顔色を変えた。
「加代子さん、待ってください!」
しかし、加代子は鍵を開けて部屋の中に入っていく。
「加代子さん!!」
手を伸ばしたが、バチッと静電気が走るかのように弾かれ、目の前で金属製の重たい扉がバタンと音を立てて閉まる。
(油断した・・・・・・ッ!!)
恐らく人間界のこのマンションには本来、四階は存在しない。ここは何者かが作り出したよく似た異空間だ。
招かれざる客はこの部屋の中には入れない。
(加代子さん・・・・・・ッ!!)
ドンドンと叩いてみても、強い呪がかかりびくとも開かなくなったドアを前に、雅は悔しくて歯噛みをした。
◇
一方、閉ざされたドアの向こうで加代子は立ち尽くしていた。
「おかえり、加代子。」
加代子を玄関で出迎えてくれたのは亨だった。
「なんで、ここにいるの・・・・・・?」
昨日の昼まで抱えていた愛憎入り交じった感情が一気に膨らんでくる。
「なんでって、ここは俺の家でもあるだろ? そんなところに突っ立ってないで中に入りなよ。」
そう話す亨は、別れを切り出したことなど忘れてしまったかのように、背中に手を回し、押し出すようにして加代子を奥の部屋へと誘った。
パンプスが脱げ、足が縺れる。加代子は奥の部屋を見ると加代子はその場にへたり込んだ。
部屋の中はいつもの住み慣れた空間ではなく、家財どころか、柱や窓もない《何も無い空間》に変わっている。
振り仰げば、亨の後ろ側に不自然に廊下と居間を区切るドアが浮かんでいる。
加代子は喉奥がヒュッと狭くなったのを感じた。
「よく無事に帰って来られたね。」
身体の血の気が引き、ガチガチと歯が鳴る。
これは「恐怖」だ。
それなのに亨の獲物を射るような目から、目を逸らすことが出来ない。
ううん、きっと一瞬でも目を逸らしたなら、肉食獣に喉笛を噛みつかれて死んでいく草食獣のように殺られるのが分かった。
亨が一歩、また一歩と近づいてくる度、加代子はずりずりと、奥へ奥へと這って逃げる。
「そんなに怖がらなくてもいい。ずっと一緒に暮らしてきた仲だろう?」
亨の手が伸びてきて、腕を捕まえる。
怖い――。
唇を噛み締める加代子の頬に、亨が片膝を折り、そっと触れてくる。それがとても嫌なのに加代子は指先ひとつ動かせなかった。
「君の事は、俺が一番よく知ってる。違うかい?」
亨は掌を加代子の顎に滑らせて、上に向かせる。
「飼い主は誰だかちゃんと覚えてる?」
恐怖で固まっている加代子に「勝手に逃げ出さないように、きちんと首輪を付けなくてはね」と嗤う。途端、火傷したような痛みがして、加代子は顔を歪めた。
「ああ、その顔、とても綺麗だ。」
亨は嬉しそうに笑うと、加代子に口付けをしようとする。しかし、その瞬間、玄関先で「バチンッ」と音がした。
亨の顔が険しいものに変わる。
「悪い子だね、一体、何を連れてきたんだい?」
そして、亨は忌々しげに玄関の方へと向き直った。
「先に、あちらを片付けるか――。」
亨の意識がそちらに逸れたせいか、金縛りにあっていた身体が自由になる。加代子は震える手で咄嗟に胸元のネックレスを握った。
《加代子さん! 聞こえますか?!》
頭の中に雅の声が響いてくる。加代子は自分の身体に一気に血の気が戻ってくるのを感じた。
《昨日のネックレスを握ってるなら、「いらっしゃい」って言ってください!!》
「いらっしゃい・・・・・・?」
切羽詰まったような雅の声に促されて、加代子が雅の言葉を繰り返すと、ドアが音を立てて勢い良く開き、強い風が玄関から吹き込んできた。
次回、5月19日更新です。