死神協会日本支部
明らかに急に思い立ったかのような、雅の「付き合って」宣言から小一時間後、雅と加代子は表参道を歩いていた。
雅は何も言わずに、昔は川が流れていたというキャットストリートを進み、しばらくすると一軒の建物の前で立ち止まった。
当然後ろを歩いていた加代子はつんのめるようにして立ち止まる。もう少しで雅の背中に追突するところだった。
「ちょっと、急に立ち止まらないでよ。」
ムッとしながら一歩下がって、雅を見上げると、「仕方ない人だなあ」と言いたげな顔をしている。目の前のビルには蔦がわずかに壁を這っていて、窓のところには丸みを帯びたフォルムの柵がついていた。
「また、ぼうっとしてるんですか?」
思わずその言葉に右頬の目の下あたりがひくついてしまう。
「行き先を何も言わずにここまでやって来ておいて、それを言うの?」
「加代子さんって本当に面白いですよね。付いてきてと言っただけで、何も聞かずに刷り込みされたヒヨコみたいについてきちゃいますし。しかも、しょっちゅう死に掛ける運命のようですし。」
「死にそうになるのは私の責任じゃないんですけど!」
「分かっていますよ。心底、不運なだけだって。」
くすくすと笑いながら雅は一段高くなっているに上がる。そして、ガラス戸を開けて建物の中に入ると、加代子を手招いた。
「どうぞ、こちらに。」
慣れた様子で進む雅の後について、加代子も廊下を進む。建物の中の雰囲気は区役所みたいに、いくつかのブースに分かれていて、中で整然と事務員が事務処理をしていた。天井は意外にも高く、丸い覆いのついた白熱電灯が辺りをほのかに照らしている。
「ここは?」
「ここは死神協会日本支部の事務所ですよ。」
「そんなのが表参道にあるの?」
呆気に取られていると、雅は小さく喉を鳴らして笑った。
「あっちゃダメですか?」
「いや、ダメってわけじゃないけど・・・・・・。」
しばらくはコツコツと雅の革靴の音が反響して廊下に響きわたっていて、加代子はその後を雛鳥みたいにくっついて歩いていたが、やがてその音は闇に溶けて止んだ。
「今度は何?」
「あちらで書類書いてきてください。手続きをしていただきます。」
「手続き?」
「ええ。」
そこにあるのは区役所にあるような台だ。加代子は階段下にある台のところへと進んだ。
「どれを書くの?」
「人間界でも結婚前に戸籍を移しますよね?」
「そんな事、結婚準備サイトに書いてあったような気もする。」
雅は「これはそれと同じようなものです」と話した。
「これを書くとどうなるの?」
「その書類を書いて提出すれば、加代子さんは晴れて高天原の住人です。」
「高天原?」
加代子が訊ねれば「平たく言えば、一旦、死んでいただきます」と雅が言う。
「じゃないと、いくら助けても死んじゃう運命にあるみたいですし。」
「はい?」
「このままじゃ、本当に死んじゃうんですよ? そんなに死に急ぎたいんですか?」
「いや、死に急ぎたいわけじゃないけど。」
「じゃあ、これを書いて、死んでください。」
苛立った加代子はすうっと息を吸い込む。
「さっきから言ってる事、矛盾してるんですけど!」
耳元で叫ばれたから、雅はわざとらしく両耳に手をあてがった。そんな雅の様子に加代子は頬を膨らませる。
「ここまでくる間だって、いっぱい助けてくれたじゃない? 同じように助けてくれるのじゃ、ダメなの?」
雅は真面目な顔になって、首を横に振った。
「正直、これ以上は私の身がもたないんで、勘弁してほしいです。」
「そんな! 一回助けるのも、二回助けるのも同じだって言ってたじゃない。」
「まあ、最初はそう思っていたんですけどね・・・・・・。」
加代子が膨れっ面になるから、雅は小さく肩を竦めた。
「そんなに怒らないでくださいよ。こちらだって想定外な事が起きてるんですよ。」
「でも、急にこんな所に連れてきて、言うことが《死んでください》って・・・・・・、どうなのよ?」
ふてくされてる加代子の様子に、雅は「参ったな」といった顔をする。それからスマートフォンを取り出すと「この小一時間で三回だけでも命に関わる事が起こってます」と時計で見せてくれる。
「実に十分に一回ペースです。しかし、私も四六時中、あなたに付きっきりという訳にはいきませんし・・・・・・。」
渋谷で車が歩道に突っ込んできた事故の他、この死神協会に着くまでに、雅に予告された通り電車の近づいてくるプラットホームから線路へと落ちそうになったり、表参道に着いても歩道橋の階段から突き飛ばされて、段の一番上から一番下まで落ちそうになったりした。
「原因は不明ですが、葦原中国に生きてる限り、あなたは少しでも目を離せば死んでしまうでしょう。」
「だから、甘んじて死ねと? せっかく打開策を考えてくれるのかと思って、信用して、ここまで付いてきたのに。」
「それなら安心しました。こんなに助けているのに、まだ信用されていなかったら、さすがに凹むところでしたよ。」
雅がそう話しながら、スマートフォンのディスプレイを見て眉を顰める。
「加代子さん、一旦、こちらへ。」
険しい表情で雅はおもむろに加代子の肩に手をかけると、書類を書いていた台から離れるように促した。
「何? どうかしたの?」
「ええ、今度は頭の上に植木鉢が降ってくるらしいですよ?」
「え、ここ、高天原なんだよね?」
「そうですね。」
「部屋の中なのに、どこから降ってくるのよ、そんなもの?」
「さあ? そこまでは分かりません。しかし、降ってくるのは必然ですから。こちらに来て下さい。」
「はいはい。でも、あと、もう一箇所、名前を書くだけだから待ってよ。」
しかし、不意に不自然な影が落ちてきて、上を見上げる。そこにはちょうど雅が言ったように、階段の上から植木鉢がスローモーションで落ちてくる様子が見えた。
「あ。」
出せた声はそれだけで、思わずそのまま見入る。一方、雅も植木鉢の存在に気が付くと、書類に手を掛けたまま固まっている加代子の腕を捕らえて、強く引き寄せた。
数秒後、加代子の目の前を植木鉢が掠めて床に落ち、ガシャンと鈍い音が辺りに響く。加代子は目を丸くして固まった。
「加代子さん、大丈夫ですか?」
「うん・・・・・・。」
「参りましたね。ここに来てもこんな事が起こるなんて。」
そう言って雅が階段上を見るから、加代子もつられるようにして階段上を見る。しかし、そこにはもちろん誰もいないし、何もない。
「連続ではこないところを見ると、もう大丈夫ですかね。」
その言葉にホッと気が緩んだ加代子は、今更、雅に肩を抱かれている事に気が付いた。雅の腕を持つと、ゆっくりと解く。一方の雅は不思議そうな顔をした。
「加代子さん、どうしました?」
「こんな事ぐらいじゃ絆されないんだから。」
加代子はそう言って顔を背けたが、耳を少し赤くしているのもあって、照れ隠しの憎まれ口を言っているのは誰の目にも明らかだった。
「今朝まで何ともなかったのに、こんな風になってるのはあなたに会ってからだよ?」
そうは言ってみたものの、何回も体を張って助けてくれている雅に悪い気もして、加代子はチラチラと雅の顔色を伺う。
「不安なのは分かりますが、この事務処理が片付いたら、きちんと説明します。話は最後まで聞いてから判断しましょう、ね?」
「今度は、子供扱い?」
「されたくないなら、今は黙って説明を聞く耳を維持しておいてください。」
加代子は不貞腐れた表情を向けたが、ロビーが騒然とし始めたのを見計らって、縫うようにして雅は別の筆記台へ向かうと、一枚の書類を手にして加代子に見せた。ゴシック体で記載された文字は「死神界居住申請」と並んでいる。
「それ、何?」
雅はやれやれといった表情で加代子にボールペンを渡す。
「住民票みたいなものです。ひとまずこれに名前と現住所を書いてください。」
加代子は、渋々ボールペンで空欄を埋めていく。
「この、新住所の欄はどうするの?」
「そこはこちらで記載します。」
空欄が埋まったのを確認すると雅の手が書類を奪っていく。
そして、さらさらと新住所を書き足し、もう一枚別の書類を書くとスタスタと窓口に持っていき女性事務員に書類を渡した。
「ちょっと、待って。植木鉢の件は放っておいて良いの?」
「こちらが先です。」
置いてけぼりにされるのが嫌で、加代子はその背中を追いかける。隣までいくと、雅の気迫に押されたらしい事務員が書類を持って奥へ行く。雅は険しい顔つきで事務処理が終わるのを見つめていた。
加代子は「説明してよ」と言おうと思ったのに、雅の表情がとてもそんなことを言えるような雰囲気ではなく、真剣な顔つきだったから黙って一緒に待つ。
「これが上手くいったら、事情を話しますね。」
加代子が黙っていると、雅は心中を読んだかのように答えてくれた。
「分かってる。しっかり説明してよね?」
「ええ、もちろんです。」
雅ににこりとされると、加代子は何故だか悪い気はしなくて、もう少しその笑顔を見ていたいような心地になる。そんな自分の気持ちに加代子は戸惑った。
それからしばらく二人で待っていると、先ほどの事務員とは別の事務員がプリントアウトした書類をもって戻ってきた。
「島崎 加代子さんですか?」
「は、はい。」
「それと、後見人の時任 雅さん?」
「はい。」
「今回は生存中ながら移住をご希望と記載されていますが。」
「はい。」
「もう少し申請理由をお伺いしても?」
「ええ、いいですよ。彼女とは前世での婚約者でして、生存中ではありますが彼女は婚約中。という事でこれを機に籍を入れて、死神界に移住させたいんです。」
それには加代子だけではなく、事務員も驚いたようで目を丸くした。
「あ、あの、あなた、死神ですよね?」
「そうですよ。」
「か、彼女は、生存中ですよね?」
「そうですね。」
「もう一度聞きますけど、申請理由は?」
「平たく言えば婚約をしていて、離れ難いから結婚してしまおうって話ですよ。」
事務員の目が泳ぐ。雅が手を伸ばして髪を撫でてくるから、加代子も口をパクパクとさせる。
「彼女、しょっちゅう危ない目に遭うんですよ。私は心配で、心配で。だったらいずれこちらに来る魂ですし、いっその事、住所だけでも移してはと思いまして。」
「いやいや!」
「何か問題ですか?」
「死神は生存者に干渉したらダメって協会の規則があるの、ご存知でしょう?」
事務員の言葉に加代子は雅を不安げに見つめた。
「そうですね。できれば《鬼籍》に入らないまま、保護できる対象としてこちらに居られる方法があると嬉しいのですが、他に何か方法はないですか?」
「《一時預け》ならともかく、そんな方法あるわけないじゃないですか。」
口をパクパクさせてる加代子を余所に、雅は「そうおっしゃらずに」と優しい笑顔を事務員に向けた。騒がしいロビーと窓口の様子に気が付いたのか、奥の扉から現れた男性がカウンター近くにやってくる。
「どうかしましたか?」
雅と同様、上質な灰色のスーツに、チャコールグレイのフレームのメガネを掛けていて、髪と瞳はアッシュな色合いだ。
「灰峰支部長!」
「こんにちは。支部長。」
灰峰は戸籍・住民課の窓口前に立っているのが雅だと気がつくと、苦々しげな表情になった。
「時任? なんで、こんなところに?」
事務員の女の子が目を丸くする。
「支部長、お知り合いですか?」
「ああ、顔見知りだ。それはそうと、うちの事務員をいじめないでくれないでください。」
「いじめてなんていませんよ?」
ぺらりと事務員の前におかれた書面を手に取ると、さっと目を通し、加代子の方をじっと見据えるように見つめてくる。加代子は雅の背中に隠れるようにした。
「彼女は?」
「私の婚約者です。」
その言葉に灰峰の眉間の皺は深くなる。
「申請理由は?」
「婚約者が危険な目にあって心配だから。」
「冗談は四月一日だけにしてもらえると嬉しいんですが?」
「真面目な申請ですよ?」
「彼女、生存中でしょう?」
「ええ。」
「『ええ』って分かっているなら、無理なのもお分かりになるんでは? 普通、生存中移住が認められるのは、本来寿命じゃない魂が、幽体離脱していたり、臨死体験していたり、《一時預け》とする場合にのみ認められている緊急措置です。それにどう見ても彼女はピンピンしてるじゃないですか。」
「それが、彼女、何度、回避してもすぐに死んじゃう運命にあるんですよ。この小一時間でもう四回も助けたくらいですし。」
その回数の多さに灰峰もぴくりと片眉を動かし、真剣な顔付きになる。
「小一時間で四回?」
「ええ。先ほども筆記台のところで植木鉢が降ってきましたよ。」
「分かりました、ひとまずあちらのブースへおかけください。」
そうして促されたのは、衝立のある相談ブースだった。
◇
「約七分ごとに死にそうになる魂なんて、魂の管理に落ち度があるんじゃないですか?」
席に着くなり、雅が口火を切る。
「もし、仮に魂の管理に落ち度があれば、責を問われるのはそちらですよね?」
雅が流麗な笑みを浮かべて問うと、灰峰は顔を引き攣らせ、あからさまに嫌な顔をする。
「何が起こってる?」
「それが分からないから、事情を聞くために彼女を死神界で保護したい。人間界では、無防備過ぎて守り切れそうにないんでね。」
「分かりました・・・・・・。今回は支部長権限で彼女の申請を許可しましょう。」
「支部長?!」
ことの成り行きを見守っていた事務員の女の子が目を丸くしてる。
「構わない、私が決裁印を押して上にも事情を話すから、ひとまず、このまま、事務処理をしてやってくれ。」
「畏まりました。」
事務員は踵を返して書類発行をしに机に戻っていく。
「できれば《鬼籍》に入れたくないんですけど・・・・・・。」
「それは無理だな。」
「里帰りを求められたら、後からでも人間界に戻せますかね?」
「こうなった原因の《犯人》を捕まえてから、本部と相談になるかと。」
「まあ、この際、仕方ないですね。」
「こちらの落ち度ではないと証明してくれるんでしょうね?」
「ええ、私も死神生命が掛かってますし。そのついでですけどね。彼女の魂を追ってくるものを探れば、そちらやこちらの落ち度ではないと証明できるでしょうね。」
灰峰は一つため息を吐いて、雅の背中に隠れるようにしていた加代子に挨拶をする。
「はじめまして。島崎さん。」
「は、はじめまして。」
「選りによって時任に捕まるなんてあなたも不憫なヒトですね。」
憐みいっぱいの目で見つめられる。
「違いますよ。加代子さんに私が捕まったんです。」
「それはあり得ないでしょう?」
「それがあり得たから、彼女を禁を犯してでも助けているんです。」
「どういう事です?」
「人間界の電話が死神界の携帯につながった。」
雅は自分の携帯電話を取り出すと灰峰に見せた。どうやらそちらには自分の着信履歴が残っているらしい。
「そんなバカな――ッ?!」
「そんなバカな事に繋がったんですよ。ねえ? 加代子さん。」
加代子はこくこくと頷く。
「ランダムに押したら繋がっちゃったんです。」
「ね?」
「それ、『ね?』で済まない話じゃないでしょうッ!?」
「ええ。ですので、本部にそれも合わせて報告お願いします。」
「うっわ・・・・・・、面倒事に巻き込まれた・・・・・・。」
灰峰か頭を抱えると、雅は最初に会った時と同じように、ニッコリと微笑んだ。
「犯人は必ずつきとめますから。」
雅がにっこりとして言い切るから、灰峰は呆れた表情になった。
◇
死神協会日本支部をあとにして、雅の後について外に出ると桜の花びらがどこからか舞ってきていた。
「電話が繋がったのって、そんなに問題なの?」
「そうですね。大問題です。」
「そうなんだ。」
「先ほどは支部長を巻き込んだ方が早いと思ったので、加代子さんの携帯電話が、私の電話に掛かってきた旨を話しましたけど。そんなわけで他の人には言わないでくださいね。」
「そういえば、灰峰さんだっけ? 確かに驚いていたね。」
「ええ。本来ならあり得ない事ですからね。それと、この不測の事態をあまり吹聴してしまうと、あなたを狙っている犯人がわからなくなるので注意してください。」
加代子は不意に雅のスーツの裾を引いて、引き止めた。
「もう一つ、まだ分からないんですけど。」
「何です?」
振り返って怪訝そうな顔で首を傾げる雅に、加代子は肩を竦めながら訊ねる。
「携帯電話が繋がった事を隠したいのは分かるけど・・・・・・。」
「なんで婚約や結婚なんて言ったのかって事ですか?」
雅の声にこくりと加代子が頷く。
「一緒に同棲するのですし、死神界に籍を置くなら、筋が通る事を言っておいた方がいいかと思いまして。」
「は?」
「ですから、《死神界に籍を置くなら、筋が通る事を言っておいた方がいい》と言ったんです。」
「そ、その前!」
「《一緒に同棲するのですし》ですか?」
「誰と誰が?」
「あなたと、私ですけど?」
「え、ええっ?!」
大げさに驚く加代子に雅はくすりと笑う。
「本当、いちいち、良いリアクションをしますね。」
「ちょっと。」
「あ、今日は嘘じゃないですよ? 誰がいつ加代子さんを狙ってくるのか分かりませんから。その為に一緒に行動していただくだけです。」
「だけって・・・・・・。」
死神というのは、みんなこんな風にゴーイングマイウェイなのだろうか。