蟷螂と蝶
加代子は深い闇の中にいた。
しかし、不思議と怖くはない。ただどこへ行けるわけでもなくて、加代子は真っ暗な中、きょろきょろと辺りを見回した。
すると、どこからか琴の音が聞こえてきて、目を凝らす。遠くに仄かな明かりと人影が見える。加代子は琴の音の聞こえる方へと足を運んだ。
近付くとそこには《自分》がいて、色鮮やかに根の国の邸のような景色が広がる。
いや、違う。邸の造りは根の国の邸のものとは違っているし、あそこにいるのも《自分》ではない。
「琴姫とは言ったものですね。」
御簾を上げて、琵琶を片手に持った雅が入ってくる。直衣を着てはいるが素戔嗚尊の前などとは違って、少し気崩していて、しどけない姿だ。でも、それが不思議と艶めいて見えて、加代子は目を奪われた。
雅は加代子の立つすぐ傍に座り、自分によく似た琴子と琵琶を奏でる。その目は優しく、楽しげで、今のような翳りはない。
懐かしく、とても大切な思い出。加代子はこの記憶が《自分》のものではないことに、途中で気がついたが、「この時」「この場所」に戻りたくなった。
「・・・・・・子さん、・・・・・・代子さん。」
起こさないで。
まだこの穏やかな日々の思い出に浸っていたい。
しかし、夢の中の雅にも「この後、用事がありまして、そろそろお暇致します」と言われる。加代子は渋々と目を覚ました。
「目は覚めましたか――?」
夢の中と同じような口調のまま、でも、至近距離で言われたから、加代子は驚いて目を見開いた。どうやらいつの間にやら雅に膝枕されていたようだ。
あたりはすっかり夕闇に包まれていて、仄かな燈火の火で室内は淡く照らされている。外は残光のためかまだ青薄闇であったが、それももう少ししたら漆黒に変わるのだろうと思われた。
膝枕をされたまま固まっている加代子に、雅はくすっと笑って唐草模様の痣の入った手で頭を撫でてくる。
「寝坊助さんですね。こんなに眠るとさすがに小笹に怒られますよ?」
「それは、ちょっと困るかも・・・・・・。」
加代子が眉尻を下げて答えると、琴子に見せていた無邪気な笑みとは違い、少し翳りのある笑みを浮かべる。加代子は雅の表情の違いに戸惑った。
「膝貸してくれてありがとう。」
「どういたしまして。」
「でも、ごめんね。小笹にも伝えてはいるんだけど、何故だか眠たくて仕方ないの。」
「根の国に来て、なんだかんだ一週間近いですし疲れが出てるんでしょう。ここは現世とも高天原とも時の流れが違いますから。」
仮にここでひと夏を過ごしたら、外はクリスマスの時分になると教えられる。
「まだ少し素戔嗚尊にお伺いしたいことがありますが、そろそろ現世に戻らないと加代子さんの身体に差し障りが出てきていますね。遅くとも明明後日の夕方には帰りましょう。」
雅の首元にはいつの間にか綺麗なオレンジ色のヘッドのついたペンダントをしている。
「それ、どうしたの?」
一瞬キョトンとして、それから「ああこれですか?」とペンダントを示す。
「今朝はそんなのしてなかったでしょ?」
「ええ、火産霊神からの陣中見舞いですよ。家に帰っても落ち着かないだろうから、と。」
その言葉に「家に戻れるの?」と訊くと「ええ、愛宕のマンションに戻りますよ」と言う。加代子は一瞬口ごもると「そっか」と相槌をうった。
「帰りたくないですか――?」
雅が尋ねると、加代子は首を横に振り、「そうじゃないの」と答える。
「ただ、素戔嗚尊が、また悲しむんじゃないかと思っただけ。」
大の男の人があんなに泣いて喜ぶ姿を、加代子は見たことがなかった。自分を須勢理と呼び、慈しんでくれる素戔嗚尊を、雅のことはあるにせよ、加代子は嫌いになれなかったのだ。
「不思議だよね。全然知らないのに、凄く知ってる心地がするの。」
子供に甘くて、彼氏に厳しくて、涙脆くて。
「本当、お父さんと一緒・・・・・・。」
実家は近いようで日帰りするのには遠くて、お正月からこっち、殆ど帰れていないし、最近は連絡さえも入れられていない。
これまでは自分の事で必死で、雅と一緒にここまで来てしまったけれど、今更ながら家族たちは「きっと心配してるんだろうな」と気が付いた。
憂い顔になった加代子に、雅は「ホームシックみたいですね。向こうに戻ったら、加代子さんのご実家に挨拶に行きましょうか?」と話す。
「え? いいの?」
「もちろんですよ。」
「うちのお父さん、多分、態度悪いと思うよ?」
亨と付き合うさらに前、同級生の男友達と遊園地デートしただけなのに、「今度、家に連れてきなさい」と言われたのは、ある意味、黒歴史だ。
「それに口煩い兄と、口喧しい妹もいるの。きっと雅を見て、大人しく話聞いてくれるのはお母さんくらいかも。」
それだって、似た者夫婦だから、一人暮らしを決めた時のように頭ごなしに反対する可能性もある。けれど、雅は「それは楽しそうな御家族ですね」と口溶け滑らかなアイスクリームみたいにふんわりと笑った。
「面倒じゃないの?」
「いいえ、全然。それに、なにせ誑し込むのだけは上手いと火産霊神のお墨付きですよ?」
「それ、褒められてないと思うんだけど・・・・・・。」
呆れながら「それはそうと、そろそろ起きるね」と言えば、「そうですね」と返される。そして、加代子が少し距離を取ろうとすれば、雅はその小袿の袖を捕らえらて、加代子を床に組み伏せた。
「ちょっと、何するの?」
加代子が抗議をしても雅は悪戯めいた瞳でニコリと笑うばかりだ。
「雅・・・・・・?」
そこからは、酷くスローモーションに感じて加代子は目を見張った。
甘えるように優しく啄まむような突然のキスに加代子は驚いて、目を丸くする。何とか抗議しようと雅の胸を叩く。しかし、その手首さえも雅に捕らえられ、逆に組み伏せられていく。
逃れられない――。
逃げ惑う加代子を追い立てるように、その口付けは徐々に奥深くなっていく。
あえかに声を立てても、それは止まず、加代子は肩で息をする羽目になった。まるで筺に閉じ込められた鳥のように、もがいても、もがいてもその中からは抜け出せない。
「み・・・・・・、や、び・・・・・・。」
雅の名前を喘ぎながら呼べば、慣れた手付きで単衣と小袖の間に手を差し伸べたかと思うと、着るのはあんなに大変だったのに、ほんの一瞬で加代子は小袖姿に引き抜かれてしまった。
何でこんな事になったんだっけ――?
だんだんと互いの呼吸は荒くなって、長袴の帯も解かれる。それが本当に流れるような速さだったから加代子はただただ驚いていた。
脱ぎ散らかされた服は、花占いで花弁を散らした時のようで、雅の少し熱っぽい瞳に見つめられると、気恥しさと愛しさが湧いてくる。
荒々しく、でも、懇願するように繰り返し唇を重ねられると、加代子は不思議と嬉しく思う。
ああ、もう――。
何でこうなったかなんてどうでもいい。このまま彼に縫い止められていたい。
捕まって標本にされる蝶のように。
加代子が夢中になって雅のキスに応えれば、上気した首元にくっきりと雪の結晶の形の痣が浮かび上がる。ちくんちくんと痛む痣を見ると、雅は目を細め、眉間に皺を寄せて苦悶の表情をした。
胸元のオレンジ色の玉が眩く輝き、拘束が解かれる。我に返ったのか、雅は息を荒らしくしながらも雅は譫言のように「ダメだ、加代子さん、離れて」と呟いた。
初めはホームシックになってる加代子を慰めようと思っていただけで、少し、驚いた彼女を見たら離そうと思っていたのに、彼女を組み敷いたら止まらなくなった。
顔を近付けたら唇を重ねたくなり、唇を重ねたら奥深く貪りたくなる。
理性がうまく働かなくて、今だって火産霊神のペンダントがなければ止まれなかったであろう。
加代子に「驚かせましたね」と言って身を引こうとすると、逆に雅を逃がすまいと、加代子がその首に手を掛けてくる。
「加代子・・・・・・さん・・・・・・?」
甘い愛の言葉など要らない。
加代子は雅の額に、耳に、唇に、と唇を寄せる。ここにあるのは切ないまでの恋心と、燃えるような熱情、そして、彼のものでありたいと思う服従心だった。
「ねえ、半分こにさせて?」
今、雅を欲しているのは、須勢理でも琴子でもない。加代子なのだ。
このまま、押し寄せる波のような激情に流されてしまえばいい。そして、ただ自分だけを求めればいい。
加代子が「辛いのも苦しいのも分けて」と強請るから、雅はその腰に手を回し、きつく彼女を抱き締めた。
彼女に触れ、彼女に触れられ、確かに自分はここに存在ると感じる。それはとても甘美で、とても狂おしい。
このまま、奥まで入り込んで、彼女の全てを手に出来たなら。
生唾を飲み下すとゴクリと喉が鳴る。その喉にも甘えるように加代子の唇が落とされる。
やっとの思いで火産霊神の首飾りで再起動させた理性も、もはや風前の灯火だった。
黄泉の唐草が心を蝕む。
一度点いた火は消えない。彼女が欲しい。彼女を狂わせたい。いや、ダメだ。そんな事は望んでいない。
護りたいと思う心と、無茶苦茶にして壊したいと思う心。相反する感情がぐるぐると渦巻き、このまま雰囲気に飲み込まれそうになる。
攻守はいつの間にか入れ替わり、雅のシャツのボタンがひとつずつ外されて、素肌が現れると、甘える猫のように擦り寄り、唇を寄せてくる。
喉、鎖骨、胸元。愛おしくて堪らないと言わんばかりに上から滑っていく加代子の唇を引き剥がすようにして、噛み付くようなキスをする。
余裕なんて全くない。
あるのは血に飢えた野獣のような渇望感と、身をこがすような恋情、そして、誰にも渡したくないという支配欲。
なるほど大鎌持ちで蝶を喰らう自分は、確かに蟷螂が似つかわしい。
ああ、もう――。
何でこうなったかなんて、どうでもいい。このまま彼女を貪っていたい。
雅の右手の唐草は容赦なく二の腕から肩にかけてまで達していく。それでも雅は構わなかった。彼女を手に入れるためなら、《鬼》にでも《夜叉》にでもなろう。
夜の帳が下りてくる。
雲の垂れ込む今夜は闇夜だ。油の切れた燈火の火が小さくなっていく。それでも雅も加代子も厭わなかった。
今は、互いの温もりだけあればいい。他のものは邪魔だ。
煽られた心の火は、ばちばちと爆ぜる。心が急いて加代子を責め立てれば、怖気づいたのか「待って」と加代子が身を捩る。しかし、雅はわざとその声を聞かぬふりをした。
腹。腰。脚。和琴を折る手で奏でるようにして触れれば、胸元に顔を填めている加代子が甘く囀る。
いっそ、このまま夜が明けなければいい。
いつだったか琴子にそう告げた時よりも、雅は心の奥底から思う。
加代子の肌にはそこかしこと小さな赤い花が咲き、どれが六花の刻印なのか分からなくなる程になれば、互いの息遣いさえ混ざり合い、どちらが高みに登って、どちらが堕ちているのかも曖昧になる。
互いの欲望をさらけ出して、醜くも美しい恋情に身を任せれば、今も昔も魂も魄も溶けてひとつになる。
加代子は津波のように繰り返し押し寄せる心地良さにただ喘ぐばかりだった。
やがて雲間から月が顔を出し、欲と汗と快楽に塗れた二人を照らし出す。
御簾の合間から入り込む青白い光が、床に転がった護りの蟷螂と蝶を照らし出す。
蟷螂に喰われる蝶が不幸だなど思ってはいけない。飢えた蟷螂の前に餌があれば、蟷螂は狩りをする。それは必然で、摂理だ。
雅は加代子に喰らいついた。
次の更新は6月2日0時です。




