知育玩具
これは、去年の夏に私が体験した出来事である。
私は専業主婦で、小学一年生と保育園年中の息子がいる。
家計にはあまり余裕がなく、子供たちにおもちゃを買ってあげられることは多くなかった。
ある日、親戚の子供が病気で亡くなった。
遺品整理をしている最中、その子が大切にしていたおもちゃを捨てるのは忍びないので、いくつか引き取ってもらえないかと連絡があった。
ありがたく譲り受けることにし、息子を連れて親戚の家を訪ねた。
子供が気に入ったおもちゃをいくつか持ち帰ったのだが、その中に、今回の出来事の原因となるおもちゃがあった。
それからしばらくは何事もなく時間が過ぎ、季節は夏を迎えた。
例年を上回る猛暑が続き、寝苦しい夜が続いていた。
まさか、その暑さとは正反対の、背筋が凍るような体験をすることになるとは、この時は思ってもいなかった。
その夜も、いつものように扇風機の生ぬるい風を受けながら眠っていると、隣の部屋から、ある音が聞こえてきた。
「あ」
ひらがな一文字が読み上げられ、そのあとに軽快なリズムが流れる。
親戚から譲り受けた知育玩具だった。
ひらがなのボタンを押すと、女性の声で文字を読み上げ、画面には書き順どおりに文字が表示される。
ひらがなだけでなく、濁音や半濁音まで学べる、小さな子供向けのおもちゃである。
その音が、誰も触っていないはずなのに聞こえてきた。
何の音だろう、と半ば苛立ちながら起き上がり、隣の部屋へ向かった。
すると、おもちゃの電源が入っていた。
たくさんのおもちゃの下敷きになっていたので、何らかの拍子にスイッチが押されたのだろうと思った。
電源を切り、そのまま寝室へ戻って再び眠りについた。
翌日の夜も、同じように隣の部屋から音がした。
「そ」
また一文字だけ読み上げられ、あの軽快なリズムが流れる。
またか、と思いながら隣の部屋へ行くと、やはりおもちゃの電源が入っていた。
しかし今度は、他のおもちゃの下敷きにはなっていなかった。
勝手に電源が入るとは考えにくかったが、電子機器の故障で誤作動を起こすことくらいはあるだろう。
そう自分に言い聞かせ、おもちゃの電池を抜いてから寝室へ戻った。
ところが、その翌日の夜も音は鳴った。
「ん」
また一文字だけ読み上げられ、同じリズムが流れる。
苛立ちながら隣の部屋へ行くと、またおもちゃの電源が入っていた。
確認すると、抜いたはずの電池まで入っている。
子供が遊ぶために戻したのだろうと思い、電源を切って寝室へ戻った。
翌日、子供たちにあのおもちゃで遊んだか尋ねたが、遊んでいないという。
電池を入れたかと聞いても、「入れていない」と答えた。
子供のことだから忘れているだけだろう。
その時は、本気でそう思っていた。
その日の夜は、寝る前にもう一度電池を取り外した。
これなら、さすがに鳴ることはないだろう。
そう思って床についた。
しかし、深夜を過ぎた頃だった。
「で」
また一文字だけ読み上げられ、軽快なリズムが流れる。
おかしい。
電池は外したはずだ。
動くはずがない。
私は飛び起きて隣の部屋へ向かった。
おもちゃは、確かに動いていた。
裏返して確認すると、電池は入っていない。
その瞬間、背筋が凍った。
電池が入っていないのに、どうして動いているのだろう。
そこで、ふと気付いた。
最初の夜は「あ」。
次の日は「そ」。
その次は「ん」。
そして今日は「で」。
頭の中で四文字を並べた瞬間、全身から血の気が引いた。
「あそんで」
私は悲鳴を上げ、その拍子におもちゃを床へ落としてしまった。
落下の衝撃で電源は切れた。
プラスチックの外装は割れ、中の基板が露出していた。
私の悲鳴と落下音で目を覚ました夫が、慌てて寝室から駆けつけてきた。
私はひどく取り乱していて、何が起きたのかをうまく説明することができなかった。
夫になだめられ、しばらくしてようやく落ち着きを取り戻す。
電池が入っていないのにおもちゃが動いたことを説明したが、「寝ぼけて夢でも見たんじゃないか」と本気にはしてもらえなかった。
子供には申し訳ないと思ったが、このおもちゃだけは処分しようと決めた。
そう考えると少し気持ちが楽になり、その夜は眠ることができた。
翌日、子供がおもちゃで遊ぼうとして、「壊れて動かない」と言いに来た。
昨夜落とした衝撃で壊れてしまったのだろう。
私にとっては、その方が都合が良かった。
新しいおもちゃを買うことを約束し、事情を説明して処分することにした。
おもちゃはプラスチックごみとして捨てた。
これでもう夜中にあの音で起こされることはない。
そう思うと、ようやく安心することができた。
その夜は何事もなく眠れた。
次の日も、その次の日も。
久しぶりにぐっすり眠ることができ、おもちゃのことも少しずつ忘れ始めていた。
ところが、その翌日だった。
ちょうどお盆に入った日だった。
その日、子供が学校で「お盆は亡くなった人が家に帰ってくる日なんだよ」と教わったと話してくれた。
亡くなった祖父母が迷わず帰って来られるようにと、子供と一緒に胡瓜と茄子で精霊馬を作って飾った。
その夜を境に、また異変が始まった。
真夜中だった。
聞きたくもない、あの音が聞こえた。
「さ」
一文字だけ読み上げられ、続いてあの軽快なリズムが流れる。
そんなはずがない。
あのおもちゃは捨てた。
飛び起きて隣の部屋へ向かったが、そこには何もなかった。
疲れているだけだ。
何日もあの音を聞いていたせいで、幻聴が聞こえたのだろう。
そう自分に言い聞かせて、その日は無理やり眠った。
翌日も部屋中を探したが、おもちゃは見つからなかった。
やはり幻聴だったのだと思うしかなかった。
その夜は、音楽を流しながら眠ることにした。
イヤホンから流れる曲を聞いているうちに眠気がやってくる。
ところが突然、音楽が途切れた。
「と」
あの音だった。
慌ててイヤホンを外す。
確かにイヤホンから聞こえた。
もう一度差し直してみても、普通に音楽が流れるだけだった。
巻き戻しても、別の曲に変えても、二度とあの音は鳴らない。
結局その夜は一睡もできなかった。
翌日、家には私一人しかいなかった。
夫は飲み会、子供は友達の家へ泊まりに行っていた。
寝不足だったこともあり、珍しくクーラーをつけて横になった。
テレビを見ているうちに眠ってしまったらしい。
目が覚めると真夜中だった。
電気をつけようと立ち上がった、その時だった。
「し」
また、あのおもちゃの音だった。
そこでようやく気付いた。
「さ」
「と」
「し」
亡くなった親戚の子供の名前だった。
どうして。
捨てたはずなのに。
部屋中を見回しても、おもちゃはない。
「さ」
必死になって探す。
どこにもない。
「と」
音が大きくなった気がした。
いや、違う。
近づいてきている。
「し」
そう気付いた瞬間、背筋が冷たくなった。
「さ」
もう、すぐ近くだった。
「と」
息が苦しい。
鼓動だけが耳の中で鳴っている。
「し」
恐る恐る振り返る。
さっきまで何度探しても何もなかった場所。
そこに、捨てたはずのおもちゃが置かれていた。
割れた外装。
露出した基板。
消えかけた、うちの子の名前。
間違いなく、あのおもちゃだった。
どうしてここにあるのか。
考えようとしても頭が回らない。
電源を切ろうとしても切れない。
私は夢中でおもちゃを掴み、何度も床へ叩きつけた。
そのたびに音は歪み、低くなっていく。
やがて、もう人の声とは思えない音になった。
「あ」
「あ」
「あ」
「あ」
ただ一文字だけを、壊れたように繰り返していた。
何度も。
何度も。
何度も。
そこから先の記憶はない。
早朝、夫が帰宅すると、部屋で気を失っている私を見つけ、救急車を呼んだ。
意識を取り戻した時、目に映ったのは病院の天井だった。
医師の診断は、熱中症による意識混濁。
だが、その日のうちに退院して自宅へ戻ると、部屋には私が叩きつけて壊した、あのおもちゃがそのまま残っていた。
あれは夢ではなかった。
後日、おもちゃは神社へ持って行った。
それ以来、おもちゃが鳴ることは二度となかった。
これが、去年の夏に私が体験した出来事である。
もし、夜中に知育玩具がひとりでに鳴り始めたら。
その時は、読み上げられた文字を忘れないでください。




