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空白の名前

作者: 如月アトリ
掲載日:2026/06/14

 春の終わり、庭の奥で、クレマチスが見事に咲いていた。


 昨秋、伸び放題になっていた蔓を整理したとき、庭師は古い株元を確かめて、これは残した方がいいと言った。かなり前からこの庭にいる株で、場所も悪くない。春になれば、きちんと咲くはずだ、と。

 その言葉どおり、花はよく咲いた。壁際いっぱいに青紫の大輪が開き、咲き始めの濃い色と、日を受けて少しやわらいだ色とが入り混じって、古い品種らしい堂々とした景色をつくっている。


 私はしばらく、その花を見上げていた。

「『H.F.ヤング』だろうな」

 隣に立つ彼が、花弁に触れないよう、茎の下をそっと支えた。

「変な名前ですね」

「変か?」

「人の名前なんでしょうけど、何の略なのか、妙に中途半端で」

 彼は少しだけ目を細めた。

「記録の上では、ホレス・ヤングという人物にちなむとされている。ナーセリーの管理者だった男だ」

「じゃあ、Hはホレスですね」

「そうだ。そこまではわかる」

「そこまで?」

「Fの説明がない」


 彼は花を見たまま、静かな口調で続けた。

「……ホレス・ヤングには、年の離れた若い部下がいた。フランシス――あるいはそれに近い、Fで始まる名前の男だ」

 私は何も言わなかった。

 話があまりに自然に始まったせいで、それがどこかの古い資料に書いてあったことなのか、彼がどこかで拾ってきた話なのか、まだ判断がつかなかった。

「ホレスは責任者で、帳簿や人の管理も含めて仕事をしていた。片や若い作業員だ。普通なら、そこまで深く関わることもない。だが、クレマチスだけは別だった。二人とも、新しい大輪花を作ることにひどく熱心だったらしい」

「へえ……」

「実生からいい花を得るには時間がかかる。交配した年に結果が出るわけじゃない。芽が出るか、蔓が伸びるか、数年後にどういう花を咲かせるか。大半は途中で消える。だから、消えずに育ちそうな苗がひとつでもあれば、それだけで気にかけるには十分だ」

 目の前の青紫の花から、まだ名前もない小さな苗へと、話が静かに遡っていく。

「二人はひとつ、有望な実生を得る。これから育つかもしれない、という程度の段階だが、それでも期待できる苗だった。ところが、そこで戦争が始まる。若い男は召集される。ホレスの方は年齢か役職か、あるいは運で残る」

 彼はそこで一度、花から手を離した。

 花は風に押されて、ゆっくり元の向きに戻る。

「出征前夜、若い男は、家ではなく農園で過ごしたいと言ったそうだ」

「農園で?」

「帰る家がなかったのか、帰りたくない家だったのかは知らない。だが、自分が毎日働いて、土に触れて、水をやって、これから咲くはずの苗がある場所。そこが彼にとって、最後にいたい場所だったんだろう」

 私は彼の方を見た。

「それで、ホレスは?」

「一緒に残った」

 彼は、ごく当然のことのように言った。

「見込みのある実生があるなら、温室のそばで一晩過ごす理由くらい、いくらでも作れただろう」

 私は頷いた。理由なら、たしかに作れただろう。

「二人はその夜、温室のそばで過ごした。話したのは仕事のことばかりだったかもしれない。支柱をどう立てるか、あの苗は来年には咲くだろうか、花色はどう出るだろうか。あるいは、まったく別のことを話したのかもしれない。どちらにしても、言うべきことは何も言わなかった」

「……最後なのに」

 彼は答えず、ただ続けた。

「若い男は戻らなかった。帰ってきたのは戦死の報せだけだ」

 風が少し強くなり、青紫の花がいくつもいっせいに揺れた。

「そして数年後、二人で手がけた実生がようやく咲く。青紫の大輪だった。市場に出すに値する見事な花だ。ホレスはその花を、『H.F. Young』と名づける」

 私は目を上げた。

「……Hがホレスで、Fが」

「帰らなかった若者の名前だろうな」

「じゃあ、世間は」

「当然、自分の名だと思う。ホレス・F・ヤング。いかにもありそうだ。本人も訂正しない。その方が都合がいい。そうして花の名前の中にだけ、もうひとり分の名が残る」

 彼はそこでようやく私の方を見た。

 花の色を映しているせいか、その目はいつもより少しだけやわらかく見えた。

「悪くない話だろう」


 私はしばらく何も言えなかった。

 目の前では、いま咲いている花が風に揺れている。それだけのことなのに、その花が急に、名前を半分だけ与えられた誰かの墓標のようにも見えてくる。

「……それ」

 ようやく声を出す。

「本当の話ですか?」

 彼は一拍置いて、あっさり答えた。

「もちろん嘘だ」

 私は思わず彼の顔を見た。

「えっ」

「全部じゃない」

「全部じゃないんですか」

「この花がH.F.ヤングで、ホレス・ヤングにちなむとされていて、ここでよく育っていることは事実だ」

「そこ以外は」

「ほとんど俺の創作だな」

 悪びれた様子もなく言うので、私は数秒遅れてから、ようやく抗議した。

「……信じました」

「だろうと思ったよ」

「なんでそんな、もっともらしく……」

「Fが空いていたからだ」

 彼は肩をすくめた。

「今回はたまたま、あの花がよく咲いていた。だから、少し気の利いた嘘をついてみただけだ」

 私は呆れたように息をついたが、完全には怒れなかった。

 むしろ悔しいことに、その嘘が妙に美しかったせいで、花を見上げるたびに、もうその話が頭から離れない。

「……そんな話をされたら、もうただの品種名に見えなくなるじゃないですか」

 彼は花を見上げたまま、かすかに笑った。

「それは結構。名前というものは、たいてい、その程度には余分な意味を背負わされるものだからな」


 庭の奥で、古いクレマチスがまた揺れた。

 ただ見事に咲いているだけの花に、いまや存在しない誰かの名残を見てしまうのは、すべて彼の嘘のせいだった。

※本作はカクヨムにも掲載しています。

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