空白の名前
春の終わり、庭の奥で、クレマチスが見事に咲いていた。
昨秋、伸び放題になっていた蔓を整理したとき、庭師は古い株元を確かめて、これは残した方がいいと言った。かなり前からこの庭にいる株で、場所も悪くない。春になれば、きちんと咲くはずだ、と。
その言葉どおり、花はよく咲いた。壁際いっぱいに青紫の大輪が開き、咲き始めの濃い色と、日を受けて少しやわらいだ色とが入り混じって、古い品種らしい堂々とした景色をつくっている。
私はしばらく、その花を見上げていた。
「『H.F.ヤング』だろうな」
隣に立つ彼が、花弁に触れないよう、茎の下をそっと支えた。
「変な名前ですね」
「変か?」
「人の名前なんでしょうけど、何の略なのか、妙に中途半端で」
彼は少しだけ目を細めた。
「記録の上では、ホレス・ヤングという人物にちなむとされている。ナーセリーの管理者だった男だ」
「じゃあ、Hはホレスですね」
「そうだ。そこまではわかる」
「そこまで?」
「Fの説明がない」
彼は花を見たまま、静かな口調で続けた。
「……ホレス・ヤングには、年の離れた若い部下がいた。フランシス――あるいはそれに近い、Fで始まる名前の男だ」
私は何も言わなかった。
話があまりに自然に始まったせいで、それがどこかの古い資料に書いてあったことなのか、彼がどこかで拾ってきた話なのか、まだ判断がつかなかった。
「ホレスは責任者で、帳簿や人の管理も含めて仕事をしていた。片や若い作業員だ。普通なら、そこまで深く関わることもない。だが、クレマチスだけは別だった。二人とも、新しい大輪花を作ることにひどく熱心だったらしい」
「へえ……」
「実生からいい花を得るには時間がかかる。交配した年に結果が出るわけじゃない。芽が出るか、蔓が伸びるか、数年後にどういう花を咲かせるか。大半は途中で消える。だから、消えずに育ちそうな苗がひとつでもあれば、それだけで気にかけるには十分だ」
目の前の青紫の花から、まだ名前もない小さな苗へと、話が静かに遡っていく。
「二人はひとつ、有望な実生を得る。これから育つかもしれない、という程度の段階だが、それでも期待できる苗だった。ところが、そこで戦争が始まる。若い男は召集される。ホレスの方は年齢か役職か、あるいは運で残る」
彼はそこで一度、花から手を離した。
花は風に押されて、ゆっくり元の向きに戻る。
「出征前夜、若い男は、家ではなく農園で過ごしたいと言ったそうだ」
「農園で?」
「帰る家がなかったのか、帰りたくない家だったのかは知らない。だが、自分が毎日働いて、土に触れて、水をやって、これから咲くはずの苗がある場所。そこが彼にとって、最後にいたい場所だったんだろう」
私は彼の方を見た。
「それで、ホレスは?」
「一緒に残った」
彼は、ごく当然のことのように言った。
「見込みのある実生があるなら、温室のそばで一晩過ごす理由くらい、いくらでも作れただろう」
私は頷いた。理由なら、たしかに作れただろう。
「二人はその夜、温室のそばで過ごした。話したのは仕事のことばかりだったかもしれない。支柱をどう立てるか、あの苗は来年には咲くだろうか、花色はどう出るだろうか。あるいは、まったく別のことを話したのかもしれない。どちらにしても、言うべきことは何も言わなかった」
「……最後なのに」
彼は答えず、ただ続けた。
「若い男は戻らなかった。帰ってきたのは戦死の報せだけだ」
風が少し強くなり、青紫の花がいくつもいっせいに揺れた。
「そして数年後、二人で手がけた実生がようやく咲く。青紫の大輪だった。市場に出すに値する見事な花だ。ホレスはその花を、『H.F. Young』と名づける」
私は目を上げた。
「……Hがホレスで、Fが」
「帰らなかった若者の名前だろうな」
「じゃあ、世間は」
「当然、自分の名だと思う。ホレス・F・ヤング。いかにもありそうだ。本人も訂正しない。その方が都合がいい。そうして花の名前の中にだけ、もうひとり分の名が残る」
彼はそこでようやく私の方を見た。
花の色を映しているせいか、その目はいつもより少しだけやわらかく見えた。
「悪くない話だろう」
私はしばらく何も言えなかった。
目の前では、いま咲いている花が風に揺れている。それだけのことなのに、その花が急に、名前を半分だけ与えられた誰かの墓標のようにも見えてくる。
「……それ」
ようやく声を出す。
「本当の話ですか?」
彼は一拍置いて、あっさり答えた。
「もちろん嘘だ」
私は思わず彼の顔を見た。
「えっ」
「全部じゃない」
「全部じゃないんですか」
「この花がH.F.ヤングで、ホレス・ヤングにちなむとされていて、ここでよく育っていることは事実だ」
「そこ以外は」
「ほとんど俺の創作だな」
悪びれた様子もなく言うので、私は数秒遅れてから、ようやく抗議した。
「……信じました」
「だろうと思ったよ」
「なんでそんな、もっともらしく……」
「Fが空いていたからだ」
彼は肩をすくめた。
「今回はたまたま、あの花がよく咲いていた。だから、少し気の利いた嘘をついてみただけだ」
私は呆れたように息をついたが、完全には怒れなかった。
むしろ悔しいことに、その嘘が妙に美しかったせいで、花を見上げるたびに、もうその話が頭から離れない。
「……そんな話をされたら、もうただの品種名に見えなくなるじゃないですか」
彼は花を見上げたまま、かすかに笑った。
「それは結構。名前というものは、たいてい、その程度には余分な意味を背負わされるものだからな」
庭の奥で、古いクレマチスがまた揺れた。
ただ見事に咲いているだけの花に、いまや存在しない誰かの名残を見てしまうのは、すべて彼の嘘のせいだった。
※本作はカクヨムにも掲載しています。




