プロローグ
———さあぁ、と。
風が、草原を渡っていく。
幕末、どこぞの戦の跡。倒れた幟、焼けた野、鉄と血の匂い。その片隅、一本の桜の老木の影に、ひとりの武士が横たわっていた。
具足は砕け、刀は半ばで折れ、全身が朱に染まっている。指一本動かすのも、もはや叶わぬ。
それでも、男の顔は不思議なほど穏やかだった。
ひらり、と。
一片の花びらが宙を舞い、男の開いた掌に、そっと落ちる。
男はそれを見るともなく見て——絞り出すように、声を紡いだ。
「は……なは……桜木……ひとは……武士……」
花は桜木、人は武士。
咲くなら桜、散るなら桜。人と生まれたからには、武士でありたい。幼き日に教わった、たったひとつの生き方であった。
「……よき、人生で、あった」
ゆっくりと、瞼が落ちる。
惜しむものは、何もない。守るべきを守り、通すべき義を通し、咲くべき時に、咲いた。
「儂の……人生に……一片の……悔いは——」
風が、止む。
桜が、散る。
「……なし」
そうして武士の魂は、静かに、肉を離れた。
──────
……どれほど、漂っていたのだろうか。
気がつけば、男は立っていた。
足元はやわらかな雲。見渡すかぎり、白い光。痛みも、傷も、刀の重ささえ、もうない。
「ここは……三途の川、にしては、ずいぶんと趣が違うが」
「あ、起きた起きた! おはよーございまーす!」
——気の抜けた声がした。
振り返れば、見たこともない装束の娘がひとり。妙に短い裳裾に、背には透き通った羽。手には文字の詰まった薄い板きれを抱えている。
「えーと、あなたで今日……五人目? ようこそ転生待合ロビーへ! 案内役の妖精やってます、ひかりでーす」
「……てん、せい?」
「そそ。あなたもう一回、別の世界で生まれ直すの。それまで暇でしょ? だから私がいろは教えてあげる。異世界転生の、いろは!」
ひかりと名乗った娘は、板きれを掲げて、にっと笑った。
「これがマジで大事でね? チート能力、ステータス、悪役令嬢、ざまぁ……覚えること山盛りだから! 武士のお兄さん、飲み込み早そうだし、いけるいける!」
男は、ただ静かにその奇妙な娘を見つめ——深々と、頭を下げた。
「かたじけない。このうえ、生をもう一度賜るとは。さらば次なる生も、武士として恥じぬよう、全ういたす所存」
「いやあのね、そういう重いノリじゃなくてさ、もっと気軽な感じで……ま、いっか。よろしくね、武士さん!」
——このとき、ふたりはまだ、知らなかった。
彼が次に生まれ落ちる先が、よりによって、ひかりの知る“原作”で世界を滅ぼす——あの、悪役王子であることを。
そして彼の「武士であろう」とするその覚悟こそが、物語そのものを、根こそぎへし折っていくことを。




