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物の怪

作者: 中原純軽
掲載日:2026/04/25

「僕」の体験談。

短編ホラーです。

 僕にとってそれは油絵だった。

 真っ赤な夕焼け。

 立ち並ぶ集合住宅、一軒家。

 間に生える深緑の木々。

 その向こうに見える寺と墓場。

 それは現実であり、絵画などでは決してない。

 しかし僕の記憶の中では、それは確かに油絵の世界だった。

 全てが色鮮やかで、しかし細部は古い記憶がゆえに厚く塗りつぶされている。

 初夏の空気。

 吹き抜ける風が一瞬だけ停滞していた。

 澱。

 切り取られたように何もかもが動かなくなった世界で、それだけは動いていた。

 今から話すのはその時の出来事である。

 三十年ほど前のある夕暮れのことだ。



 物の怪。

 僕がその言葉を知ったのは、ある初夏の休日だった。

 偶然手に取った本に書かれていた。

 ピンとこなかった。

 僕には物の怪という存在がイメージできなかった。

 ベランダに、屋根裏に、押入れの隙間に、川沿いに、海に、墓場に潜むそれは、この僕の住む町には無縁のもののように思えた。

 小学生だった当時、僕の住んでいた町は、多摩地方にある、とある冴えない町だった。

 特別快速の止まらないその町には特別見るものもなく、唯一あるとすれば、春になると咲き誇る桜並木がほんの少し、町の北部にあるくらいだった。

 僕の家はそんな町の坂を下った南、家の立ち並ぶ閑静な住宅街にあった。

 父と死別した母が借りた小さなアパートの一室で、中学生になるまで僕はその家に住んだ。

 父がいなくなると、小さなアパートでもやけに広く感じた。

 空白が増えたように感じたが、僕はそれを埋めるように、図書館で本を借りては代わる代わる隅に積み上げた。

 その本も、一時期はそこにあったのかもしれない。

 物の怪……。

 何か全てがひっくり返されるようなそんな期待を子ども心に込めて、僕は読み耽っていたのだろう。

 だが僕が大人になるまで、その町には大きな事件やニュースはまるでなかった。

 誰からも忘れ去られたようなのどかな一角だった。

 物の怪といった類、噂の一つも『不思議なことに』その町にはなかった。

 僕の通学路の途中には寺と墓場があったにも関わらずだ。

 誰の口からもそんな噂は出てこなかった。

 だから僕も何の恐れも抱かずに、毎日その墓場の前を通り過ぎるのだった。

 そんなある日のことだった。



「おかえり。気をつけて帰るんだよ」

「うん」

「ばいばい」

「ばいばい」

 いつもの会話をすませると、僕はその老人に背を向けて歩き出した。

 背負ったランドセルがガチャガチャと鳴る。

 夜に近い夕暮れ。

 学童保育に時間ぎりぎりまでいた帰り、その三叉路の横断歩道には、いつもおじいさんがいた。

 黄色のゼッケンを着て、黄色と白の旗を持った白髪のおじいさんが、僕たちの安全を見守っていた。

 登下校の見守りだ。

 僕には当時のことはよく分からないが、持ち回りで、PTAの家族が担当していたのだろう。

 僕は週に三回はそのおじいさんに会った。

 名前は知らない。

 苗字は……確かスズキだったと思う。

 休日近くの公園に遊びに行くとき、そのおじいさんが墓場の前にある、「鈴木」の表札のあるその家に入っていくのを見かけたことがある。

 その時から彼は僕の中でスズキのおじいちゃんだった。

 彼の家は大きく、そして今風だった。

 今風というのは、何と言えば良いのだろうか。

 特別前衛的というわけでもないのだが、しっかりと新しくリフォームされた小綺麗な家だった。

 家の前には塀があり、その向こうの小さな庭に数本の木が、季節の花を咲かせていた。

 僕は彼と挨拶をした後、いつも彼の住むその家の前を通っていくのだが、当時僕は通るたびにあるものが気になって仕方なかった。

 彼の家の前の塀が崩れてきていたのだ。

 塀の塗装が剥がれ、中のコンクリートが見えていた。

 そのクリーム色の塗装は日を追うごとに、灰色のコンクリートに置き換わっていった。

 僕は興味本位に触ってみた。

 するとぺりぺりと、塗装は簡単に剥がれてしまった。

 まるで何の力もいらなかった。

 僕は面白くなってしばらく塀をいじってしまった。

 さっきよりも大きくなった灰色の穴を見つめる。

 誰かの足音がした。

 僕は慌ててその場から離れた。

 いけないことだとは分かっていた。

 だが謝る気概もない僕は、そこから逃げ帰ってしまったのだ。



 その日からおじいさんは喋らなくなった。

 下校中、あの三叉路で彼に会っても、彼は職務をただ全うするだけで、僕に話しかけることはなくなった。

 僕は若干の気まずさを感じながら、そばを通り過ぎた。

 もしあの時、僕が塀に悪戯しているのを見られていたのだとしたら。

 彼は怒っているのかもしれない。

 謝るべきだろうか。

 いや、見られたという確証だってないんだ。

 彼が僕に話しかけないのを好都合に、今日も何も言われなかったことにいつもほっとしていた。

 自分が悪いことをしたのは理解している。

 でもそれを咎められなければ、それはなかったことにできるかもしれない……。

 そう考えながら、塀の前を通り過ぎると、それは日に日に悪化していた。

 さらに塀の塗装は剥がれ落ち、もうほとんど下地が露出してしまっていた。

 僕のせいだろうか。

 僕がこの前、塗装を剝がしたせいで、崩れる速度が速まってしまったんじゃないか。

 罪悪感が心の奥から上がってくる。

 今度会ったら謝ろう。

 謝れたら謝ろう。

 僕はそう決心して、その日は家に帰った。



 数日後、僕は再びスズキのおじいちゃんに会うことができた。

 その日は学童からの帰りが少し遅かった。

 僕以外に歩いている子どもはいなかった。

 夕焼けはいつもより濃く、全ては赤に染まっていて、伸びる影は長く黒く、極端なコントラストに目が慣れなかった。

 道の向こうに黄色のゼッケンを着たおじいさんを見かけたとき、僕は許された気がした。

 許されるとは限らない。

 しかし、この罪悪感からは解放される。

 僕はいつも通り三叉路を渡ると、意を決しておじいさんに話しかけた。

「あの……」

 おじいさんを見上げながら話しかける。

 彼からの返事はない。

 聞こえなかったのかな、そう思って僕はもう一度声をかけた。

「あの……! ちょっと話したいことがあって」

 さっきよりも数段大きな声で話しかける。

 返事はない。

 やっぱり怒っているんだ。

 僕が意を決して謝ろうとしたその時、おじいさんはこちらを見た。

 彼の目と目が合う。

 僕は後ずさる。

 おじいさんの目が何を見ているのか分からなかった。

 顔は確実に僕の方を見ている。

 しかし、どの方向を見ているか分からなかった。

 焦点が合っていない。

 僕に怒っているというよりも、心ここにあらずと言った感じだった。

 彼からは何の感情の動きも感じられなかった。

 固く引き絞られたような生気のない顔。

 まるで黒い穴になってしまったかのような両目を見ていると、僕は急に恐怖を感じて、何もなかったかのように踵を返して歩き始めた。

 何もなかった。

 僕は何も見ていないし、彼も何も見ていない。

 僕はぎこちない動きでしばらく歩くと、気になって後ろを振り向いた。

 世界がすべて動きを止めたように感じた。

 おじいさんが道の向こうで両手を上げていた。

 枯れ枝を思わせる両手はゆらゆらと揺れて、手に持った黄色い旗もそれに合わせてはためき。

 両足はもつれたように残後左右に不規則に動いて、そのたびにおじいさんは倒れそうになった。

 くねくねと。

 鮮烈な油絵の中でおじいさんだけが激しく動いていた。

 僕は再び前を向いて歩き出す。

 彼の家の前を通り過ぎたとき、そこに家はなかった。

 朽ち果てた石材と木材だけが夕焼けの中、乱雑に積み上げられているだけだった。



 次の日、僕は学校を休んだ。

 体が怠いと嘘をついた。

 一日中ベッドに潜り込んで昨日のことを考えていた。

 彼は踊っていたんだと気が付いたのは、その時だった。



「おかえり。気を付けて帰るんだよ」

「……」

「ばいばい」

「……ばいばい」

 次彼に会った時は、もういつもの彼に戻っていた。

 あれは夢だったのだろうか。

 そうとしか思えないし、そうとしか思いたくない。

 彼との挨拶の後、僕はいつも通り彼の家の前を通る。

 家はいつものように綺麗な姿でそこにあって、その塀も綺麗な姿で佇んでいた。

 剥がれた塗装は業者によって補修されていた。

 露出していた下地は、今や完全に新しいペンキで覆い隠されていた。

 僕は家と、その塀を見つめた。

 出口を失った思いはしばらく宙を舞った後、どこかへ消えた。

 僕が墓場を見ることはなかった。

 おじいさんがある日踊り出したということ、ある日その塀が崩れ落ちたということ。

 その二つだけが僕にとって確かなことだった。

最後までお付き合いいただきありがとうございます。

もし良ければ他にもホラー短編や悪役令嬢もの書いているので、マイページ覗いていってください!

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