曖昧な彼女
「ねえ、あの壁のシミ人の顔に見えない?」
そう顔を曇らせた彼女は、しかしすぐに頭を振り、
「あぁ、妙なこと言ってごめんなさい。たんなる錯覚よね。人間には、逆三角形に配置された物を顔だと認識する習性があるっていうものね。――それにしても厄介だわ。一度顔だと思うともうそうとしか見えないんだもの」
彼女の言葉を額面どおりに受け取ってはならない。汚れた壁を塗り替えて欲しいと頼むのに、わざわざシミュラクラ現象の話を持ち出すほど回りくどい言い方をするのだから。正直、遠回しすぎて伝わりにくい。
それは出会ったころから変わらない。
私達は、ある夏の日の午後、共通の友人によって引き合わされた。
迷路のように入り組んだ路地裏にひっそりと佇む喫茶店。煉瓦積みの外壁には蔦が這い、一枚板の重厚な扉は磨き込まれて黒光りしていた。外はうだるように暑いのに、ブラインドが掛かってほの暗い室内は、鳥肌が立つくらいひんやりとしていた。
黒檀の家具で統一された店内の、奥まった席で彼女は一人待っていた。アンティークな調度品に囲まれた彼女は、まるで額縁に入った絵画のように現実離れして見えた。
壁際に座っていた彼女の正面に友人が、斜向かいに私が腰を下ろした。間接照明に照らされた彼女の輪郭は背後の闇に溶けてしまいそうで、私は言いようのない焦燥感に駆られ、必死にその境界を探した。
「そんなにまじまじと見るなよ、彼女が困ってるじゃないか」
友人にたしなめられて初めて、自分の不躾な視線に気が付いた。無礼を詫びると、彼女ははにかみ、静かに目を伏せた。
三人でする会話はどれもたわいないものだった。友人は初対面同士に配慮して無難な話題を振り、私も当たり障りのない返答をした。
彼女は終始微笑みを絶やさず、柔らかな落ち着いた声音で話した。受け答えに婉曲的な表現を多用する彼女を、私は奥ゆかしい女性だと思った。
邂逅から何度かは三人で会った。しかし三ヶ月もすると、私と彼女の二人きりで会うようになった。
彼女と過ごす一時は実に穏やかなものだった。自己主張の激しい妻との生活に疲れていた私には、この時間が掛け替えのないものとなった。何事も白黒つけたがり、歯に衣着せぬ妻とは正反対の、明言を避ける彼女の話し方は耳に心地良かった。
私と彼女が深い関係になるのにそう時間はかからなかった。私達は人目をはばかり、彼女の部屋で逢瀬を重ねた。
一年経ち、二年経ち。その間、彼女が妻のことを口にすることはなかった。きっとこの関係が彼女にとっても都合がよいのだろう。そう解釈し、私は妻と離婚することはしなかった。
だがそれは私の思い違いだったようで、いつしか彼女の瞳は不穏な色を帯びるようになった。私が愛したつつましやかな眼差しは、じとっとした恨みがましいものへと変貌し、物言いたげな視線が絡み付いて離れなくなった。そのくせ本心を問いただしても黙って首を横に振るだけで、しだいに彼女が疎ましくなった。
美点と欠点は表裏一体だ。彼女の謙虚さも裏を返せば、自身は意思の疎通を図ることを放棄しておきながら、相手には言外の意味を察することを強要する傲慢な態度ともとれた。それは妻とは別種の自己主張の強さに感じられ、私は彼女との関係を清算する決意を固めた。
出会いから三度目の夏、彼女を路地裏の喫茶店に呼び出した。冷房のききすぎた薄暗い店内で、壁を背にして座る彼女は、やはり一幅の絵のように見えた。彼女と外界とを隔てる境界線はおぼろげで、無機質な表情とあいまっていっそう現実味を失わせた。
彼女は一点を見据えたまま終始無言だった。私はまるで壁に向かって話している気分になり、自分でも驚くほど心無い言葉が口をついて出た。
一方的に別れ話をすませ、腰を上げた私に、
「……アレが来ないの」
陰鬱な表情で彼女は告げた。回りくどい彼女にしてはずいぶんと陳腐な言い回しだと思った。それだけ切羽詰まっていたのだろうが、もはや私には関係のない話。私は鼻で笑い、彼女を置いて店を出た。
「……なあ、ひょっとしてあれ、あいつの体液が染み出してるんじゃないのか?」
険しい顔でそう言ったのは、私達を引き合わせた張本人だった。彼は革張りのソファーに深く身を沈めたまま、壁のシミをじっと睨んでいた。
「いやだ、やめてよ。恐ろしいこと言わないでちょうだい」
非難して、彼女は彼の隣から立ち上がった。彼は縋るように彼女の手首を掴んだ。
「いいかげん、この家、引っ越さないか。寝覚めが悪くてしょうがない」
彼女はそれをやんわりほどきながら、
「そんなことできるわけないでしょう。ばれたらどうするの」
と、幼子に言って聞かせる口調で諭した。
そして台所から雑巾を持って来ると、壁に浮き上がった赤茶色のシミをごしごしとこすりはじめた。
おかげで、それまで不鮮明だった彼女の姿の、私の鼻先を拭う指だけが、いくぶん明瞭になった。