チキン冷めちゃった
「チキン冷めちゃった」
セシリアの口から小さなつぶやきが漏れる。
来ないという予感はあった。
でも本当に来ないなんて、信じられなかった。
三時間かけて調理したローストチキンは、すっかり冷めきっている。
それは、美味しく作りたくて一ヶ月研究した集大成だった。
外側はきつね色にパリッと香ばしく、中はジューシーに。
彼の喜ぶ顔を想像するたび、セシリアの頬はだらしなく緩む。
こんな締まりのない顔――彼には見せられない。彼女は慌ててキリッと引き締めた。なのに気づけば、にへらと緩んでばかり。
それが今は、惨めな気分に押しつぶされそうだった。
にらめっこし続けた時計は、十二時を回る。
とうとう待ち人は来なかった。それを認めることに彼女は五時間費やした。
セシリアの中の何かが、雪崩のように大きな音を立てて崩れる。
彼女は思いっきり壁にチキンを投げつけた。 生き物を殺したような、嫌な感触が手に残る。
チキンはぐちゃりと鈍い音を立てて壁にぶつかり、べちゃっと床に落ちた。
「チキンなんてもうたくさん。食べずに済んでよかったわ」
彼女は精一杯強がった。けれど景色が霞み、大粒の涙がこぼれた。
ローストチキンは、婚約者の嬉しそうな顔が見たくて、初めての朝の温もりの中に帰りたくて、奮闘した会心の出来栄えだった。
しかし相手がいなければ、見たかった景色は完成するはずもない。
部屋の片隅でチキンは、叶わなかった恋の残骸として屍をさらしている。
空っぽになったセシリアは呆然としながら、転がったチキンを見つめ、過去を思い返し、なぜこうなったのか考えた。
婚約者ルドルフにとってローストチキンは幸せの象徴だった。
彼の家は男爵家なのだがとても貧しい。
セシリアは彼と婚約したての頃、ローストチキンのサンドイッチを差し入れたことがあった。
ルドルフはサンドイッチを食べながら「せめて祝いの席ぐらい、我が家でもローストチキンを普通に食べられるようになりたい」と寂しそうに笑った。
セシリアの家は中規模の商家で、食べたいと言えばたいていの物は当たり前のように食卓に並んだ。
だから彼の気持ちを半分も理解できなかった。
それでも寄り添えたらと、世界一のローストチキンを焼こうと奮闘したのだ。
どうして、どうして、どうして!?
彼女は自棄を起こし、なけなしの金貨五枚で買った、今日のための特別なワインを何杯も煽る。
「あなたが食べたいと言いながら食べてもくれなかったチキン、壁も食べたくないんですって」と大笑い。
やがて動力が切れた自動人形のように動かなくなった。
「いっそこのワインが毒ならよかったのに、明日なんて来なければいい……」
消え入りそうな声でつぶやくと、セシリアはいつの間にか眠ってしまった。
ルドルフが唯一似合っていると褒めたサテン生地のドレスは、徒花のように、ただいたずらに、眠るセシリアを彩った。




