思いがけない、真実
白の皇帝に視線を促して、いまの状況をよく見てもらおうと《風》神は思っていたが、理解にはすこし時間がかかった。
それは少年の理想と現実があまりにもかけ離れていて、自分が望んでいたものとはまったく異なっていたからだ。
「あれ、俺……?」
浮いている、とようやく状況を呑みこめてきたような、そんなつぶやきだったが、それでもすぐに嬉々としたり、感動したりといったようすにはつながらなかった。まだ、不思議そうにまばたいている。
《風》神としては、喜びのあまりに抱きついてくれるのでは、と予測も立てたのだが、この状況ではどうもそれは甘かったらしい。
白の皇帝は何度も自分の身体や、その足もとを見やり、どうにかして自分の状況を理解することができた。しかし、多彩な表情に喜びは浮かばず、《風》神に対する不満げな感情をあらわに、むむッ、と頬を膨らませ、眉間にしわを寄せてくる。
「ねぇ、《風》神――。俺、お空を飛んでみたいって言ったよね?」
「うん、言ったな」
「それで、俺、《風》神にお願いしたら、叶えてくれるって――言ったよね?」
「うん、お兄さんはちゃんとお願いを聞きました」
「だったら……ッ」
急に不満げな興奮に包まれた白の皇帝は、声を上げようとして尻もちの体勢から身を乗り出して《風》神に向かおうとしたが、まだ身体のバランスを取ることが困難なのか、結局体勢をそのままに《風》神をねめつける。
「もうッ! 《風》神の意地悪ッ!」
白の皇帝はそう声を上げるなり、
「俺は、お空を飛びたいの! 鳥さんや精霊みたいに素敵に、可愛く飛んでみたいのに、これじゃ全然ちがうじゃない!」
言って、まるで地団太を踏むように両の手で拳をにぎり、自分の前で何度も激しく振る。
《風》神は、さてと……と思いながら、
「だから、白の皇帝はもう飛んでいるじゃない」
これはおもしろそうだと、その表情を隠しながらあえて結論から口にする。それが妙に癇に障ったのか、当然、白の皇帝はそれを否定する。
「ちがうよッ、こんなの、飛んでないもん! 浮いているだけじゃない!」
ほら、見てよ、と抗議の対象を指差す。
「俺、ほんのちょっとしか浮いていないじゃないッ、身体は変にグラグラするし、上手く立てないし!」
白の皇帝と地面の草花には、ちょうど少年の肘から手首にかけた長さほどの垂直距離があった。その周囲には、身体を浮遊させるような膜のようなもの、あるいは何か術にでもかけられているような感覚や実感はない。
いまは尻もちをついたまま、手のひらは目には見えぬ板の上に置いているような感じでもあったが、下を覗きこむようにして手を、指を伸ばせば、地面の草花に簡単に届いて触れることもできる。
それはあまりにも不思議で、奇妙な感覚だったが、ただ憧れるだけの夢ではなかった。
――つまり、白の皇帝はいま、自分自身の身体を大地から離して宙に浮いている状態だった。
ただ、それはあくまでも「浮いている」状態であって、白の皇帝が望み、理想とする「空を飛ぶ」という姿勢にはまったくほど遠いものであった。
だから、白の皇帝にはからかわれているという思いが念頭に浮かんでしまい、感謝や感激どころか、《風》神に対して不満しか抱かなかった。
「もうッ、俺はお空を飛びたかったのに!」
もう一度、白の皇帝は不満を口にする。
《風》神はそれを受けて、やれやれ、と視線をわずかに空に向けて自身の頬を掻く。
「――だから、白の皇帝がそれを願えばできるって、お兄さん言っているじゃない」
「うそッ、俺、ただ変に浮いて、上手く立てなくて尻もちついているだけじゃない。これはお空を飛んでいるなんて言わないよ!」
「だ~か~ら」
「だからッ」
最後に、もうッ、と感情の爆発を頂点に立たせると、怒るだけ怒って感情だけが急落したように、白の皇帝はそのまま意気消沈したようにうつむいてしまった。
白く細い身体が小さく震えだす。
「俺……、お……れ……」
つぎに白の皇帝が言葉を発したときは、すでに声も涙まじりに震えていた。
《風》神はそれにぎょっとする。
白の皇帝は堪えられなかったのか、涙があふれる目もとを拭う。
「俺……俺ね、ほんとうにお空を飛びたかったの。でも、すぐに《風》神みたいに飛べなくてもいいし、たくさん飛べなくてもよかったの。ただ、ただ……」
自分を護り、育ててくれたハイエルフ族の爺や。
彼は木の上でハープを奏で、木々の自然や精霊たちもその声に魅かれて合唱するほどの歌の名手で、誰よりも楽師だった。
その爺やに憧れて、白の皇帝はたくさんハープも歌も練習し、それを自在にできるほど腕も上げてきたが、だが――、どうしても爺ややほかのハイエルフ族たちのように身を軽くし、木々の間や森のなかを舞うようにして跳躍し、軽々高いところまで登ってしまうそれだけはけっしてできなかった。
――ハイエルフ族はそれぞれ、生まれ持った自然の属性が異なるからねぇ。
爺やは事あるごとに羨む白の皇帝にそう言って宥めてきたが、それはすこしも納得や諦めにつながるものにはならなかった。
たとえ、それに近しい属性でなくても、周囲のハイエルフたちは簡単な高さであれば難なく優雅に飛び上がり、そして、ふわり、と優美につま先から下りることもできていた。
――でも、俺だけは……。
白の皇帝はぽつりと語りはじめる。
《風》神は何も言わず、ただ少年の心情を働かせた内情を聞く。
思い出せば、白の皇帝は身軽く動くが、大きな動作をしたことがない。
「――だからね、俺。竜の五神のお話を聞いているときに、竜の神さまに……《風》の神さまにとてもお会いしたくなったの。だって《風》の神さまは、お空を自由に飛べる翼をお持ちなんだもの」
「《風》の神さま……?」
「うん。爺やもそうかもしれないねって、言ったもの」
「かぜ……」
――だから、だからね。
爺やたちと長旅をしながら大陸をわたり、峻峰にある竜の神さまの化石を直截目にしたとき、あまりにも大きくて、あまりにも雄大で、あまりにも美しくて……、その背にある翼が何よりも羨ましくて。
「だから俺、あの竜の神さまはぜったいに《風》の神さまだって、思うようになったの。竜の神さまはすでに化石であられたけれど、お会いできて光栄です、ってご挨拶したら、何だか笑ってくれたようにも見えてね」
――あなたは《風》の神さまですか?
尋ねたとき、さあ、どうだろう? と語り返してくれたようにも思えたのだ。
それがとても心に残り、白の皇帝はますます爺やが語る「竜の五神」の話が好きになり、話を聞くたびに化石として残る竜の神さま――《風》の神さまのことが心に浮かんで離れなかった。
あの日から、何かがあって泣きそうになったり、怖くなったとき、《風》の神さまのお姿を思い出せば「大丈夫だ」と言われているような気がしたし、ちょっとでも何かにがんばってできたときは、「よくやった」と優しく頭を撫でてもらったようにも思えた。
もちろん、爺やにそうと褒められて頭を撫でてもらうのがいちばん好きだったが。
「だからね、俺ずっと竜の五神にお会いしたくて、竜の神さまにお会いしたくて、……《風》の神さまにお会いしたくてたまらなかったの」
だから意を決して居城をこっそり抜け出し、ひとりで彼らを探す旅……冒険をしてみようと思い、歩きはじめたのだ。
ハイエルフ族のみんなは、もう竜の神さまはこの世界にはいないという。
みんな自然に回帰されたのだ、と。だから、お姿を見ることはできないよ、と。
それでも唯一姿を残した化石があるのだ。
――ひょっとしたら、どこかで眠りについているのかもしれない。
だったら、けっして起こさないから、その寝ているお姿だけでも……。
ひとりで居城を出て、ひとりだけで歩くのは初めてだった。
だからすぐに寂しくなって、すぐに泣いて、何度も泣いているうちに自分がどちらの方角から来たのかもわからなくなって。
夜になって、空を見上げるたびに月のかたちが変わるのを見て。
――もしお会いできたら、空を飛ぶことを願ってもいいですか?
と、期待だけはけっして失わずに、たいせつに心にしまって。
――そうしていたら「何か」に巻きこまれ……。
海の波に沈みゆく砂漠の大地で、白の皇帝は行き倒れていた。
ほとんど衰弱死に近い状況を救ってくれたのが、「竜の五神」。
白の皇帝は知らず、世界最初の種族が世界を創世する、世界創世期の時代に迷い込んでいたのだ。――そして、いまに至る。
何だか、急に話が逸れたようにも思える語りをつづける白の皇帝だったが、《風》神にとってそれは心にひびく、不思議な物語だった。
――白の皇帝が「好き」と言っていた竜の神さまって……。
竜の神さまに会いたくて、お願いごとを叶えてほしいと、怖がりで泣き虫が本来なのに、それでもひとりでがんばって旅をして。
――そこまでこの子の心を動かした、《風》の神さまって……。
白の皇帝が本来いるべき時代。
彼らが敬愛し、尊崇する竜の神さまとは竜族のすべてを指し、彼らはすべて自然に回帰し、大地に恵みと実りをお与えくださっていると、そういう信仰心のようなものを持っている。
そのなかでも世界を創世したと言われている「竜の五神」は別格で、それ以上の情報は彼らに歌い継がれてきた物語にはなかった。
当人たちである竜族にとって「神」は、それぞれの部族を治める族長であり、「竜の五神」という並びに列している存在のみ。それ以外は存在しない。
――《空》、《水》、《風》、《火》、《地》。
これら自然の元素を司る竜、その部族の長である「竜の五神」、真実「神」である竜はこの世界創世期においても、永遠久遠まで五匹しかいない。
その「竜の五神」のなかで《風》を司り、《風》の部族を率いる族長はこの世でただひとり――。
「白の皇帝が会いたがっていた竜の神さまって、俺……?」
《風》神は目を見開きながら、尻もちをついたまま膝を抱えて泣く白の皇帝に向かい、つぶやく。