安全か、矜持か
《風》神の飛空時間はそれほど長くもなかった。
どの浮遊大陸で白の皇帝を遊ばせるか、と品定めしていたそれが終わり、《風》神は目星のついた浮遊大陸に向けてゆっくりと降りていく。
規模としては、小ぶりのような島にも見えた。
だが《風》神の居宮周辺に広がる広大な庭と比べても、こちらも充分すぎるほどの草原のようで、白の皇帝が好む花冠がいくらでも作れそうなほど色とりどりの花が咲き、風に揺れている。
平地が目立ち、山のような形状があっても低く、小さな森がいくつかあって、の五分の一ほどもある大きな湖があるのが特徴に思えた。
ただ、その湖は不思議なことに、浮遊大陸の遥か下にある海洋に向かい、滝のように湖水が流れ落ちている。水量はけっして多いというわけではないが、どうしてあれだけの水が流れ落ちているのに、島の湖水は一向に減ることなく水源の均衡を保っていられるのかが不思議で、白の皇帝は湖を指差して尋ねる。
「ねぇ、《風》神。あの湖の水は、どうして減らないの?」
わぁ、と小さな声で感嘆を上げるが、
「う~ん、言われるまで考えたことがなかったな。今度《水》神にでも聞いてみるか」
などと適当なことを言って、《風》神はさらりと流す。
白の皇帝に不思議だと言われる物事は、自分たちにとっては疑問にも浮かばない、すでにこういうものだ、というふうに目に馴染んでいるので、問われたところで返答できる事柄は案外すくない。
純粋な好奇心を持ってもらえるのは嬉しいが、深く追及されると面倒この上ないと、《風》神は学んでいる。
「まぁ、遊びに疲れたら水浴びでも……って思ったんだけど、嫌か?」
「ううん、俺、水浴びも好き。楽しいよね」
――今度の「好き」は、いつもの「お気に入り」って感じで聞こえたな。
《風》神は何気なく、言葉の含みを量る。
島の草原に足をつけるとき、《風》神は陽光に煌めく湖水の上を滑るように通りすぎていく。風の流れで水面に波紋が生まれ、その美しさに、わぁ、と白の皇帝は声を上げる。
自身が風のようになって、空を自由に飛ぶということは、こんなにも素敵なのだろうか。白の皇帝の期待は高まる。
「俺も飛べるようになったら、こんなふうにきれいな波紋が作れるかな?」
「ま、そのときが来たらお兄さんと勝負でもするか」
「うん、俺、負けないよ!」
――出だしの負けん気だけは、立派だよな。
白の皇帝が見せる多彩な表情や感情は、見ているだけですべてが好ましく、愛しい。本音を言えば、このまま抱きしめていたい。
しかし、いまは遊びに気が向いている白の皇帝にそのような雰囲気を出したところで、邪険に扱われるのは目に見えている。
《風》神は小さく苦笑する。
湖の上で飛んでみたいというのなら、万が一、落ちても怪我はしないだろう。
本人は泳げると言っていたが、すぐに腕をとって引き上げれば危険もないはず。いや、そのまま水浴びと洒落こんでも悪くはないだろう。
――空を飛ぶ、ということは簡単だ。
しかし、こちらの良かれが相手の不慣れを即座に克服させるということにつながらないことを《風》神は知っている。
――不慣れということは、すなわち白の皇帝の怪我につながること。
それはけっしてあってはならないことだが、《風》神は過去に似たような状況でまだ子どもだった《地》神に怪我を負わせてしまっている。
子どもは当然痛がり、わあぁ、と言って泣いてしまうし、その流血を見て意識を失いかけた自分は女官に担がれてしまうし、正直、誰かに力を貸し与えて空を飛ばせるという行為にいい思い出はない。
なので、先ほど《風》神は、白の皇帝が居宮の庭先でもいいから空を飛んでみたいと言ったのに対し、「狭い」などと言いがかりのように案の否定を即答した。
白の皇帝の安全を最優先に考えれば、《風》族族長に仕える女官が多くいる自分の居宮――天空宮の庭先で遊ばせるのが適切だ。
万が一のときは、余るほどの手が伸びてくるし、即座の介抱も女官たちのほうが心得ている。
――でも……。
当時、自分も少年だったころを知る女官はもういないだろう。
竜族の雌――ここでは女官を指す――は長命だが、族長である《風》神は「竜の五神」だ。永遠の命を持つ《風》神とは過ごせる時間が異なるので、何百、何千といる女官たちは絶えず顔ぶれを変えて、ただ部族の族長のためだけに存在し、一切合切の世話をしている。
――でも、あのとき……。
怪我を負った《地》神を手当てするどころか、血を見て意識を失いかけた事実が、《風》神の矜持を刺激する。
もう自分は立派に成竜しているし、万が一のことがあっても自分でいくらでも対応ができる。
もし、当時の自分を知る女官が残っていることで、おなじような失敗をし、思い出し笑いでもされたら……。そう思うと《風》神は、どうしても人目のあるところで白の皇帝を自由に遊ばせる行為ができなかった。
だから、人気のない浮遊大陸まで足を運んだのだった。