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安堵のキス

 自分の血であれ、他人の血であれ、見れば奇怪なほどの震えが足もとから這い上がり、卒倒せずにはいられないほど《(ふう)(じん)は血を見るのが苦手だった。

 それはきっかけがあるのかもしれないし、もともとの性格なのかもしれない。

 子どもだったころ、少年期だったころは見た目に違わず活発だったが、さすがに成長するにつれてそれも落ち着き――そう思っているのは、本人だけかもしれないが――、いまいる《(かぜ)》族の女官たちのほとんどがそれを知らないほど、《風》神はしばらく怪我や血には無傷だった。


 ――でも、これで……。


 女官たちには、頭が上がらなくなるよなぁ。

 血を見て卒倒する「(りゅう)五神(ごしん)」、《風》族の族長は格好悪いよなぁ。

 と、倒れた経緯も記憶に残る《風》神は卒倒した後、ずっと脳内で反省をつぶやいていたが、天空宮に戻って白の皇帝に深手の傷は免れたと伝えられて気が抜けたのか、そのまま眠ってしまったらしい。

 ぴくり、と自分の眉が動く気配を感じたと同時に、それまで深く沈んでいた意識が急速に浮上する感覚があった。

 起きている間の出来事は、いやというほど覚えていられるというのに、《風》神は夢を見るが、それを記憶に残すことができない。

 頭のなかでずっと何かをつぶやいていたような、ひたすら何かを考えていたのか、頭が重く、すっきりとしない。

 まだ寝ていたいような、けれども起きなければ、という曖昧な感覚に囚われるのが面倒で、このまま寝てしまおうかと睡魔を枕にしようとも思ったが、それよりもはるかに重要な事柄があったはずだ。


「……」


 ぼんやりと開いた片眼に映るのは、ずいぶんと色が薄くなった青色の空だった。青というよりも水色、それに白さが増しているというべきか。

 その空の一方では、濃くはないが茜色と黄金色のグラデーションが伸びてきた。夕暮れの時間帯がはじまっているのだろう。騒ぎがあったのは日中だったので、では、自分は長いこと意識を失い、そのまま寝ていたことになる。


「……」


 まだ睡魔に脳裏を支配されている気分もあったが、


「白の……皇帝……」


 何よりも大切で、愛しい名をゆっくりとつぶやきながら、はた、と《風》神は思い出す。


「白の皇帝ッ」


 声を荒げて唐突に起き上がると、それほど離れていないところで《風》族の女官たちを侍らせながらすわっていた白の皇帝がおどろき、びくり、と肩を震わせた。

 同時に白の皇帝ばかりに意識を向けていた女官たちがふり返り、幾人かがその身を起こそうと寄って、手を伸ばしてくる。


「族長、お気づきになられましたか」

「ご気分はいかがでしょうか?」


 つぎつぎと問われて、身体を起こそうとする自分に手を向ける女官の手を一度は取ったが、よくよく見ると、白の皇帝は座椅子のようなものに腰を下ろし、かたわらにすわる女官が持つ器から匙で何かをすくってもらい、口を開けてそれを食べていたようにも見受けられたので、ぎょっとする。


「――匙も持てないほど、怪我が酷いのか?」


 意識を失う前、女官たちは白の皇帝に深手は見受けられないと言っていたはずなのに、やはりどこかを酷く痛めていたのだろうか。

 上体だけを起こし、前かがみに身体を動かそうとして床につけた腕に力をこめると、ちょうど傷を負った腕だったらしく、痛みが走った。


「……ッ」


 思わず顔をしかめてしまい、女官たちは支えになろうとして手を伸ばすが、膝をついて腰を上げ、《風》神は四つん這いの姿勢になりながらのそり、のそり、と白の皇帝に近づく。


「《風》神、起きて大丈夫なの?」


 白の皇帝が心配そうに、あわてて座椅子から腰を浮かせたが、《風》神は手振りでそれを制する。咄嗟にそのように身体を動かすことができたということは、ほんとうに受けた傷に深手はないということだろうか。

 心配そうに白の皇帝のつま先から頭の先までゆっくり見やると、


「ご、ごめんなさい、俺。《風》神が怪我をして倒れているから、その、そばにいたくて……」


 手当てをしている最中、白の皇帝はようやく落ち着きをとり戻してきた。

 ただ、どうして自分が身体のあちこちに怪我を負って、しかも髪の毛が短くなっているのか記憶には残っておらず、手当の最後にしばらく眠るかどうかを問われて、女官たちに優しく身体を支えられながら上体を起こしたところで、すこし離れたところでおなじように怪我の手当てを受けている《風》神を目にして、途端に顔色を変えた。

《風》神の身体は横たわったまま。身体を清潔にしようと拭いている布には血が幾か所もついていて、しかも濃い。

 先ほどと服装がちがうのは、手当てをしながら楽にしていられるように女官たちが、軽装に着替えさせたのだろうというのは読み取れたが、肝心の《風》神が横たわったまま動く気配がない。


 ――眠ってしまっているのか、それとも……。


 酷い怪我をして、意識を失っているのだろうか。

 白の皇帝はあわてて《風》神に近寄り、ぴくりともしないまま女官たちに怪我を負った腕や頬に包帯を巻かれているようすを見て、心配で、心配で、声をかけても反応がない《風》神に心底心配して、それでふたたび泣き出してしまったという。

 どうして自分たちがこんなにも怪我をしているのか、やっぱり思い出せない。

 けれども、《風》神が酷い怪我を負っている。


 ――きっと、何かあったのだろう。


 そして、《風》神が身を挺して護ってくれたのだ。

 木の枝に髪を引っかけて宙づりになり、パニックになってかなり暴れた。

 よほどの恐怖だったのだろう。その部分だけ記憶を失ったので、なぜ、こんなにも身体が疲弊しているのか白の皇帝にはわからなかったが、目の前の《風》神を見てしまえば、疲れたから眠りたい、などとは言っていられない。

 その話を聞いて、《風》神は小さく笑み、


「いいんだぞ、白の皇帝。寝たければ寝てしまって」


 四つん這いのまま近づき、ゆっくりと手を伸ばす。

 幸い、白の皇帝は細かい傷はあるが、顔に目立つ傷をつけていない。

 だが、身体中手当てを受けた包帯だらけ。

 すでに傷は乾いた状態ではあるが、あちらこちらに擦り傷、切り傷が目につく。髪も普段の長さを思えばずいぶんと短くしてしまったので、かえって痛々しい。

 頬を撫でると、白の皇帝がその手を取って、自身の頬に押し当ててくる。


「俺ね、《風》神が起きるまでそばにいたくて……。でも、お腹もすいちゃって」


 本来であれば、気配に聡い《風》神のそばに多くの女官たちがいるのは憚る事柄だったが、白の皇帝がべつの場所に移動することを嫌がり、なおかつお腹がすいたと言ってきたので、


「申し訳ございません、族長。白の皇帝にはこの場でお食事をとってもらうため、いまほどまでこちらで給仕をさせていただきました」


 これには女官たちが捕捉する。

 座椅子を用意したのは、身体がかなり疲弊していたため。

 白の皇帝が直截食事のための器を持たずに、女官たちが手にする匙に口を開いていたのは、


「これはお怪我が酷く、手が動かせなかったわけではございません」

「――だったら?」


《風》神が問うと、女官たちはなぜか浮かれたようすで、


「このようなときでないと、私どもも白の皇帝に甘えてもらうことができませんもの」

「族長が起きていらっしゃるときは、つねに白の皇帝は族長のおそばに、腕のなかにおいでですからねぇ」

「これでやっと、白の皇帝に、あ~ん、してもらえましたわ」


 おほほほほ、と女官たちは口々に答える。

 かなり浮ついた気配だったが、結局、最後まで手当てをし、介抱したのは誰でもない女官たちだ。功績には充分すぎる褒美を先に得ていたのだろう。

 加えて感謝するべきは、先ほどまで倒れていた理由が血を見て卒倒していたからだと、正直に伝えなかったところだ。

 もしかすると、女官たちもなぜ自分が倒れてしまったのか、把握できていなかったのかもしれないが、疲れて休んでいるだけだと言い換えてくれたのだろう。

 これではほんとうに、女官たちには頭が上がらない。


「あまり、白の皇帝で遊ぶなよ」


 咎めるつもりはないが、やや呆れるように、ぼそり、と《風》神はつぶやく。


 ――そして。


《風》神は額にかかる前髪を指先ですくいながら、そのまま顔を近づけてそっと口づける。

 小さく、ちゅっ、と音を立てて、一度、二度。

 それから安堵した片眼を細めながら、少年の唇を指でなぞりながら、《風》神は自分の唇を重ねた。ただ触れるのと、やや強めに上唇を吸い上げるようにして。

 突然のことに白の皇帝は大きな瞳を丸くし、からわらに侍る女官たちが「まぁ」と口もとに手を当てて、即座に退席しようとしたが、《風》神は手振りでそばにいろと言って、それでも白の皇帝に安堵の気持ちを伝えるキスを何度も送る。

 ちゅっ、と何度も音を立てられて、白の皇帝は徐々に顔を真っ赤にしていったが、最後にうっとりと片眼で見ていた《風》神は名残惜しそうに唇を離す。


「俺もおなじものを食おうかな? ――腹が減った」


 と言って、何事もなかったかのように女官に用意を促す。

 白の皇帝が口にしていたのは、豆と芋がごろごろと入っているスープで、芋は簡単にすりつぶされてとろみがある。

 女官が手にしていた匙を取り、それをすくうと、


「俺も白の皇帝に、食べさせたい」


 と言って、口を開けて、と促して、スープを食べさせる。

 もぐもぐ、と口を動かす少年のそれは、見ているだけで楽しくなってきた。

《風》神の食事はすぐに運ばれてきた。

 女官のひとりが器を持ち、もうひとりが匙でスープをすくい、それを《風》神の口に運ぶ。《風》神は当たり前のようにそれを口にして、自分は白の皇帝にスープを口にしてもらおうと、匙を動かす。

 何だかそれは奇妙な光景であったが、一度すべてを忘れるには充分な時間でもあった。

 白の皇帝はくすくすと笑う。


「《風》神、甘えん坊だ」


 女官に食べさせてもらっている姿を見て、そう言っているのだろう。

《風》神はけろりとしながら、


「いいの。俺は《風》族の族長さまなんだから。甘えたっていいの」

「そうなの?」


 これは女官たちに向けて問うと、女官たちもくすくすと笑う。


「それよりも――。白の皇帝、あ~んして?」


 匙を動かし、《風》神が促す。




 空はいつの間にか茜の色が強まって、黄金色が長く伸び、それまで薄い青を空に伸ばしていたそれをゆっくりと自身グラデーションの色に加えていた。

 東の端では、夜の始まりを告げる藍色が伸びてきている。

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