助けてッ
「白の皇帝ッ!」
《風》神は声を上げて、悲鳴を上げた少年の名を呼ぶ。
――もしかすると、こちらの時代から消えてしまったかもしれない……ッ。
先ほどまでそんな恐怖も脳裏によぎったが、こうしてたしかに少年の声が現実のものとして聞こえたのは安堵のひとつだったかもしれないが、そんなことを思っている場合ではなかった。
白の皇帝の悲痛な声は、いまも叫び声となって聞こえる。
「いやぁあああッ」
まるで、何か怖いものに囚われているような悲鳴。
痛いッ、痛いッ、とつづけざまに発する声には言葉どおり、何か痛みをいまも伴っているようだった。
悲鳴は聞けばわかるほど、何か怖いものや痛みから必死で逃れようとするようすがうかがえた。
「白の皇帝ッ!」
《風》神は気配を鋭敏に、片眼を猛禽のように光らせてせわしく動かす。
――いた!
けれども、なぜあのようなところに……と、《風》神は愕然とした。
最初に聞こえた悲鳴から、わずか。まばたきひとつかふたつ、するかしないかの時間で《風》神は手前の森の入り口にある背丈の大きな木の中間部で宙づりになっている白き少年を片眼で捉え、ぎょっとする。
同時に、助けなければ、と思う身体は疑問がめぐる思考よりも早く、疾風となって駆ける。
この間、まさに刹那。
――何で、そうなるんだッ?
白の皇帝から意識が逸れたのは、ほんのわずか。
たったそれだけの間で、白の皇帝は背丈ある木の中間部で宙づりになって悲鳴を上げながら身体中を使って暴れている。
宙づりになっているように見えたのは、白の皇帝が水色の長い髪を木の枝に引っかけてしまっていたからだ。
「いやぁああッ、離してッ、痛いッ、痛いよぉッ」
なぜ、そのようなところで髪を引っかけてしまったのかは不明だが、最初は枝に単純に絡まった髪も、白の皇帝が突然の出来事と容赦のない痛みに襲われてパニックになり、枝に取られた髪をどうにかしようと思い、絡まるたびに引っぱられて、激しい痛みに襲われていた。
何とかして逃げなければ、と本能的に暴れるものだから、かえって髪は枝に複雑に絡み、枝のほうに向いているしなやかな手足は、すでに幾か所も掻かれてしまい、傷を負っている。
傷の深さはわからないが、竜族とは異なる肌の白さを持つ白の皇帝の肢体には流血の筋ができはじめている。
――血……ッ。
《風》神は一瞬、自身が感じる恐怖に目を見開いた。
その間も、白の皇帝は激しく暴れている。
「離してッ! いやぁああッ、怖いよぉッ」
怖い、と口にしている時点で、すでに白の皇帝の脳裏には木の枝に髪が絡まって身動きが取れないというよりも、何か大きくて怖いものに髪を容赦なく掴まれて、酷く意地悪をされているんだと、そのような想像で意識が固定してしまっているようで、必死でそれから逃れようとするさまは、まさに死にもの狂いに近い暴れかたをしている。
「助けてッ! 助けてッ!」
白の皇帝は痛みと恐怖で、涙をボロボロとこぼしている。
もしこれで、白の皇帝に重力の理で成す術もなくぶら下がっている状態だったら事態はもっと酷く、もしかすると髪をむしり取られながら、身体が軽いとはいえ、絡む髪でそれを支えきることができず、落下して酷い怪我を負ったかもしれない。
だがいまは、《風》神が付与した風の力を白の皇帝はまだ纏っている。
それが仇となった。
即座の落下こそ免れてはいるが、宙づりのまま身体を激しく暴れさせているので、かえって酷い痛みを与えつづける結果となっている。
――そもそも白の皇帝から風の力が去っていたら……。
木にも登れない少年が、半端な高さの枝に髪を絡めて痛い思いをする必要はなかった。
いったい何に興味を抱いて、この子は身体を浮かせてしまったのだろう。
「白の皇帝ッ!」
《風》神は背後から抱きしめるようにして、白の皇帝を包みこむ。
「もう大丈夫だ、いま助けるから」
言って、《風》神は即座に白の皇帝の髪を絡める枝に手を伸ばして解こうとするが、
「いやぁああッ、離してぇッ」
完全に何か怖いものに囚われて、苛められていると思いこんでいる白の皇帝のパニックは相当なもので、すでに《風》神に包みこまれている状態も理解できず、泣き叫んで暴れている。
「大丈夫だから、誰もきみを苛めてなんかいない、落ち着いて」
《風》神は声を上げながら、宥めの言葉より先に痛みから解放させなければ、と必死で指先を動かすが、長く男性的に整った指は実際に器用でもあるはずなのに、白の皇帝が暴れるから髪はきつく締まる一方であるし、枝もそのものがしなやかに反って動くので、幾重にも絡んでいる枝から丁寧に絡まった髪を解くのはほとんど至難……即座の解放は不可能だった。
「大丈夫だから、頼む、暴れないでくれ!」
「助けてぇッ、助けてぇッ!」
「大丈夫だ、俺が必ず助けるから!」
――だから、暴れないでくれッ。
咄嗟に髪を解けないのなら……、と《風》神は自らの腕を盾に、せめて顔もとだけは護ろうと、枝と白の皇帝の間に割り入れる。細く、あまりにも華奢な身体を護ろうと、《風》神は宙で片膝を立てて座るように、自分の腹部あたりに白の皇帝を乗せる。
先ほどまで白の皇帝と遊んでいたため、《風》神は暑さを覚えて腕まくりをしていた。張りのある腕の肌は、白の皇帝が暴れるたびに髪に絡まる枝が動いて《風》神の素肌の腕を傷つけていく。
竜族、「竜の五神」とはいえ、人化のときはヒトとおなじように些細な衝撃で痛みも感じるが、いまはそれに囚われている場合ではない。
――このままでは、白の皇帝はパニックから抜け出せない。
すでに随所で複雑に絡まっている髪は、限界のようにきつく枝に締まってしまい、髪を切るか、枝を折るか、その二択しか残されていない。
――髪を、切る。
これがもっとも即時の解放につながる対応であったが、自分の過失で事態を招いてしまった負い目がある上に、どれほど撫でていても飽きがこない、永遠に愛しい少年の美しい髪をこのようなかたちで切るのは忍びないことだったが、他に方法がない。
「――白の皇帝、責めは全部俺が負う。すぐ助かるから、ごめん……ッ」
――きみの髪を切らせてほしい……ッ。
せめて同意のひとつは欲しかったが、このような状態で《風》神の声など届くはずもなく、判断に迷えば迷うほど、白の皇帝は苦痛の時間を与えられることになる。
「――すまない」
言って、《風》神は風の刃で長い水色の髪を一刀断する。
一瞬、水色の細いものたちが燃え尽き間際の燐光を放ったように、ふわり、と白の皇帝から離れた。
優美な髪は、音もなく切断された。
そのことで、引っぱり合う力で互いを寄せ合っていた白の皇帝と枝は不意にそれを喪失し、白の皇帝は《風》神の身体のなかへと倒れこみ、髪を複雑に絡めていた複数個所の枝は最後の弾みをつけて下から上へと跳ねる。その枝の先端たちが枝のほうを向いている《風》神の頬や腕を掻いて、深く傷つけた。
――だが、それさえもいまは感じている暇などない。
木の枝から白の皇帝を解放させることは最低条件のひとつで、真の目的はもう、複数個所に傷を負っている少年の手当てが優先だった。
《風》神は一瞬だけわざと、ふっ、と息を天空宮の方角に向けて吹く。
同時にそれを追うようにして、いや、ほぼ並行して《風》神は白の皇帝を抱きかかえたまま天空宮へと身を翻した。




