日常から欠けてしまったもの
「とうま先輩? おーい、起きてます?」
「ん? ああ、ぼうっとしてた」
「見てりゃわかるっす」
洋食屋ほんわかの営業が終わり。
俺は合流したラッコと結衣山への電車に乗っていた。
陽はとっくに沈み、窓の外は暗闇一色だ。ときどき点々と現れる街灯がたよりなくも夜道を照らしてくれていた。
「なんかあったっすか?」
「んー。まあ」
俺は素直に頷いた。
数日前の、あの1年生たちが言っていた話がずっと引っかかっている。
―――俺たちやってないですけど。
この期に及んで見苦しい言い訳しやがって。適当ほざくな!
……そう言ってやりたかったが、どうにも3人のリアクションはマジっぽかった。少し問い詰めてみたが嘘をついているように感じない。
俺は寒気を覚えた。
まさか、俺に嫌がらせをしていた人間が他にもいるってか。
誰だろう。絶対ラッコ関連だと思うけど……。
「アタシにしてほしいことあります?」
「なんでも聞いてくれる?」
「いかがわしいお願いじゃなければ」
「じゃあ、いいや」
見えない相手に身構えていても仕方ない。
実際、ここ何日かは何事もなかったのだから。
「ラッコのほうこそ、何かあったら遠慮せず言えよ。どこでも行くし」
「………」
「ラッコ?」
おしゃべりなはずのラッコの無言が気になって、隣に向き直る。
彼女は珍しく参考書も単語帳もなかった。鞄に頬杖をつきながら、なんだか探るような意味深な視線を送ってきている。
「なんだよ」
「やー。全然ちがう話っすけど。とうま先輩、無理しなくていいっすよ?」
「無理って?」
「バイトの送り迎え。わざわざこのためだけに来てくれてるっすよね? 何時間も待ちながら」
「………」
俺は数日前にあの店でのバイトを辞めた。
が、今でもこうしてこんな時間に同じ電車に乗っているのは俺の意思だった。学校の授業が終わったら2人でバ先の安芸葉町にむかい、俺は近場で時間をつぶしてバイト終わりのラッコと合流する。そういうルーティンだった。
「迷惑だったか?」
「ぜんぜんっす。でもパイセンは負担じゃないかなって。電車賃だって……」
「それは俺の借金だからマジで気にしなくていい」
しっかり計算しているが、まだまだ損失額に届いていない。喫茶ほんわかのバイト代が待ち遠しい。そしたら借金問題は解決する。
「テストも近いからな。待ってるあいだ試験勉強をするのもそんなに悪くなかった。いつもより捗った」
いやあ、もう本当に。
いつもならこの時期、うらかとムラサキの試験対策に付き合わされて時間をとられるから。だが、前回とはいろいろ事情が異なる。俺もムラサキも、もうわざと赤点を取ることはない。うらかは自力でなんとかするつもりなのか、今のところ何も言ってきていない。このまま沈黙してくれているとありがたい。……本当に。
「今回は学年上位狙えちゃうかもな」
「ふふっ」
「なんだよ笑いやがって」
「ホントに彼氏っぽいと思って」
「はあ?」
どこがだよと思ったが、いや客観的に見たらそうかも。
時間を合わせて待ち合わせしたり、それを負担じゃないと言い張ってみたり。
付き合いたての彼氏みたいなムーブだった。
「あ、そうだ。去年の過去問持ってきたけど見るか?」
「えーっ! みる! 見るっす! さすがとうま先輩!」
目を輝かせてくれたラッコの反応に俺は気を良くした。
家の中を探していたら奇跡的に発掘された代物だ。保存状態はやばいが、解読できないほど損壊しているわけではない。
ラッコは速読みたいな手つきでパラパラ試験問題を眺めていった。
「参考にしたいなら持ち帰ってもいいぞ」
「……。いえ! その必要はないかと!」
「うん?」
聞き違いだろうか。
元気よく断られたような気がする。
ラッコは丁寧な手つきで俺の過去問を返してきた。聞き違いではなかったらしい。自宅の机やら段ボールやらをひっかく回した俺の2時間半が……。
「い、いらないのか」
「とうま先輩、これ見てください。アタシら1年生の中間テストなんスけど」
と言いながらラッコが取り出したのは、テスト用紙ではなくてタブレット端末だった。中間テストの5教科分がデータとして保管されていた。学習にスマホやタブレットを使うのはイマドキっぽい。結衣山では珍しいけど。
「え。1年生全員に支給されてるっすよ?」
「……俺らそんなの持ってない」
またしても差別かよ!
それはさておき、中間問題に目を通してみる。
正直、ラッコがこんなことを言い出した時点で想像できていたが、その嫌な予感は現実になった。問題文の意味が、どれもこれも読み取れない。ところどころ知っている単語やら計算方法はあるのに、出題形式がやたら難解だった。
「で、こっちが期末の範囲表っす」
次のスライドを見せてくる。俺の頬を汗がつたった。
なんか、俺たち2年生が勉強している範囲が、若干かぶっているような。
「俺、今度から後輩たちに敬意をもって接するわ」
◇
そんな日々を過ごしていたらあっという間に試験直前になっていた。
ここまでの約1週間は平穏そのものだった。
授業を受け、放課後は安芸葉町のカフェやファミレスで自主勉強をして、時間になったらラッコと帰路をともにする。代り映えしない毎日だったが、悪くはなかった。
まともにテスト勉強を頑張ってみるなんて耐え難いと思っていたのに、いざ続けてみると習慣として落ち着くものだ。なにより、知らなかったことを知ったり、出来なかったことが出来るようになっていくのは楽しい。
試験は明日から始まるが、こんな気持ちで臨めるのは初めてだ。
『最近のキヨくん、勉強頑張ってるね』
ヨウキャがそんなことを言ってくれる。
俺たちの中で一番成績の良いヨウキャにそう言ってもらえると自然と嬉しい気分になった。
「史上最高点を期待してくれ」
俺は再び数学のワーク問題を解こうとして――――うしろからのうなり声をきいた。
「ううう~~~!」
振り返らなくても声の主がどうしているか手に取るようにわかる。
きっとテスト勉強が全然うまくいかなくて、文字通り頭を抱えているんだろう。
ヨウキャがタブレットを俺にだけ見えるように持ち直す。
『今回は助けてあげないの?』
「………」
そう。平穏とは言ってみたものの、俺の日常に一部欠けているものがあった。
あの日以来、俺はまともに下野うらかと口をきけていないのだ。
別に険悪になっているわけでない。ケンカなんてしてないから。
ただ、うらかがあのときぶつけてきた本音は、俺の心を深くえぐって突き刺さったままだ。そこに答えを出すまでは、うらかと話す資格がない……なんてのは筋違いな考えなんだろうけど、テスト勉強を言い訳に逃げているのは事実だった。
『ムラサキさんや、もちろん僕も手伝ってはみたんだけど、上手くいかなくて。やっぱりキヨくんじゃなきゃダメなんだと思う』
「だろうね……」
だろうねっていうか、俺もつらかったけど。
うらかの勉強は根気強く付き合ってあげないとなかなか成果を出してくれない。
「悪いけど、今回は何もしてやれないよ」
今から1週間くらい前に声をかけられていたら、まだなんとかなった。
期末試験は、どこの高校もそうだろうけど単純に試験科目が多い。いくらバカ高校の結衣山でも13科目を5日間をかけて実施予定だ。
前回は4科目で悲鳴を上げていたのに、どうにかなるわけがない。
タイムリミットはとうに過ぎた。下野うらかの赤点は確定している。俺はその結末をとうに受け入れていた。
ヨウキャは迷った素振りで、次の言葉を書き記した。
『早く仲直りできるといいね』
仲直りね。
この場合、俺は何を謝るべきなんだろう。
せっかく解き慣れていた数学の問題を、俺は間違えた。




