辞めたくせにコーヒーが恋しい
翌日、7月8日月曜日。
俺はいつもより早く目を覚ました。
しかも寝覚めが最高に良いときている。布団にくるまっているのがもったいない。マッマはまだ寝ているだろうか。
「………」
ふと思いたち、リビングへ向かう。
予想通り、マッマはいない。たぶんもう少しで起きてくるだろうけど。
俺はキッチンを物色した。普段全然さわらないせいで、どこに何がしまってあるかわからない。でも、確かこのへんにあったはず……。
「あった」
インスタントのコーヒースティックを見つけた。マッマや親父が愛飲している店のやつ。子供の頃、2人が飲んでいるのが羨ましくて一口もらったのを覚えている。にがすぎて泣いたことも。
でも今なら克服できる気がする。もう高校生だし。
カップにコーヒー粉とお湯を注いで、それから砂糖に手を伸ばしかけてその手を止める。ブラックでもいけるのでは。ヨウキャとみたアニメではそんな主人公がわんさかいたし。
「にが……」
一口飲んで後悔した。こんなん無理。
おとなしく砂糖と、ついでにミルクを投入。それでも舌に馴染まなくて少しずつ砂糖を足していく。ようやく無理なく口にできる甘さになった。
「……なんか微妙」
淹れるのこれで合ってたかな。あのバイト先で提供してたものはなんかこう、もっと香りがよかった。インスタントとドリップじゃそりゃあ違うだろうけど。こんなことなら遠慮しないで飲んでおけばよかった。初日にララコに勧められて、でも苦手意識があって断ってしまったのだ。
「………」
この1週間、毎日あの店に働き詰めていた。ララコへの禊でしかなかったはずなのに、結構楽しい経験をさせてもらった。辞めてしまったからもう2度と訪ねることもないだろうに、あの洋食屋で日々ばかり思い出してしまう。無意識に未練でもあるのだろうか。慣れないコーヒーを飲みたくなるくらいには。
カップのコーヒーをじっと見つめる時間が長かったのだろう。
顔を上げたとき、リビングの入り口にマッマの姿があった。身体を半分だけのぞかせて、俺の様子を窺っている。
「あー」
俺はカップをかかげた。
「マッマも飲む?」
その日の朝食は俺のリクエストで洋食になった。
◇
学校にたどりついて、まずやることは靴箱の確認だ。
荒らされた痕跡はなかった。ほっとする。まあ、靴入れてないからね。イタズラのしようもないよね。
俺はあたりを見回して、靴箱の上から自分の内履きを回収した。一応中身を確認してから履き直す。またあたりに視線を向け、今度は外履きを上に放り投げた。別にやましいことがあるわけでもないのに、なんでコソコソとしているのだろう。
「パイセンっ!」
「うおっ」
至近距離からの呼びかけにびっくりする。
聞き間違えるはずもない。予想通りララコそこにいた。
いろいろな意味で1番鉢合わせたくない相手だった。
「よう、コウハイ。偶然だな」
「偶然じゃないっす!」
「なに?」
「パイセンが学校きたの見えたんで、追っかけてきましたっす!」
「え〜、こわ〜い」
今の俺にストーキング行為はNGよ。
後ろからの視線に敏感になっちゃうからね。
「今日もチャリじゃないんすね」
ララコはそんなことを言ってのけた。めざとい指摘だった。
あの日以来、持ち物は最小限になるようにしている。どのタイミングで何をされるかわからないからだ。
「バイトないからな」
「あ、アタシ諦めてないんで。絶対連れ戻すっすからね」
「戻らんて」
「まあそれは今はいいっす」
「よかった」
「パイセン、なんで靴をそんなところに隠してるんすか」
と、下駄箱の上を指し示して続ける。
まったく……君のような勘の良いコウハイは嫌いだよ?
この子、おバカキャラっぽいのに、普通に頭良いの忘れてたわ。
「こういうことをしたくなるお年頃なんだ。言わせんな恥ずかしい」
「最近、いろんな人に聞かれるっす。パイセンのこと」
「…………え。だれに。なんて」
「クラスメイトとか、せんせーとか、購買のおばちゃんとか用務員のおじさん」
「けっこう幅広いな」
「1番多いのは、アタシと付き合ってるのかって質問っすね」
「おおうっふ」
むせそうになる。
え、なにそれ。なんか急にラブコメあるあるみたいな展開じゃん。
「……それで?」
「『ないっす〜』って言っておきました」
「ナイス〜」
「もしかしてパイセン。アタシのせいで妙なことに巻き込まれてないっすか」
「話がどんどん進んでいくな!?」
あんまり触れてほしくない部分にズケズケ踏み込んできやがる。
さすが特待生だ。油断ならない。
「もしそうなら……」
「まてまて。勝手に想像すんな。何もない。仮になんかあったとして、それがコウハイが原因かどうかなんてわかるわけないんだし」
「………」
ララコは納得してないそぶりだが、一応口を噤んでくれる。
そう。なんか最近いろいろ起こってるけど、ララコが関係してるかどうか確信は持てない。これは嘘じゃない。
「だいたい俺、こんなことで折れるほど弱くない。だから気遣いも助けもいらない」
「パイセン……」
「コウハイは自転車のカタログでも見てな。良いの選んでおけよ」
そうして踵をかえし、逃げるように階段をあがる。
ララコは一瞬だけ俺を追いかけるような素振りをみせて、けど最終的にその場に留まってくれた。それでいい。それでいいからな。
少しだけ心臓の鼓動がうるさい。
深呼吸を数回繰り返す。意識的に落ち着こうとして、しかし不穏な騒がしさが耳に届いた。
「なんだ?」
不審に思いながら歩みを進めていくうち、嫌な予感はどんどん膨らんでいく。明らかに俺の教室からだった。
そして何故だろう。どうにも自分がその渦中にいるような気がしてならない。
教室には人だかりができていた。ちょうど、俺の席を囲うようにして。そしてその中心にいる2人は俺の親友たちだった。オヤカタ、ヨウキャである。女子組2人はいなかった。
んで、その2人の手には黒ずんだ雑巾やら洗剤やら除菌スプレーやらが握られていて、一生懸命に俺の机と椅子をきれいにしてくれている。
俺は全部を悟った。
「あっ……!」
俺に気付いたヨウキョが自身の肉声で反応する。それにつられて、オヤカタとも目が合った。
「キヨ……」
オヤカタはむすっとした顔に見えるが明らかに俺を気遣った眼差しをしていた。
ヨウキョは手元にタブレットがないせいで、わちゃわちゃと伝わらないジェスチャーに忙しい。
人混みをかき分け、2人のそばに立つ。
「オヤカタ……。ヨウキャ」
俺はすごく申し訳ない気持ちになった。ひざをつき2人の手を取る。
オヤカタのでかくて熱い手は、冷水のせいで冷え切り、爪の中にまで黒いよごれがこびりついていた。飲食店のせがれとは思えないくらいに悪臭がまとわりつく。
一生においが残り続けたらどうしよう、とそんな不安がよぎる。
ヨウキョはどれだけ力をこめたのだろうか。10本の指はどれも赤くただれ、皮が剥けている箇所が多かった。ヨウキャは肌が弱い。繊細で人より傷つきやすいその手は、こんなくだらないことのために使われるべきじゃなかった。
「どうして」
「朝、きたらこうなってた。だから……」
「ちがう。こんなこと、しなくてよかった」
「下野にきいた。どうして言わなかった」
オヤカタが悲しそうに眉を寄せる。
ヨウキャにいたっては泣きそうになっていた。
今更になって間違いを思い知らされる。
俺はみんなを遠ざけたかっただけだ。巻き込みたくないし余計な心配をさせたくなかったから。だけどそれは俺だけが納得する方法だった。
「透真くん」
その呼び方をするのはこの世で1人だけだ。
下野うらかは俺の肩に手を置いた。
「キズナ先生が職員室で待ってる。行ってきて」
「うらかは?」
「2人を手伝う」
「掃除が似合う女だな」
「好きでやってるわけじゃないわ」
「ごめん」
「謝ることでもないけど」
うらかが優しく俺の背中を押す。
俺は力なく教室を出た。うしろで、うらかの張り切り声が聞こえる。俺はそっと扉を閉めた。
職員室に行くには階段を使う。
俺はおぼつかない足取りで歩き始める。
3人の顔が自然と浮かぶ。あとで謝ろう。それからお礼も言わないと。
あれ、そういえば今日はムラサキを見かけていないな。
あいつに事情を説明するのが1番怖いんだけど……。
「っと」
俯いていたせいで前が見えてなかった。
俺は階段前で誰かにぶつかってしまった。
「あ、すみませ……」
咄嗟に口をついた謝罪は、しかし最後まで続かなかった。目の前の人物の両手によって、思いきり押し出されたからだ。
「……あ?」
床から足が離れる。ふわっとした浮遊感があって、俺は自分の身が宙に投げ出されたことに遅れて気付いた。そして詰んでいることにも。
あれ? これやばくね?
意識がはっきりしている。
数秒後に自分がどうなるかが容易に想像できる。
なのにどうすることもできない。手をのばしても、掴むものがない。支えになるものが……。
「っ!」
相手の顔も見えてねえじゃん、って思ったら腕が勝手に動いた。
ガリッ、と爪先が肉を削る感触が残る。
男のうめき声が聞こえた。
一矢報いることはできた。あとは顔が見えれば言うことないのに、遠くなっていく天井しか見えない。
打ちどころが悪くないことを祈ろう。
覚悟を決めた直後、後頭部に強い衝撃があって。
目の前がふっと真っ暗になった。




