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小説  作者: はじ
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《おかあさん、うまれましたよぉ》


 ぼくからきみを切り落とし、日々の作業で鍛え上げられた太い指々で拾い上げる。荒っぽい手つきで土を払い、矯めつ眇めつして出来映えを確かめる。よく出来ていれば立派な木箱へ、ふつうだったらダンボール箱へ、使い物にならないならゴミ箱へ、それ以下は砕いて地面に巻き捨てる。

 ぼくは、きみはどこへ入れられるのだろう。ババアは濁った牛乳色の眼球をこれでもかときみに近付け、細い手足をつまんで動きを確かめ、股を広げてちんちんを確かめ、頭を弾いて音を確かめ、首を傾げてから、ダンボール箱に放り込んだ。

 ダンボールのなかのその他大勢に押し込められて出荷される。二時間トラックに揺られ、機械のようなお医者さんたちに仕分けられてまた揺られ、商品棚に並ぶぼくはいつ売れるのか、待てども待てども売れる気配はなく、廃棄処分の前日になってようやく母親が現れ、商品棚の奥底で横たわるぼくを見て、小さくため息を吐いてから引っつかんでレジに持って行った。

「130円になります!」

 店員さんは元気にそういって1000円札を受け取り、870円のお釣りを手渡す。母親はそれを受け取った手でぼくのほおを一度はたく。

「勝手にどこかへ行くな!」

 そう言ってもう一度はたく。一度目は注意だろうが、二度目は苛立ちをはらすためだろう。三度目が放たれる前にぼくは急いでその場から逃亡をはかろうとしたが、背を向けた瞬間に襟首をつかまれ、引きずられて大きな用紙が張られた壁の前に立たされる。

 その用紙には50の絵がかかれていた。どれもなんの絵なのか分からなかった。戸惑うぼくを見ながら母親は「あ」を指さして「あ」と言った。そしてぼくに復唱することを要求した。ぼくは拒んだ。ほおをぶたれた。なお拒んだ。もちろんぶたれた。もう拒まずに「あ」と言った。次に「い」を指さして「い」と言った。ぼくは「い」と言った。「う」を指して「う」と言って「う」と言った。「え」を「え」と言って「え」と言って、「お」を「お」と言った。

 その日から開始された「あいうえおレッスン」を乗り越えなければ、ぼくは夕食を食べることはできなかった。壁に張られた用紙を前に、母親が指し示した絵をぼくは正確に発音しなければならない。


「これは?!」

「わ?」

「違う! て!」 


 バチン!


「これは?!」

「い?」

「違う! よ!」


 バチン!!


「これは?!」

「ら?」

「違う! お!」


 バチン!!!


「これは?!」

「?」

 

 バチン!

 バチン!!

 バチン!!!


 どうにかこうにかレッスンを終えたときにはもう日付が変わっていた。空腹よりも眠気がまさってぼくはそのまま壁の前で眠ってしまった。

 夢のなかで、さっきまでぼくの前にいた絵たちが縦横無尽に飛び回っていた。ぼくは手を振り回してどうにかそれを集めて回る。

 蚊のように飛んでいた「る」をジャンプして捕まえる。

「これは、き、だ!」

 足もとを転がっていた「い」に踏んでから気付く。

「これは、う、だ!」

 服のなかに入り込んだ「し」を慌てて取り出す。

「これは、よ、だ!」

 壁に張り付いた「く」を引っぺがす。

「これは、い、だ!」

 ひとつずつ着実に時間をかけ、丁寧に捕まえて並べていく。すべてを捕まえ終えたとき、ぼくのなかの空白には、その絵たちが住むようになっていた。ぼくはそれを並び替えて遊ぶことに夢中になる。夢のなかでも、夢から起きても、食事中も、歯みがき中も、着替え中も、登校中も、授業中も、説教中も、休み時間中も、みんなが外で遊んでいるのを尻目にキリキリに尖った鉛筆で、かいて、並べて、入れ替えて、重ねて、弾いて、挿げ替えて、自由帳を埋めていく


 あさおきて

 おひるね

 よるもねる

 よくねてるね 

 かかとのからす

 かかさずに

 かさかさのつめを

 すてること

 わすれる

 わすれずに

            「これなに?」

 わすれる


 突如として割り込んできた女の子の名前をぼくは知っていた。

 おおおかゆうこ

 おおお、と「お」が三つつづく名前は一番目を引いて、最初に覚えた。

「なにかいてるの?」

「ひらがなだよ」

「おべんきょうしているの?」

「ちがうよ」

「じゃあなに?」

 ぼくは言葉に詰まる。ぼくはなにをしているんだ? 予習じゃない、復習でもない。今は授業中じゃないから勉強じゃない。じゃあこれはなんだ?

「ひらがなをならべているんだよ」

「ふーん。そんなのがたのしいの?」

 またぼくは言葉に詰まる。楽しいかどうかなんて考えたことがなかった。楽しいのか、これは? 笑っているわけじゃないから、楽しくはない。でもつまらないとも思えない。少なくともみんなと遊ぶよりは楽しいし、これより他に楽しいものが思いつかないから、「たのしいよ」そう答えた。

 おおおかゆうこは「ふーん」と興味なさげにくちにして、窓から校庭を見て、そことぼくを見比べてから

「どこらへんがたのしいの?」

 そう言った。

 ぼくは嬉しくなった。今まで誰も聞いてこなかったからだ。

 ぼくは喋ろうとして、また、またまた言葉に詰まった。これを、ひらがなを組み合わせているこれを、どう話せばいいのか分からない。なにか考えてやっていたわけではない。ただ思いつくままに組み合わせて、それを眺めていたいだけだ。これからもずっとそうして生きていきたいだけだ。

《そんな生き方でもいいの?》

 ちょっと目を離した隙に自由帳がビリビリに破られ、机の上にばら撒かれていた。ぼくは散らばった紙片を集め、剥がれ落ちたひらがなをまとめ、セロテープやホチキスを駆使してどうにか修復を試みたが、どうにも難しそうである。仕方なく諦め、それらは裏庭の鯉に食べさせた。

「うまし! うまし!」

 喜んで食べる鯉を眺めながら、ぼくはもう同じような事態にならないよう対策を練る。途轍もなく頑丈な、たとえば鉄板のようなものに刻み付ければ、どんな剛腕の持ち主だろうと破られることはないだろう。しかし、固いものに刻みつけるのには時間がかかる上、ランドセルのようにどこかへ隠されてしまったら元も子もない。かくものを強固にするだけではダメなのだ。かく言葉自体の強度を上げなければ問題は解決しない。それを新しい自由帳にかく。


 つよがりより

    まつよ

 つよいことば


 ぼくはそのページに手を掛けて引き裂く。それは容易に破れる。あまりにもよわい、よわい、ひらがなのままではあまりにも弱く、脆く、外敵に対して無防備すぎるひらがなに、なにかを身に着けさせる必要があると思った。

「いやあ、うまかったよ」

 能天気にそう言った鯉にぼくは返す。

「どういたしまして。おれいにぼくのなやみをかいけつしてくれやしないかい」

「いいよ」

「ぼくのことばはどうもよわいんだ」

「弱い言葉ではいけないのかい?」

「いけなくはないよ。でもことばがよわいとかんたんにまけてしまう」

「負けてはいけないのかい?」

「いけなくはないよ。でもことばはまけるときえてしまう」

「消えてはいけないのかい?」

「いけなくはないよ。でもことばがきえるとそれはもう」

「それはもう?」

「それはもう、ぼくなんてひつようないんじゃないかって、おもってしまうんだ」

「そうなのか」

「そうなんだ」

「分かったよ。これまで私を生かしてくれた君のためだ、仕方がない」

 鯉はそう言って水面から跳び上がり、自らの鱗をピピピピッとぼくに飛ばす。ぼくはとっさに飛びのいて、「何をするんだ!」と言った。言ってから違和感に気付いた。それは少しだけ、ほそい一本の糸程度の咽喉への摩擦、ぼくはもう一度、まったく同じ言葉をくちにする。

「何をするんだ」

 違和感の正体は分からない。しかし、さっきよりも確かに体感している不思議な力強さ。もしかして鯉がなにかしてくれたのだろうか。そう思って池を見たが、どこにも鯉の姿がなかった。いくら呼んでも現れることなく、小石や小枝、草の切れ葉や虫の死骸を池に放り込んでも、姿はおろか水音ひとつ立たない。途端に鯉が恋しくなった。でもどんなに恋い焦がれようとも、ぼくの前にはもう二度と現れてくれないのだろう。そう思って、足もとに落ちている鱗をつまみ上げてポケットにしまうと、ぼくのなかで小さな水音がした。その想いを自由帳に勢いよくかきつけた。


 かたいひふ

 ひっかいたきみが

 くれたもの

 あかいつめと

 強い言葉


 それをかき終えるまでに何本も鉛筆を折った。芯だけ折れることもあれば、鉛筆ごと真っ二つに折れることもあった。折れたものは鉛筆削りで針のように削って復活させ、指でつまめなくなるまで使用した。やがてその作業も煩雑に感じるようになり、言葉をかくのに適した筆記具を求めて近所の文房具屋へと赴き、幾度となく試しかきを行った。どんなに高いところから落としても折れないロケット鉛筆、どんなに低い場所から投げても折れない色鉛筆、電車に轢かれても折れないボールペン、どんなになじっても折れないサインペン、どんなに罵倒しても折れないシャーペン、を立て続けに手に取ったがどれもこれも折れた。店主のババアに相談したところ、奥から古びた小箱を持ってきた。そこにしまわれていたのは爪切りだった。

「ぼくはつめをきりたいのではありません」

「ちゃあんと爪を切らないと傷つけてしまうからねぇ」

 ぼくは誰も傷つけたくないから、ババアに言われた通りに爪を切る。右手で爪切りを持ち、左手の小指から順にバチンバチンとテンポよく、親指に向かって切り進み、左手が終わると爪切りを持ち替えて右手の小指からまた切りはじめる。バチンバチンバチン、血まみれの人さし指は痛みがひどいのでゆっくり慎重にパチン、残された親指の爪は微塵の躊躇いも覚えることなく、バチン! と切ったその手でかいた。


 夕霧の曲がり角

 左折禁止を知らない

 カタツムリ

 欠かさずに

 カーブミラーに

 殻 こすり     《なんだか詩みたいだね。

 目をつむって          もっと見せて》

 すするよ

 霧のつぶつぶ


 大岡優子はそう言ってぼくの自由帳に顔を寄せた。花の匂いがした。名前の分からない、思いつかない花の匂い、たとえ名前がついていたって、ぼくは別に知りたくない、知らなくていい、ただその匂いがふと街のなかで鼻先をかすめたとき、そこが多くの見知らぬ人が行き交う交差点や誰もいない歩道橋でも、足を止めてうつむいたぼくの横から彼女が顔を寄せるのだ。

《なんだか詩みたいだね。もっと見せて》

 そこがどこであろうと満員電車でも授業中でも殴られているときでも、そう言って顔を寄せた彼女のために言葉を並べる。高速で視界を横切っていく景色に電線をうねらせて、一向に興味がわかない数式には赤いチョークを引いて、ぼたぼたとコンクリートにこぼれた鼻血を引き伸ばして、


      虹の下に 水たまり

    透明な       あめんぼ

          跳

           ね

         て     るね


    あしたも 晴れるよ

 あさっては ちょっと わからないけど

    あしたはちゃんと 晴れてるよ


 それらを彼女に見せようとしたが、彼女は転校してしまったのでもういなかった。彼女はぼくには読めない文字の国に引っ越したのだ。そこでぼくの知らない言葉で、ぼくの知らない人たちと、ぼくの知らない話を、ぼくの知らないままして、ぼくがまた一人で言葉を並べているとき、ぼくの知らない遊びで笑い、もうぼくの知っていることなんてなくなって、ぼくの知らない彼女になって、ぼくの知らない人と出会って、ぼくのしないことをして、ぼくの知らない言葉を交わし、ぼくの知らない笑顔で、ぼくの知らない人になり、ぼくのことなど知らなくなってしまうのだ。さみしいのか、寂しいのかぼくは、寂しいさみしいぼくは寂しいのか。

 なにかかかなければと思った。かかなければ、良くないことが、事故のように良くないことが身に降りかかる。そんな気がして最後のホームルームで、バイバイ、手を振って別れを告げる彼女を差し置いて急いで自由帳を取り出し


         窓辺

          横切る 蟻のあと

          自転車 たどる

          ギアは ぜろ


          せーの の合図で

           一列 に

         飛行機雲 と

           平行 に

        京王線とは 交差して

       たどり着いた 秘密基地

     ひみつにしてって くちにして

      ひみつの指きり したのにね


 顔を上げたとき、もう暗くなっていて、白い骨みたいに硬質な外灯に照らされて座っているぼくの周りを汚い蛾が舞っていた《まるでぼくだ》ぼくを待っているのはそれだけだった。彼女にはもう会うことがないのだ。そのことが分かった瞬間、首を締められているかのように息が詰まった。気道を通過するわずかなこの空気だけで、かろうじて息をして生きていくのだ《いつまで生きればいいんだ》考えただけで苦しくなる。苦しくて気持ちが悪くなって、側溝に走って吐いた。肉まんの肉片がにっこりと笑っていた。笑って言っていた「130円になります!」を唐突に思い出して

 外灯に影が走った。

 ぼくが走っていた。

 ぼくは走っていた。

 走っているぼくはどこへ向かうのか。

 自分すら知らないのにどこかへ行けるのか。

 そんなことが頭に浮かんでしまう前に走って、走って、息が切れるまで走って、息が切れても走って、なにもかも切れて走れなくなって、河川敷の遊歩道の端でやっと止まって、立っていられなくて横たわって、夜空を見上げながら徐々に整えられていく呼吸 《こんなものもう》草むらから虫の声《止まったらいいのにね》

 ね

 と相槌を打つ。それに対する返事はない《いいよ別にいらない》いらないけどなにか言いたくて星を声に出して数える《いち、に、さん、し》途中で何度か諦めたくなる《ご、ろく》でも全部数えた《なな、はち、きゅう》数えられた《じゅう》こうやって諦めずに生きていたら、そのうちいいことだってあるさ、きっと。

 ただ夜が明けて星が見えなくなっただけでそう思えて、ぼくは起き上がって背中やお尻についた草と土を払う。少し湿っていて冷たかった。殴られたほおがまだ痛かった。鼻の周りについた鼻血の塊を取り払う。膝が痛い。爪も痛い。はやく絆創膏を巻きたい。そう思いながら遊歩道を歩く中学生の群れにまじって学校へ向かう。

 中学生ってもっと大人びていると思っていた。でもそんなこと全然なくて、制服を着ることで外見だけ急に大人にさせられたみたいだった。ぼくは慣れるまで時間がかかったけど、みんなはぼくよりもずっと早く慣れていった。まるで私服のように着こなして、運動着のように動き回る。ぼくは拘束されたみたい《ずっとぎこちない》頭も一日中ぼうっとしている。自分がいまなんの授業を受けているのか分からないときがある。数学だと思ったら理科だった。と思ったら体育で、地理になって国語英語の音楽で、それが分かったときには放課後だ。放課後は図書室で暗くなるまで時間を潰した。本とか別に好きではないけれど、そこに言葉がかかれているからなんとなく読んでいた。

「本好きなんだね」

 だからそう言われてなんて答えようか迷っていると、彼女はぼくの返答なんて待たずに勝手に話しはじめた。

「わたしも本が大好き! もうインクの匂いを嗅いだだけで胸がドキドキしちゃう!」

《じゃあずっと嗅いでろよ》

 彼女にぼくの声なんて聞こえてない。

「なに読んでるの? あ! 芥川! わたしも好きだよ!」

 だからぼくも彼女を無視して言葉を並べる。


 ドブ川のにおいは焼肉

  似ているって笑い声

 本のにおいはカブト虫

  知らないって笑い声

  じゃあこのにおいは

     なんのにおい

 このにおいは

 このにおいは

       なんだか

          詩みたいだね

               もっと

                      見せて

 なんのにおいだろうね


       でも

     なんだか

   このにおい


 好き


 ある日を境に由優ちゃんは図書室に来なくなった。ぼくは静かな図書室の椅子に座り、波打つカーテンの先から届いてくる放課後のにぎやかな騒音、そのなかに混じるようになった彼女の声に耳を澄ませる。昨日まですぐそばで聞いていた声だった。でもぼくの聞いたことのない綺麗な声だった。ぼくはそれを聞けただけでもうなにもいらないと思って、それから図書室にいかなくなった。もっと人がいないところを探して、そこで静かに言葉を並べたかった。

 ぼくは早起きをして、早朝の踏切の遮断機を足早にくぐり抜け、登校する生徒たちと逆行、笑い声、笑い声、から逃げるようにして薄暗い路地のゴミ捨て場に屈んで空を、ビルとビルの間を楕円の雲が移動するまで見上げ、ため息を吐いて路地から出て、行き交う人々、自分を見失うまで人ごみに混ざって歩き続け、疲れたら道端に座り込んで途方に暮れ、ため息、日が暮れ、隠れるようにしながら学校に向かって、夜のプールに忍び込んで、水面に映る星に、唾を、吐いた。

 唾は星から星へと糸を引き、いくつか結んで星座をつくった。ぼくはそれを反吐座と名付け、反吐座についての物語を考えようと思った。でも反吐座に物語るものなどなかった。反吐はなにをしたって反吐で、吐かれれば地に落ちてしまうから、そこに語れるものなんて、なにひとつとしてないのだ。

 急に怒りが込み上げて、それをどうすることもできなくて、だからプールに飛び込んだ。

 頭の上から水の弾ける音。くちや鼻から泡が一斉に逃げ出す。暗い水に全身を包まれ、ぼくは静かに身を沈めながら、息が続く限りそこにいたかった。たとえ息が続かなくてもそこにいたかった。星がずっと上にある。歪んでいて綺麗だなんてちっとも思えない。汚くて、醜くて《まるで、ぼくじゃないか》それならぼくは星か《ちがう》あんな自分が輝くためだけのものなんかじゃない《それならぼくは、なんだ》

 ぼんやりとしていく頭のなかで暴れ回っている言葉は無作為、互いに凝集して、慣れ合ったかと思えば反発して、舌打ち、遠回しに相手をけなして殴り合い、でもやっぱり一緒にいたいから謝って、握手、それを何回も繰り返す日々を数えるのを止めて


 吐く

             泡ぶく  。

                 。    。

             。     。

         。

       。

   。



                  きえてしまうね

               。


                《きみはまだ

                           きえないの?》

   。


         ええっと なに?

                      きこえない

       。

                 きえないの?

 

   きみはまだ


                  きこえない

                     きこえない ふりをして



              なにもかも

               そうして

               これから

                        も

              

                    そうするの?


     うなずいてから

 水中の

 受験勉強

 提出した

 答案用紙の

 自己採点は

 最低点


    不合格

    不合格

     合格

    不合格


して

入学

した

夜の

学校


 急き立てられて毎晩

 あすにすべりこむ毎日の

 息継ぎで呼吸は日々を

 過呼吸、暗転した視界

 星天、仰ぎ見て 目眩しい

 羨ましい水面を

 ただよう塵屑を

 食べて

  生きて、

   死んだ

    みたいに

     息を

      吹き

       返さずに

        溺れて

         しまいたいのに

          また

 目を閉じて     生かされてしまう

 日が開けて

 アルコールランプで

 卒業証書をあぶった

 大きな入学式で

 拍手、拍手

 うるさいから死ね、死ね

 繰り返して

 のどが渇いたら

 ビルの居酒屋で

 乾杯のビール!

    ビール!

    ビール! を溺れるように飲み、飲み、飲む。一杯目を飲み終えるとお腹のなかにじんわりと熱が宿った。二杯目でそれが血管を伝って全身に、足の指も目も、くちびるも熱くなった。三杯目で熱は皮膚のすぐ裏側までやってきた。四杯目をくちに運ぶと皮膚がただれていき、五杯目で一気に噴き出した。そこにいるすべての人から発せられるすべての会話が届いてきた。でもぜんぶ混じり合っていて、そこから意味を拾い出すのは難しかった。何度か話しかけられたけど、相手のくちから発せられた言葉が空気を漂いながらぼくの耳にたどり着いたときには意味が抜け落ちて音だけになっているからなにを喋っているのか分からない。分からないからとりあえず笑って、ビールを飲み、飲み、飲む、飲んだ、飲むんだ。

 気付いたら丸まって寝込んでいて、通りすがりの誰かに蹴られてテーブルの下に落ちてしまった。落下の衝撃で意識が戻り、驚いて飛び上がってテーブルの裏面に頭をぶつける。グラスや皿がぶつかる音がして、男女の入り混じった驚きの声が上がったあと、一瞬だけ静かになってその静寂はすぐに笑い声で埋められた。ぼくはそれをテーブルの下で聞いていた。いくつもの脚がぶらぶらと揺れていて、笑い声とともにバタ足、水しぶき、水しぶき。

 それらの脚から離れた隅に、丸まったなにかが落ちていた。ぼくは無作為にうごめく脚をよけながらそこまで這っていく。手に取るとそれは誰かが脱いだストッキングだった。そう思ったのとほぼ同時に、「あー!」と近くで声がして、女の人がテーブルの下をのぞいていた。

「あたしのストッキングぅ。きみはもしや、ストッキングフェチだなぁ」

 ぼくは首を左右に振ったがその手にはしっかりとストッキングが握られているので説得力はない。女の人はにぃとくちを引き伸ばした笑顔をつくる。

「いいよーあげるよー」

 そう言われたのでぼくはくるくると小さく丸めて遠慮なくポケットにしまった。それを見て女の人はまた笑う。

「あはは、ほんとにほしかったんだぁ」

 こっちきなよ。と誘われたのでぼくは机の下から出て、その人の隣に座った。

「きみはストッキング好きなんだねぇ」

 ぼくは首を左右に振る。その手にはもうストッキングはないから説得力がある。

「あはは、いいよーほしいならいくらでもあげるよー」

 右肩が頭ひとつ分重くなる。首にかかる息が熱い。なによりも酒くさい。

「あはは、いやがるなよーストッキングフェチくん」

 首を左右に振ると花の匂いがした。

《なんだか詩みたいだね。もっと見せて》

 ぼくは頷く。頷いて言葉を並べようとしたが、お風呂に入っているみたいに全身が熱くて、頭が回らなかった。力が抜けて、眠くなる。辺りを飛び交う声が間遠になる。


「ねぇ「「つまん    《し》

 《み》  な」い 

     「から」  《たい》

ふたりで」出 

  ち「ゃ「おう      よ」」」《だね》


 誰かの声が反響する。よく意味も分かってないのに頷くと、浸かっていた浴槽の栓が外されてお湯が一気に流れ出す。肩から順に体温が下がっていき寒くなる。ガタガタと震えていると、その手をつかまれ、ぐいっと引かれてぼくは外を歩いていた。煌びやかなネオンサインや居酒屋の看板の照明が眩しい。前から来た人と肩がぶつかって体勢を崩す。「大丈夫?」ぼくは頷く。ぼくは連れられるまま歩く。左手は小岡さんに確りと握られている。その手は温かいというよりも熱い。火傷したみたいに手のひらがぴりぴりする。でも不思議と心地よくて嫌じゃない。酔っぱらってふらふらのぼくを力強く導いてくれる。歩こうと思わなくても引っ張ってくれるからとても楽だ、楽ちんだ。

 そう思っていると繋いでない右手がやけに冷たく感じた。ポケットに避難させると、そこに入れていたストッキングが押し出された。それが地面と接触した瞬間、あれだけ確りと繋いでいたはずの手が、パッ、と離れた。彼女は振り返らずに人ごみをかき分けながら先に進んでいく。ぼくは彼女を追うかストッキングを拾うか迷った。彼女を追ったとして、また同じように手を握ってくれるだろうか、また同じようにぼくを力強く導いてくれるだろうか。もしそうしてくれないのなら、たとえ彼女を見失ったとしても、ストッキングを拾いに戻った方がいいのではないだろうか。散々考えた末、ぼくはストッキングを拾いにいった。彼女は人ごみのなかに消えてもう見えなかった。

《バイバイ、バイバイ》

 ストッキングを丸めてポケットにしまい、ぼくはひとりで歩き出した。辺りは酔っぱらいだらけだ。赤い顔の酔っぱらい、青い顔の酔っぱらい、黄色いゲロを吐く酔っぱらい、それを介抱する黒い酔っぱらい、桃色酔っぱらいは白い酔っぱらいのことをずっと笑っている。色とりどりの彼らから見た《ぼくはいったい何色の酔っぱらいだろう》ぼくは自分の手のひらを見る。暗くて色がよく見えない。たまたま近くを通りかかったサラリーマンの軍団の一人をつかまえてぼくは聞いてみた。

「ぼくは何色ですか?」

「なんだ、きみも一緒に飲みたいのか?」

「ぼくは何色ですか?」

「そうかそうか! よし、一緒に飲もう! おい、みんな! 今日から入った新しい仲間だ! 仲良くするんだぞぅ!」

 そうしてぼくは居酒屋の座敷席に連れて行かれ、左右を汗と酒くさい男たちに挟まれ、目の前に並ぶ見たこともないお酒、泡がすごい、ペンキみたいな、水みたい、水、で乾杯、おかわり、乾杯、おかわり、乾杯、おかわり、乾杯、乾杯、乾杯乾杯乾杯、おかわり、おかわり、おかわりおかわり、乾杯!

「おい、きみ! 自己紹介をしてくれ!」

 ぼくは立ち上がってくちを開こうとして、当たり前だがなにも出ない。ぼくは自分のことなんてなにも知らないのだ。知らないことって、どう頑張ったって話せるわけがない。

「おい、きみ! 自己紹介! 自己紹介! 自分を紹介、自己紹介!」

 軽快な手拍子に無理やり導かれるようにして、ぼくはくちを開いて自己紹介。

「ぼくは《   》であります。

「学生のときは《      》して《   》

「その他にも《     、           》。はい、《        、 》  《  、   、      。

                  。

      、                。

                            。くちにした言葉は誰の耳にも入らないでテーブルの上にある半分残ったビールのジョッキに落ちる。小さな飛沫が上がり、黄金色に泡立ちながら、縮んでいく泡とともにやがてぼくにも聞こえなくなる。

 いつの間にか座敷には誰もいなくなっていて、ぼくはひとりで店を出る。

 突き刺すような肌寒さに出迎えられながら、にぎわいの最盛を過ぎた繁華街を歩いていく。陽気な酔っぱらいたちはもうどこにもおらず、いるのは陰気な酔っぱらいばかりだ。シャッターの下りた店先で倒れている酔っぱらい、電柱に抱きつき頻りになにかに謝っている酔っぱらい、犬の死体、人生逆転の手相を見出そうと自分の手のひらを凝視している酔っぱらい《みんな明日を恐れ、どうにか今にすがりつきながら生きていくしかないんだね》繁華街を抜けて国道を越えて住宅地に向かう。明かりの消えた家。切れ掛けの電灯が照らす公園の近くで歩けなくなって、フェンスにもたれかかる。《さむい》寒かった。寒くて眠かった。このまま眠ってしまうと死ぬだろうか《死ねるのだろうか》足の感覚がなくなり突然視界が落ちる。顎とほおが熱くなる。その少しあとに痛みが襲う。通り過ぎていったタクシーのテールランプの嘘みたいな赤さに照らされてぼくが血だまりに沈む。氷点下の夜に体温が流れ出る。意識だけがぼくを取り囲む。ぼくのまぶたをこじ開け、生死を確認する《まだ生きている》目を閉じた《まだ生きていた》眠る《まだ生きている》朝日が眩しい。ほおが濡れていた。涙ならよかったけど夜露だろう。頭のすぐそばで小さな虫が潰れていた。名前も知らない虫だ。か細い二本の触角の片方は千切れ、口吻だろう突起は折れ曲がっている。色の分からない体液をこぼした胴体から伸びる六本の脚は、なにかに祈るように組み合わされている。この虫は祈りながら死んだのだ《なにに祈ったのだ》なにを祈ったのだ。それすらも知らないまま、寝返りを打ったぼくに殺されたのだ《ぼくが殺したのだ》この虫をぼくが殺したのだ。新聞配達のバイクが古びたエンジンを唸らせて通っていく。どうかこの虫のように《ぼくを轢き殺してくれ》ないのだろうか。立ち上がろうとしたけど、目が回ってだめだった。気持ちが悪い。吐きたい。そのついでに




《死にたい》




「舐め掃除! 舐め掃除!」

 学校に行かなくちゃ、いや、会社か。スーツを制服みたいに着て、鏡の前に立って笑顔の練習「ははははは」をしていると「気持ち悪ぅ」どこかから自分の声、洗面台に吐いて顔を洗う笑う。

《笑うな》

 言い返して満員電車に乗る。鼻先をかすめる花の匂い、なんだか詩みたいだね。もっと見せて、がマスクの中で臭う。人の頭の先からわずかに見える景色、なんだかしんでるみたいだね、徐々に自分が、もっとみせて、崩れていく。つり革に手首だけぶら下げてマスクのなかに吐く。駅に止まり乗客が乗車口から吐き出される。ぼくも一緒に吐いて床に座り込む。みんな見下ろしている 吐き掃除! 吐き掃除! 花の臭いがすると思ったらゲロが鼻に付いただけだった。マスクの間からゲロがこぼれる。肉まんの残骸が床に落ちる。それを見つめていると駅員に担がれて駅の外に放り出される。少しだけまぶたを閉じて眠る。路地裏に座り込んで時間が過ぎるのを待つ。胸ポケットの携帯が震えてぼくを呼ぶ。それ以上に震えて気付かないふりをする。野犬が遠くからこちらを見ている。その隣でポリバケツをあさっているおじさんが笑っている。手を振っていたから振り返す。歩いて近寄ってきて握手して拍手されて路地裏から送り出される。歩いている人たちが一斉にぼくを見る。二つの瞳にぼくだけを映す。ぼくの顔を見て、恰好を見て、笑う。笑って手を振って握手して拍手して線路に送り出す 舐め掃除! 舐め掃除! ぼくはうつ伏せになって線路の上を這い進む。線路は十分に一回の頻度で激しく震動し、耳が割れるような音を立てながらぼくの真上を電車が通過している。ぼくはその度に体を伏せて通過するのを待つ。ごつごつした砂利が全身に食い込む《眠い》でも眠れなくなった。寝ようとすると言葉が頭の中を暴れ回って眠らせてくれなかった。でも気付いたら眠っていて、すぐそばを通過した電車の爆音で飛び起きる。またすぐ気絶するように眠る。真っ暗なのに眩しいライトがこちらに迫ってきて急いで起きる。それを一晩中繰り返す。全然眠れなくなったから病院まで這って行く。

 受付で初診であることを告げて保険証を出すと、相手はぼくの手元を見ながら不思議そうな顔をして告げた。

「血はもう止まっているようですが?」

 ぼくはなんのことを言っているのか分からなくて聞き返す。

《血が止まっていても治っているとは限らないですよ》

 待合席の灰色のソファーに腰をかける。ぼく以外には、二席分空けて薄い浴衣を着た老人、一席開けて身動きひとつしない子ども、その隣にスマホから目を離さない女性でソファーは途切れ、雑誌棚が置かれている。そこには、幻聴に効果のある健康体操、麻痺した痛覚で睡魔を覚ませ! みんなの顔色のぬり絵、があったが、暇を潰せそうなものがなかったので、受付の脇にある観葉植物を眺めながら奥の診察室から漏れ聞こえてくる話し声をぼんやりと聞いていた。


「いよい「よ生まれるよ」うです」

 消毒液で「はい「、爪に出」血が」

「そう」です」「いやでも」、死んだ

「ですか」ら!」ですから!

「   」さぁん! どうぞー!

「   」さぁん! どうぞー!」


 誰かの名前が呼ばれた。

 でも誰も診察室に向かおうとしなかった。

 その名前は何度も呼ばれた。こんなに呼んでるんだから早く行けよ。なんて愚鈍なやつなんだと心のうちで悪態を吐いていると、呼ばれていたのが自分だったことに気付いて急いで診察室に向かった。

「そちらにお座りください」

 医師に促されるまま丸椅子に座る。

「今日はどうされました?」

《よく眠れなくて》

「なるほど、痛みますか?」

《いえ、痛みはないのですが、眠れないのです、よく》眠れないのです。

「なるほど、血が固まって爪床を圧迫していますね。とても良い絆創膏を貼ってあげましょう。あとお薬を出しておきますね」

《はい、血管の鉛で腫瘍、どうにか残業に説教、あっはい、あっ》

「そうですか。ではどうぞ」

 手のひらに処方された

 たくさん錠剤たくさん

「よく噛んで飲んでくださいね」

《分かった》

 よく噛んで飲んでよく《眠った。眠りすぎて起きて》いることも忘れた。朝食を食べ《ながら歯を磨き、虫の群れが迷い込んだ三角》コーナーに吐きだす。生米でく《ちをすすぎ、ネクタイを首にく》くって、浴《槽で》電車を待ち《、》いつまでも来ないので《布団に入って道を》歩いている。電柱に《顔面からぶつ》かって《鼻血が》出た。でも痛くな《い全然、》強がりでは《なくて、》本当に痛くも《なんとも》なくて、自分の痛み《じゃないみたいで》、自分に落ち《た血の滴も自分》のものじゃないみたいで、だから《すごく汚く》見えて、その場《から急い》で離れようとして、マンホールの《隙》間につまずいてこける。それ《すらも》自分じゃないみたいで、しば《ら》くう《つ》伏せ《のまま眠った。クラクショ》ンも子《守唄み》たい《に心地》よい揺 《りか》ご《の担架、救》急車《は霊》柩車、棺桶に入っ《て明》日 《ま》《で》《に》《燃》《え》《て》《灰》《に》《な》《り》《た》《く》《て》《、》《も》《う》《全》《部》《終》《わ》《っ》《て》《ほ》《し》《く》《て》《、》《も》《ら》《っ》《た》《錠》《剤》《を》《す》《べ》《て》《く》《ち》《の》《中》《に》《入》《れ》《て》《よ》《く》《噛》《ん》《だ》《味》《な》《ん》《て》《ま》《っ》《た》《く》《し》《な》《く》《て》《、》《こ》《の》《ま》《ま》《こ》《れ》《を》《全》《部》《飲み》《込んだ》《ら》《やっと》バイバイ《死ね》《るの》《かな》バイバイ《バイバイ》《そう》《思ったら》《途端に》《怖くなって》《吐いてしまっ》   た   もうこんなチャンス絶対にないのにもったいない   そう思いながら見下ろした大量の白濁した唾液は   ぼくなんかよりもずっと清潔だ   よく噛んだから泡立ちもよくて   ぷちぷちと泡が弾ける音なんて   健康的な子どもが飛び跳ねて遊んでいるみたいだ   ヤッヤッ   あはは   ははは   あはははは   はぁ  ぼくも一緒になって飛び跳ねたくなる  でもそんなことは絶対にしない   しないというか眠くてできない  眠いけど眠れない  眠れないし  もう死ねない  死ねないのだからまだ続く  続いていく人生はぼくの人生 生まれて 死ねないから人生はまだ終わってはいないから もう一度歩き出してゆくぼくはどこへ行くのか その行方は見当もつかなくて ただ暗闇を手探りで進んで行くような人生って 本当に生きているって言えるかな 一日一日が怖くて仕方がない 部屋の扉を開けるのがこんなにも苦しいなんて思ってもみなかった 手が震えてしまって 息が詰まって どうして自分が生きているのか そんなことを考えはじめたらもうおしまいで 頭のなかを満たしていく黒い靄に絡め取られて一日が終わって布団のなかで少しだけ安心してでも日が昇るまで眠れなくてまた扉の前に立って自分の生き死について考える日々がこんなにも続くならさっさと死んでしまった方がいいじゃないかでも死に方すらも分からないぼくは自らの愚鈍さをどうやって認めればいいのか認めることができれば生きやすくなるのかそんなこと思ってしまってどうやったって生きやすくなんてなれないのにもうなにもなれないのに細い腕を振り回して扉を殴ってみてその痛みだけが自分の所在のように思えてひたすら殴って殴って殴っていつの間にか泣いていて血と涙がこんなにも熱いなんてことを今さらのように知ったとしてぼくはそれをこの血と涙の正しい使い方なんてやっぱ知らなくて殴って殴って殴ることしか自分を消費できないからこの暴力は誰のためだ自分か自分なのか自分であるのならぼくはぼくのために生きていかなければならないのかそれすらも億劫で誰のためにも生きられないからぼくはずっとこんなんなのだってことにようやく気付いたからっていまさら誰かのためにこの血と涙を使うことなんてはたしてできるのかい?




《わからない》

    。     《わからないよ、そんなこと》

                     《だってぼくは》

      《じぶんのことだって》

 。                          《なにひとつ》

               《わからない》

         《わかりたい?》

                               《いや》

     《べつにいいよ、わからなくても》

                           《でも》

         。             《でも?》

           《わかってあげたいよ》

                        《ぼくは》

                           《ぼくのこと》

     。


 振りかざした拳で

 扉を殴らずに開ける

 足音を立てないように注意しながらリビングを抜けて玄関へ

 ずっと昔に靴箱の奥深にしまわれたスニーカーを発掘

 右側をぼくが履き

 左、

 左側、

 左側は、

 きみが履く


 靴ひもの結び方なんてもう忘れてしまっていて

 結ばずに家の外に飛び出してしまったから

 ありもしない段差に足を取られて

 虚しさとやる瀬なさで足を挫き

 転倒

 まだ誰のためでもない痛みに立ち上がってもまた


    舐め掃除! 舐め掃除!


 聞こえてくる


    吐き掃除! 吐き掃除!


 から逃げるようにして階段を駆け降りていくと

 まるでぼくらの行く手を導くように静まった夜

 せーので一緒に踏み出した一歩が冷えた路面に触れれば

 そこから波伝いに静けさが揺れていき

 道端に並んだ小石がわずかに傾いて

 雑草が少しだけお辞儀して

 マンホールがちょっとだけ歪んでは

 空き缶がややへこんで

 すぐそばの外灯は数回の点滅ですんだけど

 自動販売機の明かりは完全に落ちてしまう


《あったか~いが、つめた~いになってしまうね》


 きみがそうくちにして、もう一歩前に進んだ


「いいさ、どうせ誰も買わないから」


 ぼくがそう答えて、さらに一歩前に進んだ


《わからないよ》


「わかるんだ」


《どうして》


「どうしてだろう」


 ぼくらは衛星通信のように言葉を交わしながら

 少しずつ前に進んでいく

 ぼくらを見張る夜空の星はみんな寝ている

 月なんて今夜も休んでいるから

 この夜はまるでぼくらが知っている夜じゃないみたい


《これからどこへ行こう》


 ぼくが言う


「どこへ行くかは決めなくていいよ」


 きみが言う


《これからなにをしよう》


 ぼくが言う


「なにをするかは決めなくていいよ」


 きみが言う


《これからどう生きよう》


 ぼくが言う


「どう生きるかは決めなくていいよ」


 きみがそう言って

 ぼくは頷いちゃったから

 ぼくらはどこも目指さずに

 なにをするかも決めないで

 生き方すらも決めないで

 生きていくことを決めた

 途端

 ぼくらの歩調が重なり合って

 歩幅がだんだん広くなる

          電柱から

                   電柱へ

             足取りは

     無重力に

跳躍


 乱暴な

 タクシーを

 追い越して


 もう遥か彼方への流星


 目まぐるしく光を放つ夜景を加速して

 覆い被さる帳をすり抜けて

 軽やかに虫の羽ばたき

 まだ見ぬ満月を目指して


  バイバイ! バイバイ!


 弾んでいく車輪が軋むとき

 ときどき片腕が躍り出て手をふる


  バイバイ! バイバイ!


 見送られてぼくら

 夜風に乗り損ねてももう迷わない

 戸惑いは惑星に任せて

 赴くままの衛星の疾駆

 遅刻なんて気にしない

 遅延届は宇宙ゴミ箱に投げ


 広げて


 スペース


 踊り場


 ジャンプして、一回転!


 瞬きは一回だけにして

 二、三回転続けざま

 周回軌道に乗せてもらえるのは

 今日までだって知ってた?

 知らなかったら言ってって

 きっとまた乗せてくれるって

 言ってたよ反吐みたいな星座が

 反吐はきながら

 でも変な顔しながら


 死ぬの?

 知るの?


 どっちでもいいって言ってたよ

 もうどっちでもいいって

 どうでもいいって

 言って笑って

 変な顔しながらへとへとの反

              吐

               座

                流

                 星

                  群

                    ドブ川に座礁


 見下ろしながら願いごともうした?

 どうなりたいって願った?

 なにになりたいって願った?

 お願いだから教えて

 教えない

 ならいいやっていう間にもう見えない

 ため息

 またなにも願えなかったね

 またなにも願わなかったんだね

 それもいいよ

 それでもいいよ

 目的地なんてはじめからないし

 どこへ行くかも分からないし

 それでも前に進むことだけは絶対ね

 どこに行き着いても

 息ついて

 また前に進もうね

 もうね

 周回遅れに気付いても傷つかないって約束してね


 なんてね嘘だよ

 どうせ気付いて傷ついてしまうから

 今夜も嘔吐に自己投影して

 人身事故に自身を重ねるなんて

 夜間学校でなにを習ってきたの?

 生き死にの優劣のつけ方?

 自由帳への生きづらさの綴り方?

 

 ねぇ、

   タクシー

    もっとスピード、スピード!

             クラクション!

           クラクション!

            スピードを上げて!

           クラクション鳴らして!


 散らばって

 骨ばった指の割れた爪

 巻いた絆創膏が皮膚みたいで汚いね

 本当に汚いね

 きみは

 ぼくは

 ぼくらは

 エタノール沈殿で沈んだ死虫の屑みたいで

 ふて腐れて泥酔

 死んだような不眠

 でも生きてるから

 まだ生きているけど

 言いたいことなんて一度も言えたことない

 苦しくても苦しくても

 なにを言われても

 なにも言わないで夜になったら自由帳に瀉血

 血の線を静かに結んで

 爪で繊細に刻んで

 そうしてなにかに

 なれたかな

 まだなんにもないから

 明日もまだ不在で

 成熟とはほど遠いぼくらは

 いつまでも現実感なんてなくて

 成長とは程遠いぼくらは

 救われることなんてないんだからさ

 救われることなんて望まないで

 このままどこまでいけるのか

 恐れと期待で不安定な足取り

 このままでどこへ行けるのかな

 ぼくらに行ける場所なんて限られていて

 できることなんてもっと限られていて

 その限られたなかで

 どうにかこうにかもがいて

 どうにかこうにかあがいて

 どう頑張ったって笑われてしまうから

 どうせさ

 さいごまで惨めだから

 さいごまで憐れだから

 さいごまで

 ずっと

 このままでいいよ もう

 

 人とうまく話せなくても

 自分の想いを誰にも伝えられなくて

 それをどうにか言葉にして笑われても

 笑い返さずにかき続けていられれば

 いいからって思ってたんだけど

 みんなやさしいから

 同情して誰もみくびってくれなかったね


 怒りは行き場をなくして

 傷つけるのは自分しかいなかった

 人からつけられた傷はなかなか癒えないけど

 自分のなら大丈夫

 って思ってたんだ

 そう思っていたぼくがずっときみを苦しめていたんだね

 だからもうさ

 誰かを傷つけるためじゃない

 ぼくだけを救うためでもない

 似通ったぼくらが前に進むためだけに

 ふれやすい感情をふるわせて

 吐き出す頼りない言葉だけを頼りにして

 先なんてまったく見えないけど

 いつまでも

 いつまでも

 一緒に

 一緒に

 前へ

 前へ

 進んで

 進んで

 いようね

 ねっ!


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― 新着の感想 ―
[良い点] 大好きです [一言] 言葉を紡いで結って壊して、でも繋げて解けて切れて割れて溶けてなくなって、そしてポツンと現れる。 言葉が繊細でいつ触れても壊れてしまいそうで…。 本当に言葉が出ません…
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