7.WのI
生き生きとしていたウィルドの女神が、日に日に精彩を欠いていく。物思いに耽ることが多くなり、薄く色づいた唇を悩ましげに噛んでいる。たっぷりと憂いを帯びた視線に、ウィルドは不謹慎にも喜びを覚えた。
子供たちを見送ったイースの肩を抱き、柔らかい体を引き寄せる。
「私、どうして気づかなかったのかしら」
その気づきがウィルドは嬉しい。そう言ったら彼女はより一層の悲しみにまみれるだろうか。聞きたくなれども余計な口は叩かない。賢く沈黙を選び、慰めに髪を梳いた。
夕暮れの街。イースに向かい人々が手を振る。老若男女、全てがイースに好意的で、心からの親愛を示している。でもイースは彼らと面識がない。いや、ときによっては面識がある者もいるのだが、彼女にはわからない。
「最初にこの指に触れてくれた子供たちは、もうとっくの昔にいないのね」
昔であれば死ぬのは弱い幼子からだった。けれど世界がおよそ安全になって、街の子供は随分と数が増えた。ウィルドしか把握できないほどにたくさんの子供がいるから、彼女は毎回違う子がローテーションで遊びに来ていると思っていたのだろう。
実際は違う。イースの明日とジュエルドの明日は地続きではない。また明日と去って行った彼女が、次にジュエルドを訪れるのは早くても一月は後だ。
考えてもみて欲しい。世界を一から創り出すのに、現実世界の一日に対して一日しか時間が進まなかったら、この世界の発展はいつになるのか。足りない要素を追加して、様子見に一年も二年もかけていられない。早送りは必須だった。
ウィルドは知っていたが、あえて彼女に伝えなかった。誰も彼女に言わないよう言い含めた。それが必要だと思ったから。
「必要としてくれる甘美に酔って、私、この世界に住む人々のことが見えていなかったんだわ。人々としか見えていなかった。個人を認識できていなかった」
「そうですね。でも仕方がありません。あなたはジュエルドの者ではなく外の方です。時間に、世界に分かたれている。同じものと受け入れてはいないでしょう」
「そんな……そんなことは……」
イースは「ない」と言い切れない。それは明らかな嘘になる。
ウィルドは知っている。闇のように黒い目が隠し切れない熱を帯び、己に向けられていることを。しかし彼女は自分に言い聞かせている。ウィルドと自分は違うものなのだと。
ウィルドが違うのであれば、この世界の人々はもっと違う。ウィルドへの思いを受け入れない限り、彼女はこの世界の命を己と同じと受け入れられない。
けれど――そのままでは、ウィルドは本当の幸せを得られない。
交神の間に戻り、椅子を持ってきて座らせる。人の目がなくなって、女神としての顔が剥がれた。項垂れているのは、落ちこぼれで自信のない魔法使いだった。
涙がひとつこぼれたのをきっかけに、次々と水の玉が落ちていく。この大きさではのどを鳴らすほどに甘露を啜ることができないにしろ、地面などに吸わせるには勿体ない。咽び泣く女神の頬に唇を当て、拭うように滑らせた。
「私の女神、お迷いか?」
「……」
「教えて欲しい。どうかその身を苛む悩みを打ち明けて。私にあなたを導かせてください」
ウィルドの手は彼女の頬を覆ってなお余る。両手で頬を持ち上げて、髪の生え際を指先で擽った。
泣き濡れたぬばたまの目が、揺れて、揺れて、ああ、なんて不安定なのだろう。まるで女神が手を差し伸べる前の、この世界のようだ。
「私」
ひくりと細いのどが震えた。子供のようにしゃくりあげ、儚い声で訴える。
「魔力が、どんどん弱くなって、どうしてだろうって」
「……心当たりはありますか?」
「また明日って言ったの。あの子たちに、明日も来るから、遊ぼうねって」
「結果として嘘になってしまったのですね」
「そんなつもりじゃ、なかった、のに」
可哀相な女神。彼女はあまりに無防備で、とんでもなく迂闊だった。今このときですら、いや、今このときこそその骨頂だった。
「申し訳ありません。あなたが知らない時間のことを、私が指摘していればよかったのに」
「いいえ、私の視野が狭かったの。姉に反発して、満足にジュエルドのことを聞かなかったから」
細い体を抱きしめる。あんなに大きかった女神が、今はこの腕に収まるほど小さい。顔が見えないのをいいことに、ウィルドはうっそりと笑った。
「結果的に嘘になった。……ああ、もしかしたらいつか、私のせいであなたの嘘を増やしてしまうかもしれません」
「え?」
黒髪から垣間見える白い耳が艶めかしい。丸い縁に唇を押しつけて、息を吹き込むように囁く。
「きっとあなたたちを幸せにする。あなたはそう言いました」
「え、ええ。言ったわ。ジュエルドを修復して、安定させて」
「ねえ、イース様。幸せとは移ろうものです。私の今の幸せは、それだけでは足りない」
腕の中で震えるイースが、悲しみではなく恐怖に震えた。
彼女は嘘を吐いてしまった。悪気のない、自覚しなかった些細な嘘は、イースの力を徐々に削った。これから更に増えるかもしれない嘘に、次は何を奪われるのか。
「私はあなたと離れたくない。いつまでも一緒にいたい。一緒にいようと言いました。覚えていますか? あなたはそれに頷いた」
この期に及んでまだ理解していない彼女が愛おしかった。なおウィルドの所業に思い当たらないだなんて、素直にも程がある。
後づけの嘘など簡単に作れるものだ。イースはウィルドと様々な言葉を交わしたから。創造主はその点、やはり魔法に精通していた。意識的か無意識的かはわからないが、言質を取られないよう、意味ある会話を成り立たせることはほぼなかった。なんなら名前すら知らせなかった。そういう意味で、確かにイースは落ちこぼれなのだろう。
「愛しています、私の大切な人。私の幸せはあなたと愛を交わすこと。私を否定しないで、どうか同じ命だと認めて」
「ウィルド……」
もしかしたら騙されていたのではないか。そんな思いを抱かせないよう、たっぷりと時間をかけた甲斐がある。
彼女がいつか世界を捨てると言ったあの日、すでに発言を盾にして引きずり込むことは可能だった。でも我慢したのだ。愛しているから。彼女にも幸せを感じて欲しかったから。
「私と同じものになって、時を同じくして、私と一緒に生きてはくれませんか」
そうすればこれ以上のペナルティを負わなくて済むと言えば、溶かした氷がついに割れる音がした。
生きる世界が違うからと諦めようとした恋心。流れ落ちていく魔力がいつ尽きるかという不安。全部ひっくるめて解決するその提案は、彼女にとっての導きとなったらしい。
ウィルドは作り物ではない晴れやかな笑みが浮かべた。陰などどこにもない、太陽のような笑顔だっただろう。
当たり前だ。心の底から嬉しくて、今が一番幸せだった。
「唱えて――私はジュエルドの中で生きたい、と」
「私、は」
椅子の下で、魔法陣がくるくると回る。イースから受け取った魔力と、紛れ込んだ創造主の魔力を溜め込んで、ウィルドが創った魔法が動く。
創造主には感謝している。その才能を受け継いで、色々な魔法を創り出せた。イースを喜ばせる魔法を、イースを世界に馴染ませるための魔法を、イースをウィルドと同じものに引き摺り下ろす魔法を、閉じ込めるための強固な結界魔法を。
そうして、女神はただの一人の女となり、もう一人の管理者となり、小さな世界は幸せを手に入れた。
世界に手を出す神はいなくなり、皆に愛された女はウィルドの隣で永遠を生きて世界を見守る。ウィルドは二度と世界に一人取り残されることはなくなり、愛した女を手に入れた。
イースは愛した男に寄り添って……たまにぼんやりと空を見上げている。
「イース」
交神の間に立ち尽くす愛しい女の名を呼んだ。揺れる瞳はその内安定するだろう。
管理者であるウィルドには、同じく管理者であると同時、ジュエルドの民となった彼女の必要とする要素がわかる。成長をした今では、その必要な量までも。
溺れるほどの愛情にこれでもかと漬け込んで、空気の存在を忘れさせれば、きっといつかこの世界のように揺らがぬ形を取り戻す。
「あなたを幸せにします。私のイース」
完成した世界で、ウィルドは幸せを抱き締めた。