第三話
伯爵家に後継となる男子が誕生したのはその年の冬のことだった。
妻に良く似た柔らかな金色の髪に暖かな茶色の瞳をしている。
夫の両親である伯爵夫妻は大いに喜び、母親に惜しみない賛辞を贈った。
「さすが伯爵家の嫁です」
大人しく、夫のすることに口出ししないこと。
それ以上に後継ぎを産むことは貴族の嫁として最大の務めである。
夫も満面の笑みを浮かべて妻のベッドの横で彼女の手を握って労わった。
「ありがとう、愛しているよ」
侍女に聞こえぬように「君に似ていて良かった」とため息を吐くことも忘れなかった。
「もし赤子があの馬鹿に似ていたらどうしようもなかった」
妻は、そんなことを囁く夫の手を握り返し、何かを訴えるように顔を上げて目を潤ませる。
何も知らない周りの者にすれば麗しい夫婦愛に見えただろう。
「大丈夫だ。 その時は君の体調が悪いからと赤子と共に療養に出すつもりだったから」
誰にもお披露目せずに隠す。
その言葉に、もしかしたら夫が赤子をどこかにやってしまうのではと妻は怯えた。
「そんなことはしないよ、君の大切な子供だ。 私にとってもね」
妻はこの赤子のためにも生きていかなくてはならない。
この夫の傍で。
儚げな令嬢だった妻は我が子のために自分がしっかりしなければと思った。
妻は恋人との子供を産んだ後、肉体的にも精神的にも強くなろうとしていた。
しかし元子爵令嬢は、ほとんど屋敷から出たことが無く社交界さえ知らない。
成人してすぐに結婚、出産。
そのため家族と屋敷内の使用人たち以外の者との接触はほとんど無かった。
そうなると、ただただ夫と義理の両親の言いつけを守ることが自分の大切な子供のためだと悟る。
長男が産まれて半年後のある日、夫はいつものようにさりげなく妻の部屋を訪れた。
未だに夫婦の寝室は別々で、二人は同じベッドで寝たこともない。
子供までいる夫婦がまさかそのような状態だとは周りの誰も思っていなかった。
すでに夜は更け、侍女や護衛も夫婦の部屋の外に出ている。
赤子は他の部屋で乳母が面倒を見ていた。
夫はすでに夜着に着替えていた妻をベッドに座らせ、その手の甲にそっと口づけした。
「私は君を本当に愛しているんだ。
ほら、君と恋人との間の子供もちゃんと育てているだろう?」
手を握り、優しく肩を抱く。
人前では仲睦まじく見せるため何度もされた行為だったが、夜の二人きりの部屋でそのようなことは初めてだった。
妻はまだ十六歳。
夫の美しい顔を間近で見るだけでも顔が火照り、胸の鼓動が早まる。
恋人のことを忘れたわけではないが、自分に好意を持ってくれていて、しかも嫌悪感のない相手に対し女性とはそういうものなのだ。
「君は伯爵家の嫁として、母親として、本当に良くやってくれている。
自信を持っていいんだよ?」
優しく微笑む夫に自分は不貞を働いた上に、その時の子供まで育ててもらっている。
夫は心の広い神のような存在なのかも知れない。
それでも、彼女はどうしても夫を、あの恋人のように愛することは出来なかった。
明かりを落とした薄暗い部屋で、妻の肩を抱いたまま夫は囁く。
「君は今でもあの男を愛しているのだろうね」
妻はあれから恋人がどうなったのか知らない。
いつかまた会いに来てくれるとでも思っているのだろうか。
それとも、いつかまた自分以外の、まったく違う男を選ぶのだろうか。
だが、今は自分の手の中にある。
「私は君にとても譲歩している。 それは分かるね?」
「……はい、感謝しております」
力なく頷く妻の顔に、夫が自分の顔を寄せていく。
「では、私にその恩を返してもらいたい」
静かに唇を重ねる。
最初はビクッと身体を強張らせたが、恋人との経験があるせいか、しばらくすると抵抗なく受け入れる。
「愛など強制するつもりはないよ。
ただ、私は君に受け入れてもらいたいだけだ」
今さらながら、本来の妻という立場を。
婚約者から夫婦へ。
婚礼の儀の後、二人は本当の夫婦にはならなかった。
妻は恋人の元へと走り、夫はそれを許したのだ。
『せめて最初は愛する人と』
そんな幻想を持っていた、まだ少女気質の彼女は自分を受け入れることは難しいのではないか。
頑なに、婚姻前に逃げようとしたほどだ。
少なくとも貴族社会において婚約者以外の恋人がいても、それはそれで結婚とは別と考えるのが普通である。
そうして戻って来た彼女は、もうすでに少女ではない。
「今なら君は私の妻として伯爵家の嫁として、どうすればいいか」
ゆっくりとベッドに身体を倒す。
二人の身体は重なり合い、衣服の下のお互いの体温を感じている。
「分かるね?」
優しい仕草、甘い声。
夫の眼差しは熱く妻を見つめていた。
夜の営みが初めてではない彼女の身体は、すでに理性を弱らせ、息が乱れる。
「それでいい。 無理そうなら、そう言いなさい」
言われても途中で止める気もないくせに、言葉を吐くだけなら出来るのだ。
夫は己の身体の中で暗く燃える炎に身を委ねた。
三年の月日が流れ、その日、伯爵家に三人目の赤子が誕生していた。
「おめでとうございます。 姫様ですよ、奥様」
女の子は父親譲りの銀の髪と、母親に良く似た茶色の瞳をしている。
「あー、あー」
去年産まれたばかりの幼い男の子も侍女に抱かれて赤子を覗き込んだ。
この幼子は夫と同じ銀色の髪と青い瞳をしている。
「おかーさま、僕にも見せて」
以前の恋人との間に産まれた母親似の長男もすくすくと育っていた。
「よくがんばったね、ありがとう。 さあ、少し休むといい」
夫は妻を労い、侍女と子供たちを下げさせた。
そしてベッドの脇の椅子に座って彼女のやつれた顔を覗き込んだ。
妻はまだ十九歳という若さ。
しかし三人の子供を立て続けに産み、育児と出産で身体はボロボロだった。
「君は本当に良くやってくれた」
周りの者にすれば優しい夫に見えるだろう。
「娘を産んでくれて、ありがとう」
しかし妻は夫のその笑顔が怖かった。