第二話
『恋は盲目』とは良く言ったものである。
子爵令嬢は周りも、自分自身も見えていない。
そして目の前にいる婚約者である伯爵令息のことなど知ろうともしない。
暗い意識の下で何度か馬丁を無残な死体にした後、令息は静かに婚約者に語り掛けた。
「お話は分かりました」
まずは自分は敵ではないのだと彼女に認識させる。
何度も頷いてみせ、悲しげな顔で彼女に同情しているように装う。
「しかし、今さら婚礼の儀を止めることも不可能です。
どうでしょう。 私と一旦、婚儀を結んでおいて、後ほどお二人のことを考えるというのは」
「もちろん婚姻は偽装であり、本当の夫婦になる訳ではない」という話に、令嬢は驚いたように顔を上げて婚約者である令息を見る。
「あの、本当に良いのですか?」
良いわけは無い。
伯爵令息は心の中でそう叫びながら、それでも婚約者を怯えさせないように振舞う。
「貴女もご両親を悲しませたくはないでしょう?」
「はい、それは」
悲しそうに目を伏せる少女は一見、儚く美しい。
しかし、話の中身はただの我がままだ。
家同士の契約である婚約を白紙に戻せと言っている。
爵位の関係で本来なら子爵家からは言い出せない。
こっそりふたりだけで話をしたいということは、その辺は分かっているようで何よりだ。
次期伯爵は、令嬢には見えないように口元をニタリと歪ませる。
「では、この件は私にお任せください。 悪いようには致しませんので」
誰にも口外しないように伝える。
まあ、どうせ恋人である馬丁には筒抜けになるだろうが、相手は馬鹿なので許す。
しかし、その馬鹿が他に漏らせばその時点で始末するつもりだ。
婚約者の家には伯爵家から密偵が入り込んでいて、以前からしっかり見張っている。
ただの火遊び、結婚までの淡い恋くらいなら見守るように言っておいた。
だが、婚礼の儀が迫った先日、愚かな恋人たちは一線を越えたという知らせが入った。
「馬鹿なことをしたものだ」
邪魔をしようと思えば出来た。
でもそれをしないことを選択したのは令息自身だ。
「お二人が深夜にお会いになる約束をされました」
「そうか。 そのまま監視を続けてくれ」
『殺せ』と言いそうになるのを必死に抑えた。
死体が二つになるか、一つにするか迷ったせいもある。
伯爵令息は自分の子供っぽい感情に蓋をした。
今さら婚礼の儀は中止になど出来ない。
そして絶対にあの二人を逃がしはしない。
令息の思惑など何も知らない婚約者の令嬢は、晴れた穏やかな春の日に妻となった。
その夜、館を抜け出した新妻は恋人と駆け落ちする。
もちろん手配したのは夫である。
翌日から表向きは夫は妻を愛するあまり屋敷の奥に隠しているとされたが、実は愚かな恋人たちを用意させた場所に匿っていた。
「そろそろいいだろう」
「御意。 すべては仰せのままに」
伯爵令息の忠実な配下は、駆け落ちから七日後に恋人たちを別々に連れ出した。
あまり長くふたりが一緒にいると、もしかしたら相手の馬鹿さ加減に嫌気がさして目が覚めてしまうかも知れない。
そうなる前に、夢見がちな少女のままの妻を回収し自分の手の内に収めたのである。
「あの男は貴女を置いて去りました」
そう告げるだけで良かった。
「私のために身を引いたのですね」
妻は勝手に都合の良い解釈をして、自室に閉じこもり恋人の幸せを祈り出す。
元馬丁には姿を隠すためだと誤魔化し地下牢に入れた。
あの馬鹿もたった七日間で、令嬢が庶民の生活など出来ないことを身をもって知ったようで、逃げようとはしなかった。
それから二か月後、夫は妻の部屋を訪れて言った。
「懐妊、おめでとう」
恋人との突然の別れに憔悴し、ますます儚さが増した妻の体調が悪いのはいつものことだった。
そのため、彼女は自分が妊娠したなど夢にも思っていなかったようである。
「何のことですの?」
思考がまだまだ少女である妻に夫は暗い笑みを浮かべた。
連れ戻した後、懐妊が確定するまで夫は新妻に一度も会おうとはしなかった。
自死さえ防げればそれで良かったので遠くから見守っていたのだ。
どうせ彼女の傍に寄ったとしても自分を受入れはしないことは分かり切っている。
無理矢理に奪えば、きっと生理的に彼を受け付けなくなる。
それだけは避けなければならなかった。
あくまでも夫として妻を大切にしているのだと思ってもらわなければならない。
「君は彼の子供を身ごもったようだね。
良かったな、思い出が出来て」
『愛の証』などという言葉を使う気はない。
そんなものは貴族である彼にとって不要である。
もし、この時子供が出来ていなければ、もう一度わざと二人を会わせる手筈も整えられていた。
彼女を縛るために恋人との子供が必要だっただけである。
はずみで殺しかねないため地下牢に入れていた馬鹿は用無しとなり、同情した協力者という監視を付けて辺境の地へと放り出した。
伯爵令息は誰もいない自室で心からの笑みを浮かべた。
「さて、これからだ」
ここからやっと本当の自分の生活が始まる。
美しく従順な妻は懐妊し、誰もが羨む順風満帆な私生活が。
今は父親と公務に勤しみ領地経営の勉強に忙しい。
妻は別邸で何も知らない侍女たちに囲まれて過ごしている。
陰鬱な表情も初めての結婚、妊娠に対し、精神的に不安定なのだろうと周りは思っていた。
「何も心配はいりませんよ、奥様。 すべて私どもにお任せください」
侍女たちは庇護欲をそそられる容貌の若妻に献身的に尽くしてくれる。
妻は彼女たちに対し、お腹の子が不義の子であるとは言えない。
さらに不安定な彼女の身を案じた者たちのお陰で、唯一真実を話せる夫とも寝室は分けられ、二人きりにさせてはもらえなかった。
それは妻の実家の者たちが見舞いに訪れても同じである。
献身的な侍女たちに囲まれ、同じ女性である母親も姉たちも彼女が幸せなのだと疑いもしない。
「羨ましいわ。 豪華なお屋敷、優しく麗しい旦那様。 それに子供まで」
手放しで喜ぶ実家の家族に、妻は徐々に笑顔の仮面を被ることを覚えていった。