第一話
六話で終わります。
暗いお話ですので、苦手な方はこっそりお戻りください。
女性の令嬢に対して男性を令息と表現しています。
違和感があるかもしれませんが、よろしくお願いいたします。
「あの、私たちの婚約のことですが」
子爵令嬢は何か思いつめたようにようやく口を開く。
あまり二人っきりで話をしたことは無かったが、令嬢の声というのはこのようなか細いものなのかと、伯爵令息は聞きにくい彼女の声に耳を澄ます。
「……無かったことにして欲しいのです」
一瞬だけ固まり、聞き違いかとお茶のカップをテーブルに戻した伯爵令息は顔を上げる。
「申し訳ないが聞こえなかった」
とうてい受け入れられる話ではないので聞こえない振りをした。
◇◇◇◇◇
五年前のあの日、銀色の髪に薄い青の瞳を持ち、誰が見ても美しく華奢な姿をしていた少年は、父親の執務室に呼ばれた。
「息子よ。 お前の婚約が決まったぞ」
伯爵位を持つ父親からそんな話を聞かされたのは、彼が十二歳の時だった。
相手は十歳で、子爵家の三人姉妹の末娘。
自分には反意など存在しない伯爵令息は「分かりました」とだけ答える。
後日伝えられた母親の伯爵夫人も三歳下の弟も祝福してくれた。
その後、相手の家に赴いての顔合わせのお茶会で初めて顔を見ることになった。
触れれば折れそうな細い身体、病的なほど白い肌をしている。
美人である母親の子爵夫人に良く似た金色の髪に明るい茶色の瞳。
父親である子爵に言われるまま自己主張一つしない。
そして異性のみならず、同性からも庇護欲をそそられるような少女であった。
人見知りを遺憾なく発揮し、ろくに声も発しない令嬢だったが、伯爵令息は「顔は悪くないな」という印象を持った。
その子爵令嬢も伯爵令息を前に頬を染め、婚約を受け入れた。
美しい少年である婚約者に会った彼女に嫌悪感はなかったように見受けられる。
まだ幼いせいか、身体のみならず、心にさえ染み一つ無いその令嬢との婚約に、伯爵令息もまた異論はなかった。
それ以降も伯爵令息は自己研鑽を怠らず、完璧な貴公子と呼ばれるまでに成長する。
彼は十八歳で貴族が多く通う学校を卒業後、王都から馬車で三日かかる領地に戻り、父親と共に領民のために力を尽くすことが決まっていた。
◇◇◇◇◇
しかし、子爵令嬢の十五歳の誕生日を間近に控え、婚礼の儀の打ち合わせに伯爵令息が子爵家を訪れた今日。
いつもなら美しい庭園の東屋や温室に設えられるはずの茶席が、その日は令嬢の私室へと招かれた。
いくら婚約者とはいえ婚姻前の男女が二人きりになるなどあり得ない。
それでも令嬢は「大切な話だから」と侍女も護衛も部屋から追い出した。
二人は応接用ソファに向かい合わせに座り、侍女が置いていったお茶を飲む。
令嬢は先ほどから顔を赤くしたり青くしたり、口をパクパクと開けたり閉じたりを繰り返している。
伯爵令息は、なかなか話し出さない婚約者の態度に多少はイライラしながらも待つこと小一時間。
そして、婚約者である子爵令嬢から婚約解消を言い出されたのである。
何が悪かったのだろう、と令息は思いを巡らす。
婚約成立から五年間、きちんと婚約者としての務めは果たして来た。
贈り物は元より、茶会や買い物のエスコート。
鬱陶しいほどの手紙にも間を置かずに返事を送り、必ず花束を添える。
どこから見ても美男美女の羨ましがられる婚約者同士だったはず。
少なくとも彼のほうには婚約を無かったことにするだけの理由が無かった。
そうなると理由は彼女の心情だろうか。
相変わらず挙動不審な令嬢は「あの、あの」と繰り返しながら顔を背けている。
その姿を真っ直ぐに見つめながら令息はため息を吐いた。
「私のことが気に入らない、と」
伯爵令息は自分に対する噂は良く知っている。
『面白味のない男』
何故、自分が好きでもない他人を面白がらせなくてはならない。
『笑顔が笑っていない』
誰が面白くもない冗談に心から笑えるか。
『情け容赦のない冷たい男』
自分を貶めようとする敵に情けなど無用だろう。
「いえいえ、そんなことは決してございません!」
令嬢は、次期伯爵位を継ぐことが決まっている婚約者相手に何の非もあるはずがないと、ブンブンと首を横に振る。
まあ、気に入らないとしても親の決めた相手に文句など言えるはずはない。
甘やかされて育った彼女が親に訴えたとしても、子爵位程度ではこの婚約を覆すことは難しい。
間近に迫った婚礼の儀の予定は既にガチガチに固められているのである。
そうなると、あとは。
「……誰か他に好きな異性が出来ましたか?」
分かり易く動揺して俯く令嬢に彼は冷ややかな目を向ける。
『真実の愛』などという、くだらない言葉が流行っているらしい。
自分には縁がない、そう思っていた令息でも知っている言葉だが、それがどうしたという程度のこと。
夢見がちな少女のままの令嬢には、きっと胸に秘めた想いでもあったのだろう。
それがその言葉に合致して、心の中で大きくなってしまったのか。
それを覆せない自分が悪いのかも知れない、と令息はため息を吐く。
しかし、相手による。
「彼にあなたを攫う勇気はあるのでしょうかね」
令嬢がかばりと顔を上げる。
「え、知って……?」
「ええ、存じていますよ、貴女のことならすべて」
冷たい笑顔で婚約者が笑う。
「馬丁でしたね、彼は。
身体の弱い貴女に仔馬を見せて気を惹き、外の世界に連れ出した」
華奢な容姿を持つ伯爵令息とは正反対の逞しい筋肉と人懐っこい笑顔の青年。
もうすぐ十五歳になる令嬢よりさらに十歳年上という大人。
あの馬丁もまた使用人として主の娘である彼女を大切にしていたのだろう。
しかし、それはいつしか度を越えた。
世間知らずの令嬢と純粋に馬鹿な馬丁の青年は恋に落ちたのである。
許されない、だからこそ燃え上がる恋。
親の決めた婚礼を目の前にした少女は、婚約者より恋人を選んだということだ。