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09 些細なきっかけ、美人は手段を選ばない

 

 塾は一見、いつも通りに見えるが雰囲気が少し異なっている。


 優斗は塾講師および職員たちが、どこか緊張感のある面持ちをしていることに気が付いた。

 何かあったのか、と優斗が首を捻っていると受付職員が彼に声をかけた。


「本日よりしばらくの間、開講時間は午後五時までになります」


 優斗は驚いて目を丸くする。

 優斗自身にはさほど関係ないとはいえ、夏と言えば試験勉強に受験勉強ととにかく学習に力を入れる季節だ。

 それが一体なぜ、と優斗は不思議そうな顔をした。


 そんな彼の反応を目にして、職員は優斗に耳を寄せる。


「先週、十八歳の女の子が行方不明になる事件があったでしょう?」


 優斗は自身のあずかり知らぬ場所で事件があったと聞き、大層驚いた様子を見せた。そんな優斗の反応を見て、職員もまた驚いた顔をする。


「実はね、その子が失踪したのがこの辺りらしくて……」


 歯切れの悪い職員の言葉に優斗はますます信じられない面持ちになる。


「できるだけ一人にならず、まとまって帰るようにね」


 様々な情報が優斗の頭の中を錯綜する。しかしそれらは何をどうしてもばらけてしまい、一つもまともな線を書いてはくれない。

 彼はとても勉強する気分になれず、落ち着いて一人になれる場所が欲しくなった。


「それから、団地の方には近づかないようにね」


 職員の言葉に優斗はハッとする。忠告を最後に、その職員は席に戻っていった。


 優斗がいる塾から、およそ徒歩十分。そこに住民は一人もいない、廃墟と化した団地がある。高度経済成長期に建造されたものの、立地が良くないことに加えて近くに廃病院があったことから不評を呼び、まもなく廃れてしまった団地。


 優斗は兄に連れられ、そこを訪れたことがある。

 小学校にあがって間もない頃、優斗は「秘密基地に連れてってやる」と話す兄に手を引かれ、団地に足を踏み入れた。


 優斗のおぼろげな記憶に、鍵が壊れた倉庫が浮かび上がる。しかし、彼はその先が思い出せない。


「清水さん?」


 不意に声をかけられ、優斗の意識は現実に引き戻される。

 受付職員が心配そうな顔をして、優斗を見ていた。


「すいません」


 ごまかすように笑って、優斗は思案する。

 塾が終わって蘭が迎えに来るまでの時間は充分にある。

 先ほど職員から聞いた行方不明事件が脳裏をよぎったが、狙われたのは女性。男の自分なら一人歩きも大丈夫、と優斗は己に言い聞かせた。


 当然、蘭は塾が早く終わることを知らない。

蘭が迎えに来るよりもはやく戻れば問題ない、と優斗は結論付けた。


 家には大抵、兄がいる。学校に行けば友達付き合い。加えて登下校にはわけのわからない同級生がついて来る。

 長らく手に入らなかった一人の時間を思うと、優斗の頬は自然に緩んだ。



・ ・ ・ ・ ・



「ふぇっ、くしゅんっ!」


 退屈しのぎの見回りを終えた蘭がくしゃみをする。夏の日差しが冷たいはずは無い。


「夏カゼだったら絶対ばかにされる……」


 馬鹿は風邪を引かない。が、夏風邪は馬鹿が引く。


 蘭の脳裏に浮かぶのは香織の姿。鼻で笑われるか、虫を見るような目で見られるかは五分五分と言ったところ。

 成績以外は健康優良児たる蘭にカゼを引くような心当たりはない。


「ひまだなー」


 優斗の送迎に向かうには早すぎる時刻。蘭は足元の小石を蹴っては追いかけ、蹴っては追いかけと繰り返し、どこへともなくふらふらと歩いていた。


 石が壁にぶつかり跳ね返る。

 蘭が顔を上げるとそこは岐路だった。一方は住宅街に繋がる道。もう一方は、廃墟と化した団地への上りの坂。


『変な輩がいるかもしれないから、一人の時はここに近づくな』


 蘭は神楽の忠告を思い返すも、その足は既に坂道を登り始めていた。


「ちょっと一瞬、見回りするくらいなら別にいいよねー」


 仮にこれで犯人を捕まえられれば万々歳である、と蘭は鼻歌混じりに坂道を上る。


 手入れをされなくなって久しい坂道は、あちこちに木々や草花が生い茂っている。このまま人の手が加わらなければ、アスファルトの地面が緑に覆われるのも時間の問題であろう。


 坂道を登り切った蘭の視界が開ける。

 そこはゴーストタウンと呼ぶにふさわしい様相を呈していた。

 無人のマンションが立ち並ぶ光景は不気味だが壮観だ。

 かつて憩いの場であっただろう公園はロープで封鎖され、遊具は使えないようテープで固定されている。かつてあった暮らしに思いを馳せれば、これらは酷く侘しい景色に映るだろう。


 ふと、蘭が建物の陰に身を隠す。

 男女が会話する声を聞いたのだ。彼女は慎重に足を進め、声の持ち主に迫る。


 蘭は女の声に聞き覚えがあった。しかし彼女は、それが誰の声なのか確信を持てない。彼女は静かに、気づかれないよう、足音を殺して歩く。


 微かにしか聞こえなかった声の輪郭は徐々に明らかになる。蘭が声の主に近づくほど、甘く瑞々しい香水の香りが漂ってくる。


 そしてようやく、蘭は声の正体を視認できる距離に辿り着いた。


「私、前から廃墟に興味があって……でも両親がダメだ、って言うから一度も来たことが無かったんです」


 蘭は香織の姿を認めて目を剥いた。


 ニコニコと人当たりの良い笑顔を見せる香織。着用している制服はズボンではなくスカート。漂ってくる香りは、以前香織本人が「好みじゃない」と述べた甘めの香水。彼女が肩に背負った楽器ケースには、幼馴染の蘭が見たことも無いキャラクターのキーホルダーが山とついていた。


「秀哉さんが連れて来てくださって…私、感激です!」


 猫をかぶり、普段より幾分高い声を出す香織に蘭は得も言われぬ顔をする。同時に彼女は聞き覚えのある声を判別できなかったわけを理解した。


 香織は瞳を潤ませ、フードをかぶった優男を上目遣いに見つめている。


「ランちゃんがそう言ってくれると嬉しいなぁ」


 香織が偽名に己の名を使っている事実を知って、蘭は再度目を剥いた。


「思ったことを言っているだけです! 私、こんなにも楽しいの初めて!!」


 香織の声は香水の手伝いもあって、普段の三倍は甘ったるい。

 そんな光景を目にして、蘭は鳥肌が立つ腕をさすった。


 香織と、秀哉と呼ばれた男は二人連れ添って団地の奥へ足を進める。蘭は彼らの姿を見失わないよう、慎重にあとをつけた。


「ランちゃんは肝試しとか好きかな?」


 聞かれて香織は、うつむき気味になって胸の前で手を組む。


「あんまり、得意じゃなくて……」


 普段の香織の姿からは想像できない、弱弱しい声だった。そんな彼女の姿を見て、秀哉は得意げに胸を張って見せる。


「大丈夫だよ! 実はね、この奥に病院の廃墟もあるんだ。興味ないかい?」


 廃墟、の言葉に応えるように、香織は顔を上げる。


「病院の廃墟だなんて……! 私、すっごく気になります!!」


 目をとろかせる香織に機嫌を良くした秀哉が、さも自信ありげに顔を上げる。


「秀哉さんたら物知りなんですね、尊敬しちゃいます!」


 跳ねるように喜ぶ香織に、秀哉はますます得意げな様子を見せる。


 傍からこの光景を眺めている蘭には、段々と秀哉のことが気の毒に思えてきた。

 香織の言動、振る舞い、果ては名前まで嘘だと知れば、多少なりとも落ち込むに違いないと蘭は内心で独り言ちる。

 しかしそんなことは露知らず。秀哉はおだてる香織に気分を良くして、さぞ気持ちよさそうに笑っていた。


「ちょうどいい、この辺りからその廃病院が見えるんだ」


 秀哉は軽くかがんで、香織と視線の高さをあわせる。彼は香織の両肩に手を置いて体の向きを変えさせると、近くの山並みを指さした。

 つられるように、蘭も秀哉が指さすあたりに目を向ける。


 しかしそこには何もない。夏色に染まった、深緑の木々が時折竹藪を見せて生い茂るばかりである。


「ど、どこでしょうか?」


 香織も見つけられないらしい。

 戸惑うような香織の声に何かがおかしいと蘭が振り返る。


 蘭は目を丸くした。彼女の視界に入るのは、今まさにふるわれんとする暴力。


 香織の背後で、秀哉が金槌を振り上げていた。

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