08 変人、その少女は変わり者
優斗が想像するような波乱の日々は起こらなかった。
彼の目の前で、桜が生えたあの日から一週間。彼が何者かに襲われることも、蘭が刀を振り回すような事態も起きていない。
ありきたりで、ありふれた日常。優斗の知る限りでは、目立った事件、事故も起こらず、実に平和な時間が流れていた。
しかし犯人が捕まらない以上、今日も今日とて蘭は優斗の護衛につくし、優斗は蘭と行動を共にしなくてはならない。
こうして本日も優斗と蘭は、学校終わりに学習塾へと向かって歩いていた。
「犯人つかまりそうなの」
「知らないしわかんない」
緊張感も責任感も無い蘭の受け答えに、優斗は辟易する。
勘弁してくれと言わんばかりの顔をする優斗の傍らで、蘭は呑気に鼻歌を歌っていた。
「大丈夫なの?」
自然、優斗の語気は強くなる。しかし蘭がそれを気にする様子は無い。
「今のところは何もないかなー、あっカエルみっーけ」
「えっ。いや、おい!!」
優斗の制止も聞かず、蘭は排水路の方へ駆けてしまった。優斗は内心憤りながらも、しぶしぶ彼女の後を追う。
蓋が取り付けられていない排水路のU字溝。梅雨が明けてあまり雨が降っていないせいか、流れる水の量は非常に少ない。
コンクリートの底に一匹のカエルがいた。
蘭は汚れるのもいとわずに膝をつくと、排水路の底に手を伸ばす。
「は? 胡蝶さん??」
優斗が思わず声を上げる。彼の目に、蘭の行動は奇行にしか映らなかった。
蘭は逃げようともしないカエルを掴み上げ、心底大切そうに両掌にのせる。
「ちょっと待ってねー」
蘭の視線は優斗にではなく、カエルに向けられている。彼女は排水路の向かいにある土手に足をかけると出来るだけ奥へ、奥へと腕を伸ばした。
「もう落ちちゃだめだよ」
そうして彼女は捕まえたカエルを排水路から離れた所に逃がすと、何事も無かったように優斗の隣に立った。
「今の、なに」
優斗は信じられないものを見るような目で蘭を見る。聞かれて蘭は、一瞬困ったような顔をした。
「え……カエル知らないの??」
「さすがに怒るぞ」
「えぇぇ」
本気で困った顔をする蘭をみて、優斗はここしばらく吐きっぱなしのため息を再度吐く。
「なんでわざわざ、こんな! 汚いところに手突っ込んでまで、カエルなんかを助けたか、って聞いてんの!」
蘭は怒鳴るように話す優斗を見て、不思議そうに首を傾げる。
「助けられるんだから、助けたら良くない?」
曇りない蘭の眼に、優斗がたじろぐ。
「たかがカエルだぞ?」
「うん」
「死んだって誰もかまわないじゃないか」
「そーだね?」
顔色一つ変えず即答する蘭に、優斗は次第に気味悪さを覚える。
「……なんで?」
優斗は夏の日差しの中にいて、得体のしれない寒さを覚えていた。
彼は、彼の目の前に立つ人物を理解できない。
「困っているなら助けてあげれば良くない?」
蘭の鋼玉のような瞳が真っすぐ、優斗を見つめる。
「いやでもだからってわざわざ——」
「今やってることと変わんないよー。ほら早く行こー?」
先に歩き出した蘭の後ろで、優斗は呆然と佇む。彼は蘭の言った意味が理解できない。
少しして優斗は叫んだ。
「それって、俺とカエルを同列に並べてるってこと!?」
先を行く蘭が優斗を振り返る。
「んー? なんかおかしかった??」
排水路に落ちて弱っているカエルを助けるのも、殺人犯に狙われるかもしれない哀れな人間を守るのも、蘭の中では同じことらしい。
優斗はつかつかと蘭に歩み寄る。
「お前、本気で言ってんの?」
「嘘つく必要なくない?」
蘭は至極真面目な顔をしている。嘘をついている気配は無い。
優斗は目の前にいる同級生を心底理解できずにいた。
「……胡蝶さんさ、サイコパスって言われたことあるだろ」
「えっなにそれ、お菓子??」
「もういいよ……」
相変わらず飄々とした蘭の態度と言動に優斗はうんざりとする。彼は、キョトンとして優斗を見つめる蘭を置いてけぼりにして歩き始めた。
「異能者って、虫の言葉とかもわかったりするの?」
優斗は追い付いてきた蘭に顔も向けずに尋ねる。
「わたしはわかんない。あとカエルは両生類」
「なんでそう変なところで頭が良いんだよ」
蘭はいつもと変わらない、優斗にはとらえどころのない笑みを見せている。
「犯人がカメレオンの異能者ってわかった時にね、神楽がなんかいろいろいっぱいたくさん教えてくれたんだー」
蘭は、いいでしょう? と言わんばかりにはにかんだ。
突っ込んでいては疲れてしまう。この一週間で学んだ優斗は言葉を返さない。しかし彼は、抱いた疑問を口にせずにはいられない性質らしかった。
「胡蝶さんの異能って、木とか生やすだけなの?」
「ん? 秘密ー」
「は?」
思わず優斗の声に怒気がこもる。
蘭は初めて目の当たりにした優斗の怒りの片鱗に驚いて、目を丸くする。
「異能のことって、あんまり人に言っちゃだめなんだってー」
「俺その異能に巻き込まれた被害者で当事者なんだけど」
不服そうに述べる優斗の隣で、蘭はうんうんと頭を悩ませている。
「もー仕方ないなぁー。ほら、あっち」
優斗は蘭の指さした方を向く。
彼女が指し示したのは、街路樹とその横に並べられたプランター。幸い辺りにいるのは優斗と蘭の二人だけだった。
「一回だけだからねー」
蘭は言いながら指さした方をじっ、と見つめる。
するとプランターに植えてあった何かのつぼみが一斉に花開いた。
独特の臭いを放つ黄やオレンジの花はマリーゴールド。ついでと言わんばかりに、街路樹の根元でエノコログサが背を伸ばす。
「大体こんな感じ? はい、しゅーりょー」
それはあまりにささやかで、手品と言われても納得できるような代物だった。
優斗は自身の想像よりも遥かに地味な光景を目にして思わず唖然とする。
「動物は?」
「ひみつー」
「陰理先輩は鹿出してたじゃん!」
「人それぞれですー」
「『獣の力』なんだろ!?」
「あーもー! だから秘密って言ってるでしょー!?」
問い詰めてくる優斗に対し、蘭は両耳を塞いで抵抗する。
優斗はしつこく食い下がるが、蘭もまた頑なに口を割ろうとしない。
そうこうしている内に、二人は目的地である学習塾に到着した。
「胡蝶さ——」
「じゃあねー! また後で!!」
優斗が何かを言い終えるより早く、蘭は颯爽と身を翻す。その姿はあっという間に遠のいてしまった。
聞きたいことを聞けず、優斗は不服の声を漏らす。それから彼は大きく息を吸って吐き出した。
「なんなんだよ……」
耐えきれなかったため息が優斗の口からこぼれ出た。