03 護衛の約束、殺人鬼はすぐ側に
「ぅわぁっ!?」
自殺行為ともとれる同級生の奇行に、優斗の口から悲鳴まがいの声が漏れる。
慌てふためいて柵の下を見下ろす優斗とは対照的に、神楽と香織は随分と落ち着いた様子であった。
蘭は雨樋を伝い器用に滑り降りると、体育倉庫の屋根に飛び乗った。突然の訪問者に驚き、走り去ろうとする猫をあっという間に捕まえて、彼女は頬ずりする。
蘭は腕の中で暴れる猫のことなどお構いなしに、ご満悦といった表情で屋上の三人に手を振っていた。
「ご覧の通り。身体能力はずば抜けていますわよ」
煙草を吸い終えた香織が優斗の隣で柵から見下ろして言う。
優斗は突如近くに迫った美の尊顔に慌てふためいた。それでいて彼は冷静であろうとするように咳ばらいする。
「あの自由人っぷりはどうにかならないんですか」
「生来のあり方が、今更どうにかなるとでも?」
突き放すような香織の物言いのせいか、その人並外れた美貌のせいか。優斗は何かに慄くように一歩、足を引く。
香織は優斗の横を素通りして、神楽に左手を差し出す。彼が白衣のポケットをから取り出したのは、小さなスプレー容器。いわゆる、アトマイザーと呼ばれるものだ。彼女はそれを受け取ると、慣れたように全身に吹きかける。
途端、煙草独特の煙たさがなくなり、辺りに砂糖菓子のような甘い香りが広がった。
「甘ったるいですわね」
「材料の都合だ」
「媚びへつらうような香りは好みじゃありません。ですがまぁ、許します」
香織の尊大な態度にも、神楽は嫌そうな顔一つしない。優斗の目にその光景は、どこか別世界の出来事のように映った。
「たっだいまー!!」
屋上の柵を乗り越え、蘭が帰って来た。彼女の手や顔には引っ搔き傷がある。にもかかわらず、その腕にはまだあのサビ猫が抱えられていた。
「見てよ、見て! 珍しくない? こんな模様の子初めて見た!!」
蘭がはしゃいで、両手で掴んだ猫を掲げ持つ。瞬間、神楽の顔が引きつった。
「ばっっっか、お前っ!! なんでわざわざ持ってきた!?」
誰よりはやく、神楽が叫んだ。彼は蘭から距離をとるように後ずさる。しかし彼が後ずさった分、蘭が一歩進むため距離は一向に広がらない。
「えー、見てほしかったから? 可愛くない??」
「可愛いよ! でもそれ野良だろ、近づけるな!!」
「神楽はおおげさだなー」
「それでエキノコックス持ち込んだのどこの誰だ!?」
「聞いたことある! なんだっけー??」
「感染症!」
「反省してるって!」
「してないだろ!!」
走り出した蘭から逃げるように、神楽が白衣を翻す。笑顔の蘭に対して神楽は本気で嫌そうな表情をしている。
優斗にはその光景をただ呆然と見守ることしかできない。
「付き合っていられませんわね」
香織は香水の入ったスプレー容器を制服の胸ポケットにしまうなり、どこかへ歩き去ろうとする。
「せ、先輩!」
優斗は咄嗟に香織を引き留めた。しかし何も考えていなかった彼には、言葉が上手く出てこないらしい。
「まだ何か」
香織は何も言いださない優斗に、苛立ちとも呆れともつかぬ目を向ける。
短く整えられた髪が風に揺れて、不快気に、けれど美しく細められた瞳があらわになる。
「そ、その。先輩たちと胡蝶さんって、どういう関係なんですか」
口をついて出た優斗の問いに、香織は「そんなことか」とでも言いそうな顔をする。
「施設育ちの幼馴染です」
香織はそれだけ言って、屋上の扉に手をかけた。
「香織ー! わたし護衛しなきゃだし、約束してたケーキまた今度ねー!」
蘭が神楽を追い回しながら言う。香織は振り返りも返事もせずに屋上を後にした。
残る三人の内、二人は未だに一方的な鬼ごっこに興じている。きゃらきゃらころころと笑う蘭は、神楽の怒った顔に気づかない。
「いい加減にしろ!!」
瞬間、神楽の持っていたペットボトルが爆ぜた。弾けた水は瞬く間に優美な鹿の形を得て、蘭の足元に突進する。
水に足を取られて体制を崩した蘭は即座に体を丸め、猫を抱えたまま一回転して起き上がる。お手本のように滑らかな受け身であった。
「あっはは! ごめーん!!」
あっけらかんと笑う蘭を見て、神楽はため息を吐く。彼は白衣の裾を鼻に寄せて臭いを嗅ぎ、眉を顰めた。
「くそ……嫌な汗かいた」
神楽はポケットに乱暴に手を突っ込む。取り出したのは、彼が先ほど香織に手渡した物とそっくりな容器。キャップを外し、神楽が自身に吹きかけたそれは、石鹸を思わせる、清潔感のあるさわやかな香りの香水だった。
「先輩、しゃれてるんすね」
「趣味とマナーの一環だ」
神楽は先ほどの慌てようが嘘のように、淡々としか言葉を返さない。
その頃、屋上の隅で猫をからかっていた蘭は、肉球を触った拍子に手痛い一撃を受けていた。
「逃がしてやりなよ……」
「確かにぃ!」
優斗が独り言のように漏らした小声を聞き取った蘭は、これまでの執着ぶりが嘘のようにあっさりとサビ猫を放した。
あまりにあっけない小さな別れに優斗が唖然としていると、蘭が口を開いた。
「そういえば名前知らないんだよねー。わたしは胡蝶蘭、今日からよろしくー」
突然の暴露に、こればかりは神楽も驚いた顔を見せた。優斗はと言えば、丸くしていた目をますます大きく見開いている。
「同じクラス、だけど……」
「顔は知ってるよ! こんな人いたなー、って!」
蘭の物言いに悪意はない。ついでに言うならば、罪悪感も無い。
「今日から護衛するのに名前も知らないんじゃ不便でしょ?だから教えて?」
無邪気に首を傾ける蘭を見て、神楽は今日、何度目になるかわからないため息を吐く。
「……本当に大丈夫なんですか」
優斗が隣に立つ神楽に問う。
「腕は確かだ」
勘弁してくれと言わんばかりのため息が優斗と神楽の口から漏れた。
・・・
コンクリートに囲まれた、明かり一つささない部屋。夏の暑さと梅雨の残り香が居座る空間に、その男はいた。
「見られた、見られたかもしれない、どうしよう、どうしよう、どうしたら」
男はぶつぶつと呟きながら、つる草と苔に浸食された通路を歩む。
薄暗い空間にあって、その足取りは異様にしっかりとしたものだった。
「なんだよあの女。なんだよ刀って、なんだって自分が、なんで、どうして」
苛立ちを押さえきれないといった様子で男は爪を噛む。
なぜ、なぜ、と呟く男にあるのは、振るわれた刃が己に届く恐怖と、それでもなお無傷で今ここにいるという全能感。
「新しい顔がいるね。また、調達しないと」
男は通路の終わりにある扉を開く。
むせ返るような鉄錆の臭いがあふれ出る。
甘くて、酸味のある、何かの饐えた臭い。
腐臭の中心で男は、干からび、変色した人の腕にナイフの刃を立てた。無残に引きちぎられた痕跡を残す腕。
男はその皮膚を剥ぎ取り、口に入れる。
咀嚼もせずに飲み込まれたそれは、男に劇的な変化を与えた。
緑のホログラムのような波が男の全身を覆う。次の瞬間、そこに男の姿は無く、しっかりとした体躯の、善良な顔をした青年の姿があった。
「これなら大丈夫」
男は善良な顔に笑みを張り付け、ナイフをポケットにしまった。