01 はじまりは夏の桜、出会いは曲がり角
少年の目の前を、刀を手にした同級生が横切った。少年、清水優斗はその同級生を知っている。
「胡蝶さん?」
唇の隙間からこぼれるような声に応えは無い。
学校一の変わり者。つかみどころのない自由人と名高い同級生が、刀を持って走っている。
人より少し真面目なだけの優斗には、何が起こっているのか想像もつかなかった。
優斗は好奇心の赴くままに同級生を追って角を曲がる。
遠くから聞こえたのは金属音。そして足元で亀裂が入る音。
驚愕を顔に浮かべ優斗が視線を下げた時、アスファルトを突き破って桜の木が生えた。
次いで衝撃音。優斗の目の前で桜の木が揺れる。間も置かず、硬質な何かのぶつかる音が彼の鼓膜を揺らした。
季節は梅雨明け。桜の季節はとうに過ぎ去った。
しかし彼の目の前の桜は今、己が咲く季節こそ春であると言わんばかりにその花弁を風にゆらしている。
呆然とする優斗の足元に、握りこぶし大の石が転がった。彼は目の前の桜の裏をのぞき込んだ。
桜の幹に、握りこぶし大のくぼみがある。
それは優斗の足元に転がっている石と同じサイズで—— そこまで考えて、優斗は身震いした。
もしこの桜が生えてこなければ、石を受け止めていたのは優斗であった。
彼は桜の向こう、道の先を見やる。
夕暮れ時の赤い空が、誰もいない地面を照らし出していた。
・・・・・
翌朝、時刻は早朝。優斗は人の姿が見えない通学路を歩いていた。
昨日の出来事は夢だったのではないか。
優斗は悶々としたまま帰宅し、眠りについて朝5時に目を覚ます。
どうせやることも無いから、と彼は普段より早く家を出た。
そうして通りがかったのは件の曲がり角。
そこに大きな影が差していた。
木ではない、岩のように大きな影が揺らめく。
好奇心にかられるまま、優斗は曲がり角の向こうをのぞき込む。
そこに昨日、優斗を守った桜の木は無い。
しかしその向こう、道の先に人の姿があった。
つやのある黒髪を、白い首元で無造作に二つ結びにした少女。
小学生とも見紛う幼い顔立ちをしたその人は、昨日から優斗の脳裏を占めている同級生、胡蝶蘭であった。
「胡蝶さん!」
優斗の声に少女——蘭が振り返る。
「おはよー」
間延びした気の抜けるような声。蘭は優斗にふにゃりと笑いかける。
一方の優斗は蘭とは対照的で、どこか鬼気せまるような表情をしていた。
彼はすごむような勢いで蘭に歩み寄り、彼女の肩を両手で掴んだ。
「昨日ここで刀持ってたよね。何してたの?」
「へっ!?」
優斗の問いに、蘭の能天気な笑顔がくずれる。彼女が動揺しているのは、目に見えて明らかだった。
「き、気のせいじゃない?」
あまりに下手で稚拙なごまかし。蘭の目は泳ぎに泳ぎ、あちこちをふらふらとさまよっている。
優斗はそんな彼女の態度を見て眉を寄せた。
彼は蘭の肩から手を離し、彼女が背負う一メートル弱の黒いケースを指さす。
「その中に刀入っているんだろ?」
確信めいた優斗の物言いに蘭がたじろぐ。
「違いますー! これは……竹刀! 剣道部員だから持ってる!! なーんにもおかしくない!」
蘭の咄嗟の反論は自分自身に言い聞かせているようだった。
なにより優斗にはその場しのぎの苦し紛れにしか聞こえない。
「さっきから目がおよぎまくってるんだよ」
「剣道部なんだし刀や竹刀の一、二本持ち歩いたっていーじゃん」
「それならあそこで急に生えた桜の—— 」
「えー!! なんのことだか全然知らない!」
「まだ何も言ってないだろ!」
まるで会話が成立しない事実に優斗は頭を押さえる。
「頭痛いの? 大丈夫?」
「誰のせいだよ……」
蘭は無邪気で純粋な子どものように首をかしげていた。
まごうことなく、彼女は優斗の身を案じている。
優斗はと言えば、このつかみどころのない人物から昨日の真相をどう聞き出そうか頭を悩ませていた。
不意に、優斗の肩に蘭の手が置かれる。
「きっと疲れてるんだって! 昨日私が刀持ってる時に会ったのも、桜が生えたのもぜーんぶ気のせいで、夢か幻か幻覚だよ! じゃあね!!」
ほんのごくわずかの間、優斗の思考が止まった。
蘭はぴしりと手のひらを優斗に向けてそれきり、さっさと歩き去ろうとする。
「やっぱり知ってるじゃないか!」
思わず大きくなった優斗の声に、蘭がびくりと体を震わせる。
決して逃がすまいと優斗の腕が伸ばされた。
しかし、その手は蘭に届くよりもはやく、何者かに阻まれた。
「こいつに何か用か」
淡々とした男の声音に、今度は優斗が身を強張らせる番だった。
蘭と優斗の間に割って入ったのは、真夏も近いというのに、汗一つかかず長袖の白衣を着用した学生だった。
きざったらしい顔たちのその男は、眼鏡の奥の切れ長の目を不快気に細めて優斗を見据えている。
陰理神楽。
白衣に眼鏡のつんつん頭と言われて知らぬ者はいない。中学三年生にして既に高等部のカリキュラムをそつなくこなす、学校一の秀才。
「えっ、あぁ……」
突然現れた先輩に、優斗はたじろいだ。
学内とはいえ、縁もゆかりもない有名人が彼の目の前にいる。優斗はその事実に頭が追い付かない。
「神楽おっはー! 今日早いねーどしたの?」
蘭は物怖じすることなく、彼女の目の前に立つ神楽に話しかける。それはあまりに馴れ馴れしい態度で、年上に接する際のものとは見受けられない。
「お前がまだ学校に着いてないから来たんだろ」
「なんでまだ学校に着いてないの知ってるの?」
蘭の問いかけに神楽は答えない。蘭も特に問い詰めない。
「で、こいつに何の用だ」
再度、神楽の冷ややかな目が優斗に向けられる。
氷のような視線にあてられて、優斗は声を出すこともままならない。その様はさながら蛇に睨まれたカエルのよう。
優斗が、いっそ逃げようとした時だった。
「朝から随分、物々しいですわね」
品のある声。均整のとれた肉体からのびる、すらりとした手足。
弱冠15歳にして、完成された美の体現者が現れた。
その人を見た途端、優斗は思わず陶然とする。
白井香織。
老若男女を問わず、誰をも魅了する美貌の人。言動、所作が美しいのはさることながら、女性であって制服にズボンを着用することから『王子』とあだ名される学校一の美人。
「喧嘩だなんて、野蛮なことはおやめになって?」
眉尻を下げて、香織は小さく首を傾けた。
社会で、歴史で習った傾国の美女は実在する。
優斗がうっとりと見惚れ、香織に言われるがまま首を振ろうとした時、神楽の陰から蘭が身を乗り出した。
「香織もおはおはー!相変わらず絶好調だねー」
蘭のふてぶてしい態度に、優斗の意識は強引に引き戻された。
「お前がまだ学校に着いていないようでしたから様子を見に来てやったのです。感謝なさい」
先ほどのたおやかさから一変して、香織は傲慢な態度を見せる。その様は王子というより、厳格な女王か、はたまた高慢な貴族のよう。
「いやなんで学校にいないの知ってんの??」
「さて、本題に戻りましょう」
蘭の言うことはどこ吹く風と聞き流し、香織は優斗に向き直った。
「あなた。私共の蘭に、何やら聞きたいことがある様子……」
香織の長く豊かなまつげが玲瓏な瞳と共に伏せられる。
「しかしどうにも相容れない、といったところでしょうか」
うっすらと口角を持ち上げた香織から紡がれる言葉に、優斗は思わず聞き入ってしまう。
陶然と立ち尽くす優斗の態度を無言の肯定と受け取ったのか、香織は笑みを一層深くする。
「争いの種を見過ごすわけにはまいりません。私が仲裁役を買って出ましょう」
香織の言葉に優斗は勿論、蘭と神楽も驚いたように目を見開いた。
「本日の昼休み、東校舎の屋上でお待ちしておりますわ」
香織が振り返るなり、蘭と神楽の両名は赤べこのごとく、うんうんと首を振る。
「いらしてくださいますわね?」
にこりと微笑む美の権化を前にして、その誘いを断れる者がいようか。
優斗は二つ返事で承諾した。