#3 就活、進学、そして未来へ……
初夏の夕暮れ。うらびれた公園の長椅子に座り込む、リクルートスーツ姿の御手少年。彼の広くも狭くもない凡庸な背中は打ち拉がれて傾いでおり、その足下には企業のパンフレットが詰め込まれた紙袋が置かれている。
進学をせずに就職すると啖呵を切った御手は、百に達する数の求人に応募を行ったのだが、しかしそのことごとくに惨敗してしまった。地元の全ての企業を踏破してしまったのではないか、と御手は疲弊した頭でぼんやりと考える。
倦んだ思考の中でリピートされるのは、面接官たちの言葉だ。
「学校からの紹介も無いんじゃ、ちょっとねえ」
高卒でまともな会社に就職するとしたら教師の推薦が不可欠だが、部活動にも参加していない御手がそれを求める事は出来なかった。結局、進学するにしても就職するにしても、学校社会での振る舞いの積み重ねがあってこそ道が開けるのだ。御手は自分の見通しの甘さにうなだれるしか無かった。
耳をつんざくセミの鳴き声とともに、七月の日暮れの生温い風がそよぐ。
御手は携帯端末を取り出し、時間を確認する。時刻は五時過ぎ。待ち受け画面にはワン太の満面の笑みが映し出されている。そろそろ帰宅してワン太の散歩へ行かなくては、と御手は体に活を入れてノロノロと腰をあげた。
「この子は君の友達?」
気配もなく背後からかけられた言葉に、御手は飛び上がった。振り返ると、柔らかい栗色の髪を肩で揃え、明るいオレンジのシャツとジーンズを纏った若い女が、御手へはにかみながら微笑んでいた。
「いきなりごめんね、私の犬は供出に連れて行かれちゃったから、つい……」
御手は眉根を寄せつつ、女の顔を無遠慮に睨め回す。人目を引くようなオーラは無いが、顔立ちは整っている。美貌をひけらかさないその奥ゆかしい立ち振る舞いがかえって胡散臭い。どこかで見た事のある顔だ、と御手はぼんやり考えた。
「可愛い子ね、もう犬は平気なの?」
「そっすね」
なにやら馴れ馴れしく話しかける女を警戒心むき出しでいなしつつ、御手は公園を後にした。
御手がその後、先ほどの女がお隣さんである宝家の一人娘であると気づいたのは、帰宅してワン太の散歩へ繰り出した後の事であった。
信用を得るに最善の手段は、まず時間を費やす事である。毎日魅力的な異性から親しげに話しかけられれば、ほとんどの人間は警戒心を薄めていく。人一倍察しも血の巡りも悪い御手のような愚かな少年ならばなおさらだ。
夏休みの間、しつこく、なおかつさりげなく纏わり付いてくる宝に、御手は心を開いた。宝は御手と同年代であったはずだが、その落ち着いた佇まいは成熟した大人を思わせた。御手はたびたび宝から見下されているような不快な感覚に陥る事も有ったが、しかしその滲み出る知性や気品には敬意と好意を抱くようになっていったのであった。
かつて、宝は中学生の頃に部活の顧問と駆け落ちをして行方不明になっていた。当時の御手は宝とは疎遠になっており、一欠片も興味を抱いていなかったので、他の同級生たちと同じくうわさ話のタネにする事はあっても本心から彼女の行く末を案じることはなかった。
宝と再会した後も、御手は彼女の身の上を探ろうという気は起きなかった。それは気遣いゆえというよりも、すっかり人が違ってしまった彼女から滲み出る不穏な気配を恐れてのことであった。
休日のワン太の散歩はいつの間にか完全に御手の仕事となっていた。夏休みとなれば、それこそ御手は一か月半もの間、毎日朝晩三十分は公園へワン太を運動させに出かけるのだが、その際に知人と顔を合わせることもまれにあった。
そしてその日の夕方は、公園へ赴く途上の陸橋の上で、御手は級友の黒木と偶然にも出会った。黒木は容姿端麗で成績優秀な少年であり、教室内でのカーストは最上位層に位置している。生白く貧相で敬遠されがちな御手とは明らかに住む世界が異なる人間だが、二人はなぜか馬が合い、たびたび校外で落ち合って話し込むこともあった。
黒木がしげしげとワン太の黒目がちな瞳を覗き込む。
「これは、御手の犬か」
黒木は御手に携帯端末で撮ったワン太の写真を見せられてはいたが、実物を見るのは初めてだった。
「そう、ワン太っていうんだ」
「余所の家の犬に言うのもあれだけど、ひどい名前だな」
「だろ? 父さんが名付けたんだ」
「あいつが? そりゃ……」
言葉の途中で、不意に黒木は咳ばらいをして話題を変えた。
「ええと、御手って前は犬が苦手って言ってたよな。いや、それは倉根だっけ」
「まあ、昔は何か嫌だったけど、飼ってみたらそうでもなかったんだ」
御手は屈み、ワン太の首筋を撫でた。
ワン太は首をひねり、御手の手を舐めようとする。御手は手のひらを差し出し、ワン太の好きにさせた。
ワン太が御手の手のひらを舐めたり甘噛みしたりする様を、黒木は黙って眺め続けていた。
陸橋の下で、幾台もの車が行き来する音が響く、見上げれば、地方都市の街並みのシルエットへ真っ赤な夕日が溶け落ちていた。
「来週は一緒にキャンプへ行くんだ。黒木くんは夏休み中にどっかへ行くの?」
「俺は、ここでいいかな」
御手は屈んだまま黒木の顔を見上げたが、その表情は夕焼けの影になり、曖昧にぼやけて見えた。
「俺はここに居たいんだ」
「そうなんだ」
最近の黒木は様子がおかしかった。
強いて言うなら、御手の弟と近い雰囲気を醸し出していた。難しい年頃なのだろう、と御手は納得した。
「枯野の船を何とかしたら、遊びに行くのもいいかもな」
「そうなんだ」
枯野って何だよ、とは言わず、御手は黒木と別れた。
夏休みはあっという間に過ぎ去り、十月も半ばに至って肌寒くなりつつあるころの土曜日の夜。御手は自室の中でチラシをめくり、都内の下宿先のマンションを吟味していた。
結局、御手は大学へ進学する事にしたのである。その心変わりの経緯については、多分に宝への人生相談が影響を及ぼしていた。
「内申に響くっていうけど、学校の先生は御手くんが犬飼ってること知らないんじゃないの?」
「そういえばそうだ」
というわけで、一夜漬けに一夜漬けを重ね、滑り込みで都内のそれなりに名の知れた学校に合格した御手は、同期たちに混じって大手企業の社員や官僚などへの道を目指すこととなった。
行きつけの図書館がついに摘発されたり、徴兵年齢の引き下げが検討され始めたりなどの不穏なニュースも聞き及んでいたが、それはもはや御手にとって他人事でしかなかった。
人生が好転しつつ有る。この時の御手少年はそう錯覚していたが、実のところ当時の彼がいかなる選択をしようともその未来はだいぶ前に定められていたのである。
そしてその日の夜の食卓。母の言葉に御手は素っ頓狂な声を挙げた。
「四月に家族で渡米する? なんで急に」
「お父さんの仕事でね。矢野のおじさんたちも引っ越すんだって」
御手は頭を抱えた。自分の人生はいつもこうだ。 就職しようと頑張って上手くいかなかったり、進学するつもりでいたら引っ越すことになったり。重要な事柄に限って、予想だにしない障害が現れる。
「休学すればいいじゃない」
母は簡単に言うが、つい先ほどまで大学生活に思いを馳せていた御手としては、こうも一方的に人生設計を捻じ曲げられては遣る方ない思いがあった。
第一、高校を卒業しても両親に連れられて引っ越すというのは、何とも情けない気がする。御手の多くの同級生は、就職して自立するという進路を選んでおり、一人前の大人として生きていくこととなっているのだ。
まがりなりにも成人であるならばせめて人生の責任は自分で持ちたいという感覚が、ヌケサクの御手にもあるにはあった。十八歳を迎えれば法的には成人として扱われるが、だからと言ってそれだけで“大人”になれるわけではない。自分の食い扶持を稼げる能力と立場を得て、人は初めて一人の人間として社会から認めてもらえるのである。
御手の父の上司である“矢野のおじさん”の孫は、大学生でありながらアルバイトで自分の選挙料金を支払うほど稼いでいるという。立派だと御手は思った。自分もそのような学生になりたいと、努力などはしたくはないが、漠然と夢想することもあった。しかし大学に行くこともできず、両親にノコノコついて海外へ引っ越すともなれば、一般に言う“立派な大人”になることは絶対にできない。
なお、この時代の日本における選挙料金は一票につき五十万円程度である。中間層の平均年収が百万円前後であることを鑑みれば決して安い金額ではない。ましてや一般的な学生が支払える金額ではないのだ。
参政権とは別に、大金を要求する現代日本の選挙制度には、御手も思うところはある。成人したにも関わらず、多くの学生が一票も投票できないというのは、少し不公平感がある気がした。もちろん、一般市民が政治のしくみを調べたり意見を述べたりするのは不作法だし、不健康であるため、御手は社会に対するその不信感を表に出すことは無かった。
何はともあれ、御手はまたしても人生の軌道修正を強いられることとなったのである。