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#2 山

 学校復帰からの数日後。御手はワン太の散歩中にまたしても不届き者に絡まれた。相手は先日因縁をふっかけてきた同級生たちの兄や父、あるいは年上の友人たちである。彼らはワンボックスカーに御手を引きずり込み、朽ち果てた山小屋へ連行したのであった。

その山小屋は御手が幼い頃に白い野犬と遭遇した場所と近かった。当時の御手は山の自然の神秘性や美しさを理解できる程度の感受性はあったが、しかしこの山だけは一生好きになれそうも無いと考えた。

「このクソガキが!」

 同級生の父親が、その丸太のような腕で御手の首を掴み、床にたたき落とした。放置されて久しい山小屋の薄汚れた床板がきしみ、壁際の棚に山と積まれた農機具が傾ぐ。

 彼らは御手へ報復に来たのだ。


 御手が同級生に突きつけられたと主張するナイフの実在は確認されず、通行人の証言や街の監視ドローンの映像からも彼らが強盗に及んだ様子は確認されなかったが、しかし同級生たちは強盗殺人未遂で起訴された。

 これは当時の御手少年は知らなかった事であったが、犯罪被害者が名すら問われずすぐに帰宅を許され、警察からの音沙汰が無いままに放置されるという事は、まずもってありえない。ありえないことではあったが、しかしそういった無法を通さざるを得ない事情が警官たちとその関係者には存在し、その事情に御手は自覚無く守られていたのである。

 当然、無実の罪で捕らわれた同級生の親族や友人たちは怒り、御手に憎しみを抱いたわけであった。常に鬱屈した暴力衝動を抱えている彼らにとって、その憎しみは制裁行為を行う都合の良い名分となったわけである。


 薄暗い山小屋の中で、男たちの罵声と打擲音、木材が割れる音、重い農具が崩れる振動が響く。屈強な男たちにバットやら鉄梃やらで小突き回される中、御手は頭を抱えてうずくまって痛みと恐怖に耐える。どうしてこうなったのか、何を間違えてこんな事になってしまったのか、御手は途切れ途切れに思考する。共に山小屋へ連れてこられたワン太は、裏手にある崖下の川へ放り捨てられた。誰の助けも望むことはできない。

 混乱と苦痛の嵐の中で、自分はここで殺されるであろうことだけは理解できた。

「もっと泣けよ!」

 嘲笑と暴力に見舞われ、無力な少年は這いつくばって身を縮めるしか無い。経年によりサッシが歪みガラスが砕けた窓から、赤い夕日が陰鬱に差し込んでいる。

 男たちは貧しく失うものも無いため、逮捕される事をそれほど恐れてはいないだろう。むしろ刑務所に服役すれば資格やコネが得られ定職に就くことができる、とまで考えているかもしれない。御手は己の命運が尽きかけている事を理解せざるを得なかった。

 同級生の父親が御手の髪を掴んで引き起こし、顔を付き合わせて凄む。

「おい、許してほしいか」

「……なにが?」

 この御手の返答は挑発ではなく、偽らざる本心からの疑問であった。御手は自分が許しを乞わなければならないことをしたなどと思っていないし、謝罪を求める同級生の父親の心理を計り兼ねていた。つまり、御手も男たちも、己は被害者であり相手は加害者であると確信していたのである。

 もちろんこの御手の反応に対し、同級生の父親は激昂した。

 同級生の父親は御手の首を掴み上げ、喉元を両手で絞める。御手の口端からぶくぶくと泡が吹き出て、みるみる顔面が真っ赤に鬱血していった。

 この時の御手にあった感情は、恐怖でも諦念でも、まして慚愧でもなかった。怒りである。何の非も無い自分が殺められる、その理不尽が成される世界や人間社会に対し、御手は忘れようの無い恨みや憎しみを抱いた。今の危機的状況は御手の詐言が招いた因果応報でしかなかったが、しかし彼は自身に害なす全ての存在に対し、ただ生存本能から怨念を抱いた。逆恨みとしか言いようの無い暗く淀んだその情動が、御手の精神の根源にこびりついた今この瞬間、彼の今後のろくでもない人生はその行く末を運命づけられた。

「いてえ!」

 同級生の父親はすねに苦痛を覚えて飛び上がった。その手から解放された御手が床に転がる。

「犬っころが!」

 同級生の父親の足に噛み付いていたワン太を、別の男が蹴り飛ばした。子犬は哀れにも小屋の奥へ叩き付けられ、嘔吐と痙攣を繰り返すばかりとなる。川の底から這い上がってきたために、ワン太の水に濡れた体毛は小さな体にべったりと張り付き、それがまた見窄らしさと痛々しさを強調した。

 その場にいる報復者たちの視線が思わぬ小さな闖入者へと向けられ、やがて中途半端な状態で遮られた殺しへの衝動が一気に膨れ上がった。暗い山小屋の奥で苦しみ悶えてうずくまる小さな命へ、男たちは殺意と共に得物を振り上げる。

 そして、鮮血がくすんだ壁板を彩った。

 ワン太を蹴り飛ばした男は、己の腹部を見下ろす。真っ赤に血濡れた鉄製の棒材が、背中から鳩尾へ突き抜けて生えている。傷口から鮮血が間欠泉のように噴き出て壁板を汚していた。ひしゃげた肺から汚らしい悲鳴が漏れる。

 御手が鉄製の棒材を引き抜くと、男はごぽごぽと喉から呻きを上げながら崩れ落ちた。どす黒い血だまりが徐々に広がっていく。

 立ち尽くす男たちは、死にゆく仲間から目を離し、御手を見やった。

「殺してやる……」

 御手少年は、怒りや憎しみ以上に暗く重い感情を湛えた瞳で、男たちを見返した。血濡れた鉄製の棒材を振りかざし、もう一度、その殺意と呼ばれる感情を言葉にして宣言する。

「殺してやる!」

「ふざけんな!」

 同級生の父親が逆上した。彼は荒っぽい日雇い生活の中で何度も強盗や強姦などの暴力沙汰を繰り返し、一方的に人を痛めつけて結果的に命を奪ったことも幾度かあった。今の御手のように、凶器を向けてくる者と争ったこともある。それらの経験から、同級生の父親はここに至っても御手を侮っていた。

 血まみれの棒材の切っ先は、誰に向けられるべきか定めかねて宙をふらふらと泳いでいる。それを好機と見た同級生の父親は、肩を怒らせて御手に詰め寄ろうとし、一歩を踏み出した。そして二歩目に至る前に腹部を棒で突かれた。彼は己の胴を穿つ棒材と、じわじわとシャツに滲み出る血のシミを見下ろし、目を見開く。喉からがらがらと呻き声を絞り出し、がくりと膝をついた。

 崩れ落ちる同級生の父親の体に引っ張られ、棒材も御手の手から離れ床に落ちる。鈍い金属音が山小屋のよどんだ空気を震わせた。

 凍り付いた報復者たちとは対照的に、御手の行動は素早かった。床に散乱する農具の中から両手ハンドル式刈払機を引っ張り出し、そのベルトを肩にかける。スロットルを全開にしてスターターを引っ張ると、耳が割れるほどの轟音でエンジンが唸りをあげた。

 猛烈な勢いで回転する円盤鋸が空気をかき乱し、粗末な山小屋を震わせる。二つの死体から零れる臓物の中身の悪臭と排気ガスが入りまじり、狭苦しい山小屋に充満した。

「死ねーっ!」

 威勢の良い掛け声とともに御手は払い刈り機を振りかざす。男たちが身構える。が、御手はその場で払い刈り機を掲げたまま立ち尽くした。

 エンジンの唸り声だけが夕暮れ時の山小屋に響く。

 山のいずこかでカラスが鳴き、男たちは我に返った。お互いに顔を見合わせ、次いで御手を見た。汗だくで荒い息をついたまま、御手は動かない。

 御手はビビっているのだ、と早合点した男たちがにわかに勢いづく。バットやら鉄パイプやらといった己の得物を握り直し、御手に殺到した。

 御手は冷静に後退しつつ、相手の武器とそれを握る腕を払い刈り機の回転鋸で捌く。火花と血しぶきが舞い、男たちの怒号と絶叫が響く。

 凶器として見た場合、鈍器や刃物と比較して払い刈り機の優れているところは、振りかざしたり叩き付けたりせずとも威力を発揮する点にある。相手を傷つけるには、ただ切っ先を触れさせるだけでよいのだ。何も一撃で致命傷を与える必要はない。ただ適当に薙げば、飛び出してきた得物をはじき飛ばし、手先にでも触れさせれば相手へ耐え難い苦痛を与えることができる。

 男たちを弱らせれば、あとはただ山小屋の狭い入り口を背にし、雑草を刈るように払い刈り機を左右へゆっくり振るうだけでいい。山小屋から逃げ出そうしたり、あるいは果敢に御手へ立ち向かおうとしたりするものには回転鋸を向けて奥へ追い返し、抵抗する気力と体力を奪う。

 少しずつ慎重に、皮を裂き、肉を断ち、骨を削る。流血沙汰において発揮された御手の理性的で無慈悲な立ち回りは、彼の異常性の発露であり、また忌むべき才能の証に他ならなかった。

 すでに夕日は地平線の向こうへ半ばまで沈み、スモッグに覆われた天頂では半月が虚ろに揺らいでいる。耳を聾する払い刈り機のエンジン音に入り交じり、罵声や悲鳴、嗚咽、そして命乞いが山小屋で吹き荒れ、やがてそれも夜の山の闇に溶けていった。

 血肉や臓物、体毛の塊、糞尿など、ありとあらゆる不浄の極みに彩られた山小屋の中で、やがて響宴は終わりに差し掛かろうとしていた。

 御手は最後に生き残った報復者を前に、払い刈り機のスロットルを落とす。最後の報復者は膝をついたまま、悄然と御手を見上げた。

「許してほしい?」

「許してください」

 報復者は頭を地面にこすりつけて懇願する。

「ダメ。死ね」

 御手は払い刈り機のスロットルを再び全開にし、最後の報復者の首筋に回転鋸を押し込んだ。


 以後、同級生たちが御手を襲撃することは無くなった。同時に御手の友人たちも、数少ない例外を除いてほとんどが彼から離れていった。

 誘拐犯を次々惨殺した御手は、その狂気におののく地域の人々の間である事無い事を噂されるのであるが、彼当人は全く気にかけるそぶりすら見せなかった。

 何ゆえこのような凶行に及んだ御手少年が手に縄をかけられることもなくのうのうと学生生活を続けられていたのかと問えば、それは様々な利害が衝突し擦りあわされた結果であり、更にいうならば体制の腐敗のためであった。また、御手は悪人を懲らしめただけのつもりであったので、良心の呵責などは一切抱くことがなかった。

 で、なんやかんやあって御手とワン太は仲良くなった。

 目下の平穏の敵であったワン太に愛情を抱くようになり、また地域社会でアンタッチャブルな存在と化すことにより不快な悪意から逃れ、御手はようやく望んだ安寧の日々を得ることとなる。しかし、友人を軒並み失ってしまった孤独から彼はますます図書館通いへのめり込み、それがまたご近所からの不興を買う事となったのであった。

 そして高校生最後の春に至る。

 自宅で食卓についていた御手は、母の言葉に耳を疑った。

「ワン太を食料として供出……!?」

 御手は激怒した。怒りに任せて茶碗を振り上げ、ふと思い直して盛ってあった白米を掻き込むと、また腕を振り上げてちゃぶ台へ叩き付ける。

「ふらふんな(ふざけるな)!!」

 モゴモゴと咀嚼しながら御手は茶碗と箸を振り回して怒り狂った。赤の他人のために親友を生贄に捧げる道理など御手は持ち合わせていなかった。

 ちゃぶ台の横でドッグフードを貪っていたワン太が、何の騒ぎかと目を剥いて御手を見上げる。

「ご近所さんはみんな、ペットを供出したって」

「よそはよそ! うちはうち!」

 母の言葉を、御手はぴしゃりと遮る。

「俺も反対だ。だいたい今どき犬を飼ってる家などほとんど無いだろう。みんなと言うほど供出する家があるものか」

 中学二年生となった弟も、ワン太の頬の毛をなで回しながら偉そうに御手に同意する。

 ちなみに、父は例によって出張により不在だった。これは不運なタイミングであった。父がその場に居れば、ワン太を供出するなどというバカバカしい話は即座に潰えるはずであったのだ。

「でも、最近ってそういうのを無視すると内申に響くじゃない」

 内申とワン太の命を天秤にかける母の言葉に、御手は憤然として立ち上がり、茶碗を掲げて宣言した。

「だったら進学なんてしない。就職する!」

 御手は幼かった。母の説得は、国のためでも体面のためでもなく、御手自身のためであったのだ。

 供出を断った御手家に待っていたのは、世間からの酷薄な仕打ちだった。村八分である。

 もともと貧困層が多いこの地域で裕福な御手家は浮いており、隣家からの反発を父が権力によって抑えつけることで安全な生活が保たれている状態だった。ペットの飼育などはブルジョワジーの誇示であると見なされる風潮も有り、ワン太を引き取ってからは地域の住人の御手家に対する悪感情はますます深まっている。最近は御手の所業で距離を置かれてはいたものの、排他的な隣家から直接的な攻撃を受けるのは時間の問題であった。

 そもそもペットの供出などという運動は、社会不安が生み出した集団ヒステリーが利権化したものでしかない。音頭をとっているマスコミや役所、そして運送業者や廃棄物処理業者が利益を得るための構造であり、前線の兵士たちには何の得にもならないのだ。供出されたペットたちは、処理場へ運搬され、そのまま埋められることによって、業者や役人の生活の糧となるのである。

 だが、世間の多くの人々にとって、実益の有無などには何の意味もなかった。痛みを分かち合うこと、平等に損をすることによって被害者意識を共有し、連帯感を高めることにこそ、ペット供出運動の真の意義があった。つまり、参加することが大切なのだ。

 無益な徒労によって得られる閉じたコミュニティの卑小な一体感は、容易に排他性へと転化する。人は誰でも正義を行使する欲望を持ち、社会がその正当性を保障すればそれはすぐさま具体的な暴力として発揮されるのだ。

 父の仕事上、御手家が転居することは困難である。そのため、母は地域からの圧力から逃れるためにペットの供出を承諾せざるを得ないと考えたのである。しかし母としてもワン太を犠牲にするのは不本意であるし、子供たちが強硬に反対するのであれば己の考えを押し通す気にもなれなかった。

 結果としては、その選択は悪いものではなかった。供出の拒否は、ワン太のみならず御手の命を救うことにも繋がったのである。

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