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#1 犬、御手

 濃厚な夏草の匂いが肺にわだかまり、むせる。幼き日の御手は、隣家の同級生の少女と共に山の藪を掻き分けていた。

 二人の子供たちの首筋を、背後から迫る野犬の荒い息遣いが撫でる。御手少年は嗚咽を漏らしながら少女の手を引っ張り、大人たちがいるであろう裾野を目指して山道を駆け下りた。

 なぜ自分たちが野犬などに追われるハメになったのか、今の御手は詳しく覚えていない。単にいつものように山頂の神社を目指して野山へ足を踏み入れ、うかつにも野犬の縄張りを侵犯してしまったのかもしれない。

 とにかく二人の幼い子供は野生という圧倒的な暴力を前に、ただ全力で脚を回転させるしか無かった。

 そして、地面の上に浮いた木の根へ思い切り躓いた。

 回転する視界、口に広がる土の味、肘や膝の痛み。仰向けに転がり、視界の端に走り去る少女の背中が一瞬映った直後、眼前に野犬の鋭い牙が閃く。

 そのあとの事は、御手はあまり良く覚えていない。雪のように白い野犬の体毛とその生暖かい吐息、そしてごつごつした地面の感触が断片的に記憶に残されているだけである。あの時の御手はただ逃げる事に無我夢中で、事の顛末に関する認識もあやふやだったが、今にして思えば大きな怪我を負うようなことは無かったことが不思議だった。山道で転倒し、野犬に伸し掛かられたにも関わらずだ。

 そして、一連の出来事の中で最も強く心に刻まれた光景が、御手の脳裏に甦る。

 ふもとの砂利が敷き詰められた駐車場、青々とした木々、うだるような暑さ、そして保健所のカーキ色のワゴンに押込められた野犬の悲しげな瞳。犬は御手に牙を向けなかった。もしかしたら、この犬はただ御手たちと遊びたかっただけだったのかもしれない。だが、思い出の中の幼い御手はどうすることもできなかった。

 幼い日の郷愁を伴うありふれた小さなトラウマ。このとき御手少年の心にわずかな傷を刻んだトゲは、やがて精神の血管に潜り込み、心臓の奥深い部分に癒えない傷跡を残すのである。


 薄ら寒い灰色の町並み。人々はみな、冷たく沈殿する冬の空気から身を守るように背を丸めて俯き、足早に往来を行き交っている。そんな雑踏のあわいに紛れ、学生服姿の御手は白い息を吐きながら道を急いでいた。

 日に日に忍び寄る貧困の暗い影は、元から陰気で薄汚かった町並みにも様々な形で現れつつある。個人の住宅や商店が時の流れから取り残され朽ち果てるままとなっている一方で、古代の神殿を思わせる巨大なハコモノがあちこちで林立していた。

 御手は大通りから路地裏へ影のようにひっそりと渡り歩き、そして郊外のシャッター街へ滑り込む。半ば廃墟と化しつつあるそのシャッター街には職にあぶれた男たちが吹き溜まり、剣呑な目つきで人々を値踏みしている。御手はその視線から逃れるように小走りで通りを駆け抜け、ようやく目的地へたどり着いた。

 枯れ葉が積もる生け垣に囲まれた、木造の古い図書館。

 鉄の門扉を押し開き、鉢植えが並ぶ小さな庭を横切り、床板のきしみを耳にしながら建物の中へと足を踏み入れる。古家と古書の香りが鼻をつく。

 御手は厳めしい本棚の森をひとしきりさまよい、目を引いた本を抱えて窓際の席に座った。館内は静まり返っており御手の他には利用客の姿が見えない。司書の中年女性だけが、いつもと同じようにカウンターで分厚い洋書をめくっている。

 数週間ぶりの静寂とくつろぎに身を浸し、御手はため息をついた。

 

 あの小さな愛くるしい悪魔が御手家へ迎えられたのは、晩秋のことである。

 会社役員だった父は日本各地を飛び回っており、たまに帰宅してはおかしな土産物を披露したのだった。その日も父は一抱えもあるカゴを両腕で抱えて居間に現れると、御手とその母、そして弟を呼んだ。

「木彫りの地蔵とかご当地アイドルのペナントとかはもういらないよ」

「いやいや、今日はもっといいものだよ」

 露骨に顔をしかめながら居間に集う家族に、父はリビングテーブルの上のカゴを指差す。

 カゴの中には柔らかい毛布が敷かれ、その上に子犬のぬいぐるみが置かれていた。シルクのようにサラサラふわふわの、白地に茶色のまだらが浮かぶ牛柄の毛皮と、きらきら輝く黒い瞳。柴犬やコーギーに近い雑種。眺めているだけで口元がつい綻んでしまうような可愛らしいぬいぐるみ……いや、それはぬいぐるみではない。ぎこちなく前足を伸ばしてブルブルと体を震わせると、顔を御手家一同に向ける。御手少年と目が合うと、子犬は輝くような満面の笑みを浮かべ「あう」と甲高く鳴いた。

「ウワーッ!」

 御手少年は後ろにひっくり返り、仰向けのまま後ずさった。

 一方、御手の母は、まあ、と一言感嘆した後、見知らぬ人間の姿に興奮してジタバタ暴れる子犬を優しく抱き上げる。その姿を中学生になったばかりの弟がしげしげと眺め、何を納得したのか腕組みをして頷いた。

「職場で飼ってる犬が赤ちゃんを産んだんだ」

「出張のお土産じゃなかったのね」

「フーム」

 子犬を囲んで盛り上がる両親と中学生の弟。その団欒から一人取り残され、御手は床にへたり込んだまま憮然と押し黙っていた。

 あの幼い日のトラウマにより、御手が犬を苦手とすることは父も承知していたはずだ。その上でこの子犬を連れ帰ったとすれば、あまりにも無神経すぎるのではないか、と彼は怒りを覚えた。御手は父の突拍子もない行動には慣れていたつもりだったが、今日ばかりは腹に据えかねるものがある。ペットの購入などといったライフサイクルに多大な影響を及ぼす行動は事前に家族と話し合った上で成すべきであり、そういった然るべき手順を怠り引くに引けない段階で一方的に報告して押し通すなど、あまりにも無責任ではないか、いったいこれはどういうつもりなのかと追求する御手に、父は一瞬惚けた顔をした後、曖昧に笑って答えた。

「犬がダメって……? あっ、そういえば……。ああうん、覚えてるよ、あれだよ、トラウマを克服する的な」

 あまりにぞんざいな父の言い訳に、御手は頭を抱えるしかなかった。


 その日の夜。御手一家は夕餉を終えた食卓を囲んでいた。子犬について、散歩はいつ誰が行うのか、餌はどのようなものを与えるべきか、寝床の用意はどうするのか、などといった家族会議を行っていたのである。

「まずはこの子の名前を決めないとね」

 腕に子犬を抱いた母が提案する。

コロ……」

 思春期真っ盛りの弟がニヒルに呟く。

「ゴン太なんていいんじゃない? ほら、ゴン太って感じでしょ、この子」

 子犬は注目されているのが嬉しいのか、黒目がちな瞳を潤ませて母の顔を舐め回したり前足で忙しなく足踏みしたりしている。

「ワッフルはどうかな。お洒落だろ?」

 父が子犬の額を撫でると、その指を追って子犬がきょろきょろと鼻っ面を動かした。

「ねえ、お兄ちゃんはどう思う?」

「合体させてワッフル・殺・ゴン太でいいんじゃない」

 母からの問いかけに、御手少年はテーブルの端っこから素っ気なく返事を返した。

 長いなあ、と父が呟く。

「略してワン太、とか」

 母の折衷案に父が頷いた。信じがたいほど雑なネーミングに御手は閉口したが、しかし彼にとっては犬の名など全く興味のない議題であったので、両親の決定に口を挟むことはなかった。

 こうして犬嫌い少年御手の心の平穏は、その日を境として唐突に終わりを告げたのである。


 子犬の養育は、金や時間、そして体力を要するものであり、そういう意味では人間の子供と同じであった。その上、子犬は人間の幼児とは異なり高い運動能力を持っており、体力を持て余して昼夜を分たず家中を縦横無尽に駆け回っては花瓶をひっくり返し洗濯物を毛だらけにしたりする。静寂を愛するインドア派の御手少年にとって子犬との騒々しい生活は苦痛であり、更に不本意なことに、犬に馴れるためという名目でワン太のトイレの掃除を家族から任じられていたのである。

 御手はワン太の、あの獣性がむき出しの荒い息が苦手だった。飼いならされているとはいえ所詮は獣、背中を見せた途端に食いつかれても不思議ではない。

 言葉が通じない肉食獣に対する御手の恐れは人間として自然な感情であるし、また、麗しい外見に飼い主への限りない好意を宿し、その上で飽きない程度に手間のかかる愛玩動物を、御手の家族が慈しむのも人として当然のあり方であった。


 とにかく、御手少年は図書館にて久方ぶりの安息を得たのである。

 このような収益性の無い古い私立図書館には政府の検閲を免れた昔の蔵書が残されている事があり、御手はそれを目当てにして足しげく通っていた。そして、そういった行いを快く思わない者もこの陰気な街には存在していた。

「あれあれ、御手くんじゃん」

 図書館から帰宅している道すがら、御手は学校の同級生たちに見つかり、絡まれていた。鞄をひったくられ、借りた文庫本を路上にぶちまけられる。

「もう本読みませんってみんなの前で言ったよね、何やってんの?」

「やっぱ死なすか、こいつ」

 以前、御手は図書館通いが学校にバレてしまい、成人するまで読書をしないことを教師に誓わされていたのである。判断力に乏しく社会的責任を担っていない未成年が、本を、まして小説を読む事は、違法ではないにしても社会通念上は非常によろしくない。良識という観点から見れば同級生たちの糾弾は正当なものであったが、実際のところ彼らは単に御手家の裕福さを妬み、制裁の名の下に憂さを晴らそうとしていただけの事であった。

「ちょっと来いよ」

 御手を路地裏に引き込もうと、ひときわ体格のいい同級生が腕を掴んだ。そして、その同級生の肩を白い手袋が掴んだ。

「君たち、路上で何をしているんだ」

 警官である。

 同級生は、警官の有無を言わせぬ威圧感にすくみ上がり、御手の腕からノロノロと手を離した。

 御手を掴んでいた者以外の同級生たちの背後にも、筋骨隆々の肉体に濃紺の制服を纏った警官たちが佇んでいる。御手を威嚇していた同級生たちは、一転して萎縮し、冷や汗を掻きながらモゴモゴと何やら言い訳を始めた。

「強盗です!」

 御手が絶叫し、同級生たちは凍り付いた。

「ナイフを突きつけられてお金を寄越せって!」

 この御手の虚言は、学生でありながら本を持ち歩いている事を見咎められる前に、絶対的な被害者になろうという小賢しい考えに基づいたものである。当然、同級生たちは驚愕し、そして激怒した。

「テメエッ!」

 咆哮し、御手に掴み掛かる同級生。身を縮める御手。

 直後、その指先は御手に届く事無く空を切り、同級生は警官に地べたへ投げ飛ばされていた。警官に手首を握られたまま肩を踏みつけられ、同級生は腱が引き延ばされる苦痛に目を白黒させて唸る。

 立ち尽くす御手と、その足下に散乱する文庫本を一瞥し、警官はわずかに鼻を鳴らす。そして、御手少年の前に立った。

「先の、強盗という話は本当かね」

 警官の冷たい視線に圧され、御手は身を引きながら頷く。

 この時の御手は、自身が利己のために他者を欺き陥れたという自覚はあった。しかしそういった行為に罪悪感を抱く事も無かった。そしてそれは、御手という人間の本質が、彼の人生の中で初めて発露された瞬間であった。

「わかった。もういいから帰りなさい。後は我々が片付ける」

 御手は素直に頭を下げ、本を拾うと、その場を走り去った。


 帰宅し、ベッドの上に倒れこむ御手少年。両親は仕事へ、弟は部活動へ出かけており、家には誰もいない。静まり返った部屋の中で、御手は四肢を四方に投げ出し、心を鎮めることで不快な記憶を頭から追い出そうと努力する。

 そんな彼の傍らに、毛むくじゃらの小さな家族が歩み寄った。

「ワン太」

 声に答えるように、ワン太はベッドからはみ出た御手の腕を舐め、円らな瞳でじっと彼を見つめる。走り回ることも、甲高い声で吠え立てることもなく、ワン太は座り込んで御手の様子を伺っていた。御手は、この騒々しく厄介な生き物を、不思議といつものように疎ましく感じることはなかった。

 犬が飼い主の心の機微に敏感であるということは、御手も聞いている。御手はワン太の中にある優しさを感じ取った。同級生たちや警官たちよりもずっと人間らしい暖かみを、幼い獣の内側に発見した。

 御手は上体を起こし、ベッドの脇のワン太と向かい合う。彼は今に至り、ようやくワン太の容貌を間近から直視した。そして納得する。父母や弟が溺愛する程度には確かに愛らしい姿をしている、と御手は素直に感じた。

 御手が起き上がりベッドから退くと、ワン太はおもむろにベッドの下の隙間へ潜り込む。

 何事かと御手が屈んでベッドの下を覗き込むと、そこにはうずたかく積み上げられた、黒く乾いた排泄物があり、その横でワン太がしゃがみ込んで震えていた。排泄物は以前より、おそらくはワン太がこの家に来た直後から積み上げられてきたのであろう、ワン太自身の数倍の体積があった。

 あぜんとする御手の目の前で排便をすませると、ワン太は悠々とベッドの下から這い出てくる。そして立ち尽くす御手を見向きもせずにそのまま部屋を出て行った。

 確かにワン太はかわいいのかもしれない、しかし犬はやっぱり嫌いだ、と御手は怒りに震えながら己の価値観を再確認したのであった。


 その日、ベッド下を知らぬ間に便所として使われていたことを知った御手は、怒りのままにワン太を家中追いかけ回し、いよいよ拳骨を見舞おうとした瞬間に足を滑らせて階段から滑落した。昏倒した御手は帰宅した家族に発見され、病院に運ばれて左ひざにヒビが入っており安静が必要であると診断される。

 かくして御手は数日間の自宅療養を余儀なくされるのであるが、彼はその不本意に得た休日を無駄にする事は無かった。

 犬への恐怖心が消えた御手は、ワン太のトイレ教育に自ら進んで望んだ。ワン太も先日の楽しい「おいかけっこ」のおかげで御手に懐き、彼の言う事をよく聞くようになった。結果として御手が学校に復帰する頃には、十回に一回は指定のトイレシートで排泄を行うようになったのである。

 もちろんワン太のハウスに設えてあるトイレの掃除も、御手はサボる事無く毎日丁寧に行うようになり、やがて一家におけるトイレ係としての自覚を得たのであった。

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