第六話 プライスレスな優しい心
大樹と一時間ほど話をしただけなのに、花の心には大樹が住み着いてしまった。
その爽やかな笑顔を思い出すたびに、胸がときめくのが分かった。
ファミレスで大樹と話した時、緊張したり、憂鬱だったり、退屈だったり、そんなことはまったくなく、あっという間に時間が経った。
大樹は、もっと花のことを知りたいと言ったが、花も大樹のことをもっと知りたかった。だから、本当は大樹と会いたかった。
花が大樹に連絡をすれば、大樹はすぐに会いに来てくれるはずだ。
しかし、花は大樹に連絡を取らなかった。
花は、学校の図書室にある、生徒が自由に使えるインターネット端末を利用して、大樹が言ったこと、つまり、大樹が代表取締役を務めている飛鳥総合企画という会社が実在し、大樹と父親の飛鳥昌樹が代表取締役を務めていること、飛鳥総合企画が飛鳥グループ傘下の企業を実質的に支配していることがすべて事実だということを確認した。そして、飛鳥一族の資産総額は国家財政規模を越えているとも言われていて、ぶっちぎりで日本一の金持ちだと分かった。
大樹が嘘を吐いているとは思えなかったが、その話があまりに大きすぎて、すぐには信じられなかったのだ。
そんな大樹のことを知るたびに、大樹は花とは違う世界の人のような気がして、自分なんかが大樹とつきあうことは許されないのではないかと思い、大樹に電話をする勇気をへし折られた。
このまま、花が電話をしないと、大樹とは二度と会えないだろう。約束した以上、大樹の方から花の前に姿を現すことはしないはずだ。大樹は必ず約束を守る、そんな人だと確信できていた。
花は、大樹のことが気になりながらも、あれは一時の夢だったんだと自分に言い聞かせて、大樹とは二度と会わないつもりだった。
大樹と話をしてから一週間ほど経った日の夜。
花がいつもどおりコンビニのバイトを終えて家に帰ると、部屋の電気が点いてなかった。
「あれっ。お婆ちゃん、出掛けているのかな?」
買い物も明るいうちに済ませているはずだし、こんな時間に祖母が出掛けていることはこれまでなかった。
また、必ず、花の帰りを待って、遅い夕飯を一緒に食べることが習慣になっている祖母が、花が帰るまでに居眠りすることも今までなかった。
胸騒ぎがした花は、急いでドアを開けて、「お婆ちゃん!」と叫んだ。
返事はなかった。
「お婆ちゃん?」
暗い中、玄関を上がって、部屋の電気を点けた花の目に、流し台の前で倒れている祖母の姿が飛び込んできた。
「お婆ちゃん!」
すぐに駆け寄って、体を起こしてみたが、意識がなく、顔が青白くなっていた。
すぐに来てくれた救急車に同乗して、救急病院に行った花は、緊急治療室の前のベンチに座り、まんじりともせず待っていた。
緊急治療室のドアの上にある「処置中」の赤い表示灯が消えると、ドアが左右に開き、ストレッチャーに横たわり、人工呼吸器を付けられた祖母が出て来た。
「お婆ちゃん!」
花は思わず祖母に駆け寄ったが、医者と一緒に出て来た看護師さんに止められた。
「絶対安静ですよ!」
「お婆ちゃんは? お婆ちゃんは?」
花は、涙声でそう尋ねることしかできなかった。
「手術は一応成功して、一命は取り留めたよ。でも、まだ、危険な状態なのは間違いない。お嬢さん、お父さんかお母さんは?」
医者が花に尋ねたが、花は「いません」と答えるしかなかった。
「そうなの? それは困ったなあ。これからの治療方針とか、込み入った話をしたかったんだけど……。誰か、大人の親戚の方でも良いんだけど」
「私じゃ駄目なんですか?」
「そうだね。治療費とかのお金の話もあるからね」
父親は祖母の一人息子で叔父叔母はいなかったし、母方の親戚とはまったく交流がなく、実際、連絡先も知らなかった。
「近所の民生委員さんとか、町内会長さんとか、君の学校の先生とか、とにかく、相談ができる大人の方はいないかな?」
地域の顔役もまったく知らなかったし、学校に迷惑を掛けるのは筋違いのような気がした。
そんな花の頭に、困ったことがあれば連絡してほしいと言った、大樹の顔が浮かんだ。
祖母は集中治療室に入れられた。緊急手術は成功したが、まだ、予断を許さない状況に変わりはなかった。
その前の廊下のベンチに花は座っていた。時間は深夜。
病院の中も静寂に包まれていて、花は心細くなってしまった。
祖母にもしものことがあったら、どうすれば良いのか?
祖母との二人暮らしなのだから、本当は、ちゃんと話し合っておくべきことだったが、祖母もまだ六十歳代で元気だったし、花も祖母が亡くなることが前提の話をすることは、意識的に避けてきていた。
不安でいっぱいだったが、祖母が今、病魔と必死に闘っているのだと思うと、自分一人が弱音を吐くことはしたくなかった。
誰かが廊下を駆けてくる靴音がした。その靴音は花の方に近づいて来ていた。
花が顔を上げると、大樹が廊下の角を回って、顔を見せた。
大樹の顔を見た途端、今まで我慢していた涙が溢れてきてしまった。
ベンチに座ったまま嗚咽する花の肩を、隣に座った大樹がやさしく抱いてくれると、その手から伝わってくる暖かさで、花の涙も収まってきた。
「飛鳥さん。ごめんなさい。誰も頼れる人がいなくて……」
「いや、花ちゃんが僕を頼ってくれて、不謹慎だけどうれしかったよ。僕が一緒にドクターの話を聞くよ」
翌々日には祖母は一般病棟に移った。
本当は祖母に付き添っていたかったが、花も学校があるし、大樹が完全看護の個室に入れてくれて、逆に付いていてもらうと迷惑だと病院に言われたこともあり、 花は夕刊の配達を辞めて、放課後は学校から病院に直行し、午後六時になるとコンビニのアルバイトをするため、病院を跡にするという生活パターンになっていた。
そんな生活に変わってから一週間後。
学校から直接、病院に行った花が、病室のドアを開けると、ベッドで上半身を起こした祖母がテレビを見ていた。
「ああ、花、おかえり」
祖母は脳梗塞だった。大樹が選んでくれた最新の治療法のお陰で意識を取り戻し、トイレにも自分で行けるくらいには回復をした。しかし、体の自由が完全には利かなくなって、少し記憶障害も出て来ていた。
「お婆ちゃん、気分はどう?」
「うん、良いよ。それより花。にゃんすけに餌はやってくれたかい?」
「う、うん。心配しないで」
にゃんすけは、花が中学生の頃に、花のアパートの近くに住み着いていた野良猫だった。残り物を餌としてあげていたが、花が高校生になった頃には行方不明になってしまった。
「お婆ちゃん、リンゴ、食べる?」
「ああ、いただこうかねえ」
「じゃあ、皮を剥くね」
花は、大樹からお見舞いとしてもらったフルーツセットの中からリンゴを取り出して、ベッド脇の丸椅子に座り、ナイフで器用に皮を剥いていった。
紙皿にりんごを盛って祖母に手渡すと、病室のドアがノックされた。
「どうぞ」
花が告げると、小さな花束を持った大樹が入って来た。
「こんにちは」
「飛鳥さん!」
「花、誰だい?」
大樹は、祖母が入院してから毎日、お見舞いに来てくれていたが、祖母の記憶には留まっていないようだ。
「えっと、私がお世話になってる人」
「へえ~、そうかい。花がいつもお世話になっています」
「いえ、僕の方こそ、花ちゃんにいろいろと助けられています」
大樹も毎回、話を合わせてくれていた。
リンゴをひとつ食べ終えた祖母が大きなあくびをした。
「お婆ちゃん、眠いの?」
「そうだねえ」
「じゃあ、私たち、外に出るね」
花はそう言って、横になった祖母にふとんを掛けてあげて、テレビを消した。
「飛鳥さん、外で」
「そうだね。じゃあ、お邪魔しました」
大樹がそう言った時には既に寝入っていた祖母を残して病室を出た花と大樹は、公園のように整備されている、病棟に囲まれた中庭にあるベンチに並んで座った。
「飛鳥さん、いつも、ありがとうございます」
「いやいや。毎回、言っているけど、半分は、花ちゃんの顔を見に来ているんだよ」
もう、その台詞も何度も聞いていて、恩着せがましくさせないための大樹の言い訳だと、花も理解していた。
「それで、治療費のことなんですけど」
「うん」
「必ずお返しします。すぐには無理ですけど」
「分かった。いつでも良いよ」
「でも、……本当にお世話になりました。見ず知らずの私たちのために」
「見ず知らずの仲じゃないでしょ? 少なくとも、僕は花ちゃんに交際を申し込んでいるんだからね」
「私、飛鳥さんにどんなお礼をすれば良いですか? 飛鳥さんとデートをすれば良いですか?」
大樹が途端に不機嫌になったのが分かった。
「どうしたの、花ちゃん? 僕は、そんなことを言っているんじゃないよ。花ちゃんを買収することはしないと約束をしたと思うけど?」
「でも、こんなにいっぱいお世話になっているのに……」
「その考え方は、花ちゃんらしくないな」
「えっ?」
「花ちゃんは、僕が生活費を負担しようかって言った時、すごく怒ったでしょ? 僕だって、それで花ちゃんのことがもっと好きになったんだ。お金じゃないんだ。僕は、確かに、花ちゃんとデートをしたいとは思っているけど、お礼としてデートをしてもらっても、全然、うれしくないよ。花ちゃんが本当に僕と一緒にいたい、話をしたいって思ってなら大歓迎だけどね」
「飛鳥さん……」
「それに、今はそれどころじゃないでしょ。まずは、お婆さんが元気になることを第一に考えないとね」
花は、大樹の下心がまったく見えない優しい心に感激してしまった。