第三話 貧乏な日常に割り込んできたイケメン
「ただいま!」
「おかえり」
古びた二階建て木造アパートの一階東端の一Kの部屋が、祖母である野原菊と一緒に暮らしている、花の家だ。
合板の軽いドアを開くと、狭い土間があり、土間で靴を脱ぐと、すぐに三畳ほどの台所だ。
花は、台所で洗い物をしていた祖母に笑顔を向けながら、台所の奥にあるガラスの引き戸を開けて、六畳の和室に入った。そこは祖母と花の食堂兼寝室兼リビングで、花の勉強部屋も兼ねていた。
花は、自分の勉強机にしているガラストップのローテーブルの前に座ると、その上に置いているレターケースに給料袋を仕舞った。
「お婆ちゃん! 私のお給料はいつもの所に入れておくね!」
台所にいる祖母に言うと、祖母は「ああ、今日は給料日だったんだね。ご苦労様」とねぎらってくれた。明日には、花が稼いだ給料のほとんどは、祖母が振り込みの手続に持っていくだろう。
花は、トートバッグから、「チョコたっぷりパイお徳用パック」を取り出して、冷蔵庫に入れようと台所に戻った。
「今月のご褒美も、そのお菓子なのかい?」
「うん! 今日から八日間は至福の時を味わえるの」
「花は、本当にそのお菓子が大好きなんだね」
「へへへ」
「お腹、空いてないかい?」
「食べる!」
夕刊の配達が終わり、コンビニのバイトが始まるまでに軽く夕食を済ませているが、時間が早いだけに、この時間になると、どうしても小腹が空いてしまうのだ。
「また、カレーだけど良いかい?」
「うん! 私、お婆ちゃんのカレー大好きだもん! 三食カレーでも良いや」
「じゃあ、すぐに準備するね。一緒に食べようか」
二度目の夕食を終えた花は、冷蔵庫に仕舞っていたチョコたっぷりパイを二つ取り出すと、そのうちの一つを部屋の奥に置いている小さな仏壇にお供えした。
仏壇に置かれている写真立てには、幼い花を抱き、にこやかに笑う父母の姿があった。もっとも、花自身は父母の顔をはっきりとは憶えてなかった。
というのも、父母が交通事故で死んだのが、花がまだ幼稚園に入る前だったからだ。
父親が運転していた車が反対車線に飛び出し、向かって来た乗用車と正面衝突した。後部座席のチャイルドシートで眠っていた花は奇跡的に無傷で助かったが、父母は命を落とした。
そして、正面衝突した相手の車にも若夫婦と二人の小さな子供が乗っており、その二人の子供が犠牲となった。その両親から損害賠償を請求され、父親の居眠り運転が原因だと裁判で判断されてしまった。
両親とも死んでいるので、その賠償責任は、たった一人残った子供の花が相続したが、実際には、花を引き取った父方の祖母である菊が代わりに支払うことになった。
知り合いからは、相続の放棄をすれば責任を逃れることができると言われたが、菊は、子供を二人とも亡くした相手方夫婦の気持ちを考えるとそんなことはできないと、毎月、少しずつ損害賠償金を払い続けてきた。
しかし、三年前には、菊がずっと働いていた街工場が倒産して、退職金ももらえずに定期的な収入も途絶えてしまった。また、悪いことは重なるもので、同じ頃、菊が腰を痛めてしまって働くことができなくなり、菊の年金だけが収入になった。
しかし、まだ賠償金は残っていて、賠償金を支払うと生活ができなくなってしまう。だから、高校生になった花が、祖母に代わって賠償金を稼ぐために働いているのだ。
本当は、中学を卒業したら、高校には行かずに就職しようかとも考えたが、今のご時世、中卒女子を雇ってくれる所はほとんどなく、また、せめて高校は卒業させたいと菊も考えていたことから、花は近所にある公立高校に入学した。しかし、どうしても家計を助けたい一心で、中学時代は禁止されていたアルバイトを高校入学とともに始めたのだ。
「花! お風呂が沸いたから、先に入っちゃいな」
「はーい!」
一番風呂は年寄りには良くないという説を信じて、必ず、先に花がお風呂に入り、続けて祖母が入るようにしていた。
カチカチと火打ち石を回転させて火を点けるガス風呂だが、シャワーが付いていて、夏はシャワーだけで済ませることが多かった。今日は贅沢にも湯船にお湯が溜まっていて、花は、狭い風呂桶に膝を抱えながら入ったが、それだけでも疲れが飛んで行きそうだった。
お風呂から出ると、髪は女の命だから手入れだけはちゃんとするようにとの祖母の言いつけを守り、ドラッグストアで安売りしていたトリートメントを付けてタオルでぐるぐる巻きにした。
その姿のまま、祖母がお風呂に入っている間に勉強を済ませた。
昔から頑張り屋だった花は、学校の勉強も頑張っていて、成績も良かった。勉強ができる子供には東京都から就学奨励金が出て、実質、学費は只だった。それを受け続けるためにも勉強を頑張る必要があるのだ。
勉強が終わると、やっと就寝前の自由時間。
と言っても、パソコンも携帯もテレビゲームも持っていない花の楽しみは、図書館で借りてきた本を読むことだ。特に、シンデレラのようなハッピーエンドを迎える恋物語がお気に入りだった。
いつかは自分の前にも白馬に乗った王子様が現れて、夢の世界に連れて行ってくれる!
せめて、そんな夢を見たかった。
「そういえば」
さっきの無精髭男は、自分のことを「白馬に乗った王子様」と妄言を吐いたが、カエルの王子様のように、みすぼらしい格好に身をやつしているが、本当は王子様だったのだろうか?
花は、「可愛い」と言われたことを思い出して、一人、顔を赤くした。
今まで、誰にも言われたことがない台詞だった。そして、それを言ってくれた時の無精髭男の笑顔に、なぜか惹き付けられた。
無精髭男といると、あの少し怖い黒服の連中ももれなく一緒についてくると思われたが、花は、もう一度、無精髭男に会ってみたいという気持ちになっている自分に気がついた。
「初めて『可愛い』って言われて、何、舞い上がってるのよ、私!」
花は、両手でほっぺをピシャピシャと叩いて、無精髭男の残像を脳裏から叩き出した。
祖母が風呂から上がると、花と同じトリートメントを付けてから、二人して布団を並べて敷き、横になった。
今日も昨日と同じ一日が過ぎようとしていた。あの無精髭男のことを除いて。
「お婆ちゃん」
「何だい?」
「実はね」
花は、ひったくりに遭ったこと、そして、見知らぬ男性がそのひったくりを取り押さえてくれて、バイト代が無事だったところまでを話した。
さすがに、ヤクザに絡まれたことまで話すと、祖母が余計な心配をするといけないから、話すのを止めた。
「そうかい。でも、そんな正義の味方がいてくれて良かったねえ」
「うん! でも、見た目は浮浪者みたいで、ちょっと怖かったけど」
「人を見た目で判断しちゃ駄目だよ」
「それは分かってるけど……。だよね。あの人には、もう会えないかもしれないけど、夢の中で謝っておくね」
「そうしておきな。じゃあ、そろそろ寝ようか?」
「うん! おやすみなさい」
「おやすみ」
寝ていても手が届くように蛍光灯から吊した長い紐を祖母が引いて、部屋の電気を消した。
翌朝。
二人揃っての朝御飯。
祖母の楽しみでもある、某国営放送のニュースを見ながら、花は、大好きな味である、祖母が作った朝食を美味しく食べた。
「では、次のニュースです」
アナウンサーが眉間にしわを寄せながらニュースを伝えた。
「指定暴力団稲山会の幹部とみられる男性の死体が奥多摩の山中で見つかり、警察では、最近、激化している風月会との抗争によるものではないかと見ています」
「嫌だねえ。一般市民に迷惑が掛からなければ良いんだけどねえ」
祖母がぽつりと呟いた。
花は、「稲山会」という名前に聞き覚えがあった。
昨日、無精髭男と花を襲って来たチンピラのボスに向かって、無精髭男は「稲山会」と言った。そして、その幹部の死体が見つかったとのニュース。
(まさかね)
無精髭男の穏やかな笑顔を思い出した花は、頭を振って、不安な気持ちを振り払った。
「行ってきまーす!」
祖母に元気に挨拶をしてから、自宅の玄関を飛び出した花は、学校に向かった。
濃紺のブレザーに赤いリボンという、昔ながらの制服姿で、スカートも校則どおりに膝丈。入学と同時に買ったが、スカートの裾の位置が変わっていないのは、高校に入ってから、まったく身長が伸びていないからだ。
制服を買い換えることだけでも、花にとっては大きな負担だっただけに、成長ホルモンも自分の境遇が分かってくれていたようだ。
少し奥まった所にあるアパートから公道に出るための私道に、この辺りでは見たことがないスポーツカーが停まっていた。
精悍そうに見える黒いボディは低く、車のことを全然知らない花も格好良いと思うシルエットだった。
運転席に人が座っているのが見えたが、ジロジロと見つめるのもはばかられた花は、逆に不自然なほど視線をそらせながら、その車の横を通り過ぎた。
車のドアが開く音がした。
学校で、車に乗った変質者が出没しているとの情報を聞いていた花は、少し怖くなって、少し歩を速めた。
「花ちゃん」
思いも掛けず、名前を呼ばれた花は、立ち止まって、振り向いた。
スポーツカーから出て来たのは、綺麗にカットされた髪に、長身を仕立ての良いスーツをまとった男性で、その体の周りにキラキラと星が輝いて見えるほどのイケメンだった。
(王子様?)
まさに、そう呼んでもおかしくない、素敵な男性だった。
「でも、……誰?」