第三十二話 殺戮の残影
暦は七月の下旬。
夏休みまであと数日という、とある日の放課後。
花は、みどりと青葉とともに並んで校舎を出た。
みどりが機関銃のごとく話を浴びせかけ、相打ちを打ちつつも花もときどき一緒になってはしゃぎ、その二人をニコニコと微笑みながら青葉がついていく、いつもの三人の姿であった。
ふと、青葉が足を止めた。
「どうしたの、青葉ちゃん?」
「い、いえ。申し訳ありません。ちょっと買い物をする用事を思い出したので、ここで失礼します」
「買い物? 私たちも一緒に行こうか?」
まっすぐ帰りたくないのか、みどりが目を輝かせた。
「いえ。今日は一人で」
「え~、そうなの~」
「一人でゆっくりと選びたい時だってあるよ。青葉ちゃん、じゃあ、また明日ね!」と花が、残念そうな顔のみどりの横で青葉に手を振った。
「はい。失礼します」
花とみどりの二人の背中を見えなくなるまで見送った青葉は、それまでの温和な女子高生の表情を険しく変え、ある一点をにらみながら、そこに向けて歩いて行った。
狭い路地に入り込んだ青葉の先に二人の男がいた。
二人とも第二ボタンまで開けた派手なアロハシャツの首筋からは鮮やかな絵柄が見えており、どこからどう見ても堅気な商売をしている者とは思えない中年の男どもであった。
「何の用だい?」
「久しぶりだな、青葉。俺らの前から消えたと思ったら、女子高生になりすましてやがるとはな。いったい何をやっているんだ?」
「うるさいね、あんたらには関係はないだろ。それより私の問いに答えなよ。用がないのなら帰らせてもらうよ」
「用はあるよ。おやっさんからの指令はどうした?」
「おやっさん? 誰のことだい?」
「総長だ!」
「ああ、五代目とか名乗っている奴か」
「何だ、その口の利き方は!」
「私は、その五代目総長とは話をしたこともないし、そもそも総長だと認めているわけでもないよ」
「何だと!」
「あんたらが言う『おやっさん』には、私は一切、恩を受けた覚えはない。私が忠誠を誓ったのは、三代目の総長だけだよ」
「その三代目総長の命を奪いやがったのは風月会とそのバックについているフェニックス・シンジケートだと知っているだろうが?」
「もちろん」
「だったら、その恨みをなぜ晴らそうとしない?」
「恨みを晴らす?」
「おやっさんからの命令を忘れたのか?」
「爆弾を抱えて、飛鳥のお屋敷に飛び込めっていう命令かい?」
「そうだ」
「その命令ならその場で断ったはずだよ」
「おやっさんからの命令を断れると思っているのか?」
「あんたら、誤解をしているようだね。まあ、あんたらほどの小物なら知らなくて当然だけどね」
「何?」
「私はね、稲山会の構成員じゃないんだ。いわば契約社員さ」
「契約社員?」
「そうさ。総長や幹部たちから直々に仕事を請け負って、成功報酬をもらっていたのさ。そして、その契約も三代目自らが解約してくれたんだ」
「嘘を吐くな!」
「私はね、三代目の臨終の場にいたんだ。あんたらなど入れてもらえる身分じゃなかっただろうけどね」
稲山会三代目総長は、東京の覇権を掛けて血で血を洗う激しい抗争を続けていた風月会の攻撃によって三か月前に大けがをし、それが元で死亡した。
また、稲山会本部へのヘリ墜落という想定外の攻撃でその後に続くべき幹部もほとんどがいなくなった。三代目子飼いの幹部であった四代目もその際に亡くなった。
その結果、その当時には二流三流のヤクザだった者たちが今では稲山会の幹部となっていた。目の前の二人の男がいう「おやっさん」こと五代目総長もそんな一人だ。
青葉からすれば、可愛がってくれた三代目総長や当時の幹部たちとは比べものにならない小物でしかなかった。
「三代目はこう言った。稲山会はもう終わりだ。おまえとの契約は解除する。どこにでも良いから行くんだ。もうおまえの忠義は十分に見届けた……とね」
「そんな話は初耳だ。おまえの創作か?」
「その場には三代目と私しかいなかったからね。嘘だと思うのなら、それでも良いさ。しかし、今の私には従いたいと思う稲山会の幹部は誰もいないよ」
「てめえ、裏切りやがったな」
「だから何度も言わさないでくれないか。私と稲山会との関係は契約関係であって、その契約も三代目自ら切ってくれたんだ。今の稲山会の幹部たちからの命令に従う義理も義務もないんだよ」
「おやっさんの命令に従わないことは、れっきとした裏切りだ!」
話が通じないチンピラどもに、さすがの青葉もうんざりしていた。
「他に用がないのなら、私の前から消えてくれないか?」
「消えるのは、てめえの方だ」
チンピラ二人が消音器付きの拳銃を背広の内ポケットから取り出し、青葉に向けた。
しかし、次の瞬間!
青葉がどこからか取り出した小さなナイフが二人の拳銃を弾き落とし、そのわずかな間に一人の背後に回った青葉がその男の首筋にナイフを突きつけた。
「あなたら、頸動脈を切ったこと、あるかい?」
「……」
「噴水のように血が噴き出すよ。見てみるかい?」
ナイフを突きつけられた男の歯がガチガチと鳴っているのが分かった。もう一人の男も何もできないようで、一人で逃げてしまいそうな雰囲気であった。
二人のチンピラは、修羅場をいくつもくぐり抜けてきた青葉の敵では、所詮、なかった。
馬鹿馬鹿しくなった青葉は、ナイフを首からはずし、その男の背中を思い切り蹴った。
もう一人の男とぶつかったその男は二人して地べたに転がり、恐怖の眼差しで青葉を仰ぎ見た。
「私も最近、やさしくなってね。むやみやたらと人は殺さないようになっているんだよ。良かったね、命拾いして」
青葉は二人のチンピラに軽蔑の眼差しを投げてからきびすを返し、後ろも振り向かずにその場から去って行った。
数メートル歩いてから、青葉は立ち止まった。
振り向いてみると、既にチンピラ二人はいなかったが、不安感がわき上がってきた。
「もしかして……」
先ほどのチンピラどもは、青葉が花やみどりと一緒に下校していたところで見つけた。
花やみどりを巻き込みたくなかった青葉は、二人と別れてからチンピラどもと話をしたのだが、チンピラどもには花とみどりも見られている可能性がある。
花が飛鳥財閥次期総帥の妻だとはさすがに知らないだろうが、青葉の友人として利用される恐れがある。つまり、一対一では絶対に敵わない青葉に対して、花かみどりかを青葉に対する人質、あるいは人の盾として利用してくる可能性がある。統制の取れていない今の稲山会では、女子高生であろうと巻き込んでくるかもしれない。
二人のことが、特に花のことが急に心配になった青葉は、すぐにスマホを取り出し、フェニックス・シンジケートの攻撃部隊の長である亀谷に電話を掛けた。
「大樹さん、どうぞ」
寝室とつながっている大きなリビングのソファに座った大樹の前のテーブルに、花が紅茶を置いた。
大樹は海外高級ブランドのティーカップを持ち、優雅にひとくち口に含んだ。
「どうかな?」
「うん。おいしい」
「本当? やった!」
花は、メイド長の有栖川の淹れる紅茶が大好きだという大樹のために、有栖川に教えを請うて、その紅茶の作り方について教わっていたのだ。
「花は何でも一生懸命だね?」
「生まれついての貧乏性はもうなくならないのかも」
「貧乏性というとイメージが悪くなっちゃうけど、積極的とか常に前向きとかってことだよ」
「だって、お仕事で忙しい大樹さんの癒やしになることをいっぱいしてあげたいの」
「僕はこうやって花と話していることが癒やしだよ」
「そう言ってくれると、私もうれしい」
「花。こっちにおいで」
応接セットで向かい合って座っていた花を大樹が呼んだ。
大きいサイズの一人掛けのソファに座っていた大樹の隣に腰を割り込ませるようにして座った花の肩を大樹がやさしく抱いてくれた。
「もう結婚して一か月以上経つね」
「うん」
「どう?」
「どうって?」
「この家での生活とか、学校とか、僕と一緒にいるようになって気づいたところとか?」
「全部、新鮮だし、すごく楽しい! こんなに幸せで良いのかなって、ちょっと怖いくらい」
「僕もだよ。花に出会えて、本当にラッキーだよ」
「大樹さん」
「花」
二人の唇が近づいてきた。
それを邪魔するかのように内線電話の呼び出し音が鳴った。
「やれやれ、誰かな?」
「うふふ、出ますね」
ソファから立ち、部屋の入り口付近の壁に取り付けられている内線電話の受話器を取った。
「はい、花です」
「瀬場でございます」
昼間は直接部屋まで用件を伝えに来る瀬場などの使用人も、夜は主人のプライバシーを大切にするために直接には来ずに、内線を掛けてくることがほとんどであった。
「若旦那様に亀谷が至急会いたいと来ており、執務室にお通ししております」
「分かりました。大樹さんに伝えます」
花も亀谷の人間性は嫌いではないのだが、フェニックス・シンジケートの護衛隊長と紹介されている亀谷が大樹に伝える話は楽しい話ではないと直感的に思っていて、できれば、あまり大樹と会ってほしくはなかった。
「大樹さん、亀谷さんが執務室に来ているそうです」
「こんな時間に? 分かった」
大樹もソファから立ち上がり、「続きは後でね」と花に軽くキスをして部屋から出て行った。
危険な話ではないことを祈る花であった。




