第十九話 ずっと一緒に
花と大樹が婚姻届を出した週の土曜日。
港区にある小さな教会。
入り口が閉められたその教会の周囲には、黒服たちが目立たないように警戒をしていた。
そしてその中の礼拝堂では、正装をした昌樹と竜子、そして春が祭壇に向かって木製の長椅子に座っていた。
荘厳なパイプオルガンの調べが響きだし、礼拝堂のドアが開くと、白いタキシード姿の大樹と大樹の腕に手を添えた純白のウェディングドレス姿の花が、祭壇に向かって赤い絨毯が敷かれたヴァージンロードをゆっくりと歩み出した。
大樹の後ろには瀬場が、花の後ろにはベールのすそを持った有栖川が、介添えとして暖かな眼差しを大樹と花に注ぎながらついてきていた。
祭壇の前に立った牧師の前で立ち止まった大樹と花に、牧師が誓いの言葉を手向けた。
「飛鳥大樹! 汝、野原花を妻とし、健やかなる時も病める時も、喜びの時も悲しみの時も、富める時も貧しき時も、これを愛し、敬い、慰め合い、ともに助け合い、その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?」
「誓います」
大樹がはっきりと誓った。
「野原花! 汝、飛鳥大樹を夫とし、健やかなる時も病める時も、喜びの時も悲しみの時も、富める時も貧しき時も、これを愛し、敬い、慰め合い、ともに助け合い、その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?」
「……誓います」
涙ぐんでいた花も、気持ちを落ちつかせてから、はっきりと誓った。
そして、指輪を交換した後、花のベールを上げた大樹が、花の唇に軽くキスをした。
結婚式も無事、終わり、自宅に戻った飛鳥家の面々は、身内だけの披露宴を兼ねた夕食会を始めた。
いつもは別居している春も参加して、第二食堂は華やかな雰囲気に包まれていた。
「花ちゃんの花嫁姿、ほんと、可愛かったわねえ」
「さすがの竜子さんも涙ぐんでいたね」
「鬼の目にも涙だって言いたいんでしょ?」
「そ、そんなこと、心にも思ってもいないよ」
同い年でお互いを「さん付け」で呼び合う昌樹と竜子は、大学生時代に同棲していた当時の雰囲気のままで、その仲睦まじさは、花も見習わなくてはと、いつも思うくらいだった。
また、普段は、こういうセレブな生活とは無縁の生活をしている春も、昔は飛鳥財閥総帥夫人としての活動をしていたはずで、正装をしたその姿には、どこか気品が感じられた。
前菜が運ばれてきた。
今日はフランス料理のフルコースで、厨房の大山と小島も気合いが入っているようだった。
花にとっては初めてのフランス料理だったが、花は、大樹にナイフとフォークの使い方を教わりながら、美味しく料理を堪能することができた。
宴会の最後には、執事の瀬場、メイド長の有栖川とメイド三名、調理師の大山と小島、スタイリスト兼衣装管理係の越野ら使用人も参加しての無礼講となった。
みんなと打ち解けて話をして、新しい情報も入ってきた。
瀬場と有栖川は、昔、恋仲だったようだが、二人とも今の職務に専念したいとして、一緒になることはなく、したがって、二人とも独身であること。
その有栖川は「不謹慎ではありますが、昔は、坊ちゃまと呼んでいた若旦那様が、私の息子のようなものです」とうれしそうに話した。
調理師の大山は、もともとは銀座の老舗割烹で下っ端の料理人をしていたが、先代の朋樹がふざけて、春と一緒にみすぼらしい格好をして来店した時に、二人を見下した料理長から「お前が作れ」と名指しされて作った料理の味を朋樹から認められて、飛鳥家の厨房長に抜擢されたとのこと。そのため、大山にとって、春は大恩人であること。
大山の弟子の小島は、その割烹に入りたての調理人の卵だったが、慕っていた大山の呼び掛けに応じて、飛鳥家に来たこと。
スタイリストの越野は、芸能人を相手にしていたスタイリストであったが、採寸や衣装決めの時に、タレントからぐだぐだと聞かされる愚痴や同じタレント仲間の悪口に辟易していて、竜子の学生時代の友人であったスタイリストから紹介を受けて、飛鳥家専属になったこと。
三人のメイドも、厳しい有栖川の指導をくぐり抜けてきただけに、二十歳台の若い女性であったが、無礼講にもかからわず、礼を失することはなかった。
雇い主と使用人という間柄であるが、飛鳥家の人間は、けっして「下の者」というふうに使用人を見ておらず、使用人たちも自らの仕事に誇りを持ち、長い勤務歴を持つ瀬場と有栖川に至っては、昌樹や竜子に意見をすることもあるという。
花は、この家にいることの心地よさを感じて、大樹の嫁になれたことを、あらためて運命の神様に感謝をするのだった。
盛り上がった披露宴も終わり、花は大樹とともに自分たちの居住スペースに戻った。
「朝から、式の準備とかあって、疲れただろ?」
大樹のねぎらいの言葉に、花は元気に首を振った。
「ううん。家族はもちろん、瀬場さんたちとも仲良くなれて、すごく楽しかった! こんなに幸せになって、ちょっと怖いくらいです」
花の言葉を聞いて、大樹が花を抱きしめた。
「花が心配することは何もないよ。僕がもっともっと花を幸せにするから」
「大樹さん……」
「ああ、そうだ」
何かを思い出したかのように、花を離した大樹が「ちょっと、待ってて」と部屋を出て行き、すぐに戻って来た。
大樹は、一枚のカードを花に差し出した。
「これを花にあげるよ」
「これは?」
「電子マネー機能が付いたクレジットカードだよ」
「クレジットカードなんて、私、使ったことないし、これからも使うことはないかな」
「まあ、いざという時のために持っておきなよ」
「いざという時のため?」
「ああ。ちなみにこのカードの利用最大限度額は一億円だから」
「……はい?」
「花の口座を新しく作って、そこから引き落とされることになっているんだけど、口座自体にも十億円を入れている。それは、花が自由に使って良いお金だよ」
「……じゅ、十億円?」
「そうだよ」
「えっと、そもそも、そんなお金、何に使うんですか?」
「普通の女子高生としてのお小遣いで困ることはないと思うから、無理に使う必要もないよ」
「あ、あの、そんなすごいカード、落としたら大変だから持っていると怖いです」
「怖がる必要はないよ。十億円を誰かに騙し取られたとしても、うちの家計からすると、大した損失ではないから」
「な、何か目眩がしてきたんですけど」
「まあ、普段は使うこともないだろうし、家に置いていても良いよ」
「そうします」
「それと、お金以外のことで困ったことがあれば、瀬場に連絡をすると良い。僕や父さんは仕事中で対応できないことが多いけど、瀬場はいつも家にいるし、父さんや僕の名代として、動くこともできるからね」
そう言うと、大樹はスマホを差し出した。
「これは、花の携帯だよ。僕の携帯番号はもちろん、家族や家の番号も入れている。瀬場が持っている携帯の番号も入れているから、さっき言ったように、瀬場に連絡をするには、これで連絡をすれば良いよ」
以前、ガラケーだったが大樹から携帯をもらっていて、それまで携帯を持ってなかった花も少しはその操作方法が分かるようになっていた。
「明後日からは、花は学校に行くし、僕も仕事がある。平日の昼間は別々に行動することになるし、僕は夜も残業をしなければいけない時もある。いろんな、おつきあいもあるしね」
「大樹さん、お仕事を頑張らなければいけないことは分かってますけど、無理はしないでくださいね」
「分かっているよ。こんな幸せはずっと味わっていたいから、勝手にいなくなって、花を一人にしないよ」
「そんな話、しないでください!」
祖母を亡くしたばかりの花にとって、大樹がいない世界なんて考えたくなくて、つい大声を出してしまった。
しかし、大樹は穏やかな顔で花を呼んだ。
「花」
「はい」
「花のお婆さんが入院した時、花も心細かったでしょ?」
「……はい」
「人の運命は分からない。花の気持ちはうれしいけど、僕だって、誰かに襲われるということの他にも、交通事故とか病気とかで、寿命まで生きられるという保証はできないんだ。神様じゃないんだからね。でも、そういうもしもの時にも大好きな花が戸惑わないようにしておくことも夫の責務だと思ってる。花は考えたくないことかもしれないけど、夫婦になった以上は、考えておくべきことなんだ」
「……」
「でも、これだけは言っておくよ。花に黙って、いなくならない。僕が天国に行けるのかどうか分からないけど、行く時は、ちゃんと花に挨拶をして行くから」
「大樹さん……」
「できれば、百歳まで生きて、九十二歳の花に看取られるようにするよ」
「絶対にそうしてください、大樹さん!」
「できるだけ、そうするよ。それで納得してよ」
「……分かりました。それが、夫婦なんですよね?」
「そういうこと。これから、一生、花と一緒に暮らすんだ。楽しく、そしてできるだけ長く、一緒にいようね」
「はい」
大樹に出会って、花の人生は大きく変わった。
しかし、大樹が好きになってくれた、今までのままの自分でこれからもいようと、花は誓ったのだった。




