第十六話 夫婦になるということ
飛鳥家に来た初日は、まだ正式に結婚していないからと大樹の部屋には入らずに、来客用の部屋で、花は泊まった。
初めての部屋でなかなか寝付けなかったが、天蓋付きのベッドは寝心地も良く、起きた時には、熟睡できている気がした。
その部屋専用の洗面台やシャワー室、トイレもあり、身支度を調えた花は、ドレッサーの中から、昨日、大至急で作られた白いワンピースを取り出して、身につけた。採寸して作られたオーダーメイド品だけにジャストフィットだった。
花が姿見の前でおかしなところはないかチェックしていると、ドアがノックされた。
「はい」
花が返事をすると、ノーネクタイにカジュアルなジャケットという服装の大樹が入って来た。
「おはよう、花ちゃん。よく眠れたかい?」
「はい」
「その服、よく似合ってるよ」
「あ、ありがとうございます」
「それで、早速だけど、ここにサインをくれるかな」
並んでソファに座った大樹が一枚の紙を花に差し出した。
婚姻届だった。
大樹の署名押印は既にされていて、花の署名押印欄だけが空欄になっていた。
「花ちゃんの戸籍が必要だったんだけど、昨日、瀬場が取ってきてくれたんだ」
花は自分の戸籍を初めて見た。死んでいる父と母の記載は消されていて、花がひとりぽっちの戸籍だった。
「結婚をすると、僕と花ちゃん二人だけの戸籍が作られるんだ。これを出すと、本当に僕達は夫婦になるんだよ」
「はい」
花は婚姻届にしっかりと自分の名前を書き、大樹が用意してくれた「野原」という印鑑を押した。
「花ちゃんは、今日から『飛鳥花』だよ」
「飛鳥……花……」
「すぐには実感はわかないかもしれないけどね」
「でも、すごくうれしいです」
大樹とその両親とともに食堂で朝食を食べた後、大樹のスポーツカーですぐ近くにある区役所に出掛けた。
今日は水曜日だったが、大安ということで、戸籍係の窓口にも多くの人が順番待ちをしていた。
花と大樹の順番になり、二人揃って、婚姻届を窓口に提出すると、担当係の女性が「少しお待ちください」と言って書類を受け取った。
女性はしばらく書類のチェックをしていたが、顔を上げると「これで受理します。結婚おめでとうございます」と笑顔で言ってくれた。
このときから、野原花は飛鳥花になったのだ。
憧れのジューンブライドで結婚できて、花は感激し、少し涙ぐんでしまった。
そんな花に大樹がやさしく微笑んだ。
「今日、六月四日は僕達の結婚記念日だよ。これから、ずっと六月四日にはお祝いをしよう」
「はい! 十年後も、二十年後もしたいです!」
「できるよ」
大樹の優しい笑顔を見ていると、絶対にできると、花も確信をした。
それから区役所のあちこちの部署で健康保険や年金といった手続を済ませた後、区役所の駐車場に車を停めたまま、歩いて、来週から花が行くことになる高校に向かった。
都心にあるだけに、その校舎は六階建てのビルになっていて、校庭も校舎の屋上にあった。
「ここはね、けっこう上流家庭の女性が通っているお嬢様学校なんだ。エスカレーター式に行ける女子大もあって、花ちゃんが高校を卒業して、僕の奥さんだと公表した時に、何人かの友人もそのまま残っていてくれるはずだよ」
将来は、飛鳥家総帥夫人として、いろんな活動をすることになるだろう。そのためには、お嬢様学校で社交儀礼のマナーを身につけておく方が良いし、大学にも行っておく方が良いに決まっている。
「今朝、早速、母さんから校長先生に電話をしてくれて、花ちゃんが僕と結婚していることを秘密にしてほしいってお願いをしたら、快諾をしてくれたんだよ」
大樹と一緒に一階にある校長室を訪れると、校長は平身低頭して大樹と花を出迎えてくれた。
校長は気が弱そうな小柄な男性で、本当に快諾してくれたのだろうかと少し疑問がわいたが、学校としても、既に結婚している生徒がいることをおおっぴらにしたくはないだろう。
一学年六クラスある中で、花は三年三組に編入されることになり、来週の月曜日から登校することになった。
その後、銀座に出た二人は、ふらりとある宝石店に入った。
こんな店には入ったことがない花は、その雰囲気だけで緊張してしまった。
「いらっしゃいませ!」
満面の笑みの女性店員が二人の前にやって来た。
「こんにちは。今日は彼女とのペアリングを作りたいんだ」
大樹と花が結婚をしたことは、当面、秘密にするため、この店はこれまで飛鳥家が取引をしたことがない店のようで、大樹と花は通りすがりに入ったカップルにしか見えなかったはずだ。
「ありがとうございます。どのようなデザインがお望みでしょうか?」
「ちょっと見させてもらっても良いかな」
「はい。どうぞ、ごゆっくり」
女性が後ろに下がると、大樹は花を陳列棚の前に連れて行った。
花は、そこに陳列されている指輪に付けられた値札のゼロの数を見ただけで目眩がしてきた。
「花ちゃんが気に入ったデザインにしよう」
「私、もう体が震えてしまって……」
「ははは。そうだなあ。これなんかはどう?」
大樹が示したのは幅広な輪の中にぐるりと一周、ダイヤがはめられている指輪だった。
「何度も謝らなきゃいけないけど、お互いに結婚指輪をして外に出るわけにいかないから、将来はお互いの左手薬指にはめるとして、今はこれをペンダントにして身につけようと思ってるんだ」
確かに、こんな豪華な指輪をはめた高校生など見たことはない。しかし、チェーンを通してペンダントにすれば、いつも身につけていられる。
とはいっても、ダイヤが山のように埋め込まれているこの指輪は、花には実際の重量的にも心の負担的にも重く感じられた。
「大樹さん、他にも見ても良いですか?」
「もちろん」
大樹とゆっくりと店内の展示ケースを眺めて回った花は、どちらかというとお手頃価格な商品のコーナーで足を止めた。
「私、これが良いです」
それは、プラチナのリングで、星をかたどった飾りが付いているカジュアルなデザインのリングで、値段もゼロが四つしか付いていないものだった。
「私、あまりに高いものを身に付けていると、たぶん気になって仕方ないと思うんです。これも私からすれば、すごく高いですけど、何か月かアルバイト代を貯めれば、私にも買えるくらいで、もし無くしても、落ち込む度合いが小さいと思うんです。あっ、でも、無くすことが前提じゃないですから!」
「そうだね」
大樹がうれしそうにうなずいた。
「それに、このデザインが可愛いです」
「分かった。結婚式用の指輪はさっきの物にして、普段、身につけているのは、これにしよう」
大樹が店員を呼ぶと、花が選んだ指輪をペンダントにしてほしいと告げた。
「今度の土曜日までにできるかな?」
「はい、大丈夫でございます」
不慣れな手続を朝からずっと続けていて、花も少し疲れてしまい、帰りの車の助手席でうとうととしてしまった。
ハッと気づくと、運転中の大樹が優しい表情で花を横目で見ていた。
「ごめんなさい! 居眠りしちゃって」
「花ちゃんの寝顔を初めて見たけど、すごく可愛かったよ。思わず運転するのを忘れるくらいだった」
「そ、そんな」
「そんな可愛い花ちゃんの寝顔を、これから、ずっと見ることができるなんて、僕は本当に幸せだよ」
大樹の言葉で、花は途端に緊張してしまった。
(今まで考えなかったけど、結婚したということは、その、何と言うか、同じ部屋で寝て、男と女の関係になるというか……、いやいや、結婚したんだから、そうならないとおかしいというか……)
「どうしたの?」
「な、何でもないです!」
挙動不審に陥っていた花は、妄想を振り切るように頭を振った。
家に帰り着くと、大樹と花は、両親の部屋を訪ねた。
「父さん、母さん。僕達は晴れて夫婦になったよ」
「おめでとう! 大樹! 花さん!」
「ありがとうございます! それで、ふ、不束者ですが、末永くよろしくお願いします!」
花は、昌樹と竜子に深くお辞儀をした。
「こちらこそ、よろしくね。昌樹さんだって、将来、私が先に逝った後に、寝たきりになったら、花ちゃんのお世話になるかもしれないんだから、ちゃんとお願いしておきなさいな」
「人を勝手に寝たきり老人にしないでくれるかな」
まるで、ボケの女房とツッコミの旦那の夫婦漫才のような昌樹と竜子だったが、それは、お互いに言えることが言える間柄だということだ。
「花さん。明日の夕食には、私の母親も呼んでいるから、一緒に食べよう」
「そうね。プレ披露宴と言ったところかしら」
昌樹の母親、つまり大樹の祖母は第二代総帥夫人ということになるが、どうやらこの建物には住んでいないようだ。
「お婆さんは、護衛が鬱陶しいとか言って、ここから少し離れた家で、一人で暮らしているんだよ。花ちゃんもこれから世話になるから、明日の昼間には、こっちから挨拶に行っておこうか?」
「はい!」
花は大樹の部屋に入った。
部屋というより、その一画が花と大樹の新居ということだ。
「僕も家で仕事をすることがあるし、花ちゃんも学校の勉強をしなければならないだろうから、二人の個室もあるんだ」
個室には、それぞれ大きな机が置かれていた。
「一応、食堂と専用の台所もあるから、明日から花ちゃんの手料理を堪能させてもらうよ」
「が、頑張ります」
「材料は、今日のうちに大山に言っておくと揃えていてくれるよ。この内線電話で伝えたら良いよ」
「分かりました」
大樹が次のドアを開けた。
「ここがお風呂、その隣がトイレ、それからここが」
大樹が一番奥のドアを開くと、大きなベッドがどーんと置いてある寝室だった。
「……」
花が緊張しているのが、大樹にも分かったようだ。
「花ちゃん」
大樹が後ろから花を抱きしめた。
「僕の奥さんになってくれてありがとう」
「いえ。私こそありがとうございます。私、すごく幸せです。夢じゃないんですよね?」
体を離した大樹が、花の体を回すようにして、花を正面向けると、優しくキスをした。
「夢じゃないよ。キスをしても目が覚めないだろう?」
「そうですね」
大樹は、もう一度、やさしくキスをした。
「今まで、ちゃん付けで呼んでいたけど、呼び捨てにしても良いかな? ちゃん付けだと恋人みたいで、それはそれで良いけど、夫婦なら呼び捨てが良いかなって、勝手に思ったんだけど?」
「もちろんです。だって、大樹さんは年上だし、私の大好きな旦那様ですから」
「うん。ありがとう」
もう一度キスを交わすと、大樹は花を抱きしめたまま、「花」と呼んだ。
「はい」
「大好きだよ、花」
「私もです、大樹さん」
「花が欲しい。花の全部が欲しい」
「……はい」
二人は抱き合ったまま、ゆっくりとベッドに倒れた。




