第十話 大切な人を守る決意
祖母の容態も安定してきて、精密検査の結果でも脳の血流に問題は見当たらず、少し記憶障害は出ているが普段の生活にはまったく支障がないと診断されたことから、退院した祖母が約一か月ぶりに自宅に戻ってきた。
もう暦は五月の中旬になっていて、気持ちの良い空が広がっていた。
「やっぱり、うちは良いねえ」
「だよね。お婆ちゃん、荷物、ここに置くね」
「ああ、ありがとう」
「それでね、お婆ちゃん」
「何だい?」
「これ」
花が祖母に手渡したのは、いわゆるガラケーだった。
「携帯電話かい?」
「うん。私がいつもお世話になっている大樹さん、じゃなくて、飛鳥さんが、私が家に居る時にお婆ちゃんの体調が悪くなるとは限らないからって、私とお婆ちゃんと二人分の携帯を買ってくれたの」
「これ、私の携帯なのかい?」
「そうだよ。少しでも体調が悪いなって思ったら、私が学校に行っている時でも、バイトをしている時でも、いつでも連絡をして! 私、すぐに家に戻るから」
「分かったよ。でも、その飛鳥さんには、本当にお世話になっているんだねえ。この携帯代だって、馬鹿にならないだろう?」
大金持ちの大樹からすればどうということはないが、花や祖母の感覚からいうと、高額の支援を受けたようなものだった。
「うん。でも、私もお婆ちゃんといつも連絡が取れるようにしたかったから。飛鳥さんには、ちゃんとお返しするって約束もしているし」
「そうかい。飛鳥さんに、ぜひ、うちに来てくれるように言っておくれ。何もできないけど、うちでできる精一杯の感謝の気持ちは表したいからね」
「うん! そうだね」
花のアパートが見える場所、周りからは死角になっているような所に、二人の男がその身を隠すようにして立っていた。
「最近は見当たらないようですが、少し前に、この辺りで飛鳥の息子を見たという情報を得ています。最終的に、どこに行っているのかまでは分かっていませんが、奴の派手なスポーツカーは目立ちますからな」
「しかし、この辺りには飛鳥の跡取りが通うような家は見当たらないが?」
確かに、花のアパートの周りには、日本一の大金持ちとされる飛鳥家の嫡男が出入りするような家は見当たらなかった。
「もしかすると、フェニックス・シンジケートのアジトがあるのではと疑っています」
「なるほど。こんなゴミゴミとした場所にあれば、確かに、ばれにくい。しかし、アジトの正確な場所が分からなければ、奇襲を掛けることもできないではないか?」
「この辺り一帯をまとめて攻撃するしかないでしょう」
「そんな派手なことをして大丈夫か?」
「飛鳥の包囲網は、着実に狭まっています。我々に残された時間は、もう、多くありません。殺らなければ殺られるだけです。今となっては、相手にダメージを与える攻撃を無差別に起こすしか仕方がないのです」
「それはそうだが、足が付いては、かえって親父さんに迷惑を掛けることになってしまうぞ」
「抜かりはありません。この辺りは古い建物が多い。ガス管もかなり老朽化しているはずです。そこに仕掛けを用意しておきます。今まで誰にもばれたことがない仕掛けです」
二人の男には、追い詰められた者に特有の、死を恐れる感覚が麻痺している様子が見え隠れしていた。
飛鳥総合企画本社ビル。
地下一階には飲食店街、地下二階と三階は駐車場になっているが、地下四階があることは、どこにも表示されておらず、エレベーターにも地下三階までしか表示がなかった。
しかし、一人でエレベーターに乗った大樹がエレベーターの階数ボタンを一定の法則に基づいて押すと、エレベーターは地下四階まで直行で下がった。
ドアが開くと、すぐに鋼鉄製のドアがあったが、そこも大樹が首からぶら下げている社員証をかざすと解錠され、自動でドアが左右に開いた。
中には、黒服の屈強な男が二人、門番のように立っていた。
そこは、飛鳥財閥直属のギャング団「フェニックス・シンジケート」の本部だった。
「お疲れ様です」
その男二人が、大樹に最敬礼をした。
「亀と鶴はいるか?」
「先ほどからお待ちです」
「分かった」
大樹は、廊下をまっすぐに進み、いくつかのドアの前を素通りして、突き当たりのドアを開けた。そこは、二十五階にある大樹の執務室と同じように立派な執務机と豪華な応接セットがある役員室のような作りの部屋であった。
大樹がその部屋に入ると、応接セットに座っていた二人の男がすぐに立ち上がった。
一人は、大樹が花と一緒にチンピラに襲われた時に助けに来た「亀」こと「亀谷」だ。背はそれほど高くないが、恰幅がよく、顔も強面だった。
もう一人は、フェニックス・シンジケートのメンバーでもほとんどの者が顔を見たことがないという、影の存在である「鶴」こと「鶴屋」という男で、亀谷とは対照的に痩せて背が高い男性で、生気のない顔は少し不気味だった。
「ごくろうさま。座ってくれ」
大樹が執務机に座ると、亀と鶴もその前のソファに腰掛けた。
「鶴。その後の稲山会の動きは?」
「表向きは恭順の姿勢を示していますが、あの狸親父がすんなりと負けを認めるとは思えません」
抑揚が少ない話し方で、鶴が報告をした。
「何か不審な動きでもあるのか?」
「はい。最強硬派である若頭の遠藤が配下の若い者を盛んに動かしています。どうやら、ドンの動きを探っているようです」
「僕の動き?」
「また、ドンが一人の時を狙って襲撃をする計画なのかもしれません」
大樹が仕事の都合でタクシーで移動中に、跡をつけてきた車と、いきなり前方から現れた車に挟まれ、身動きできなくなり、銃を持った稲山会のチンピラどもにタクシーから引きずり出された。携帯電話と財布を奪われた上、車で拉致されそうになったが、一瞬の隙を突いて逃げたのが、大樹が花と初めて会った日の四日前。
大樹は、どこにも連絡を取ることができずに、浮浪者風に身をやつし逃亡を続けていたのだ。
「もしかすると、野原様とお会いしているところも見られているかもしれません」
「これ以上、彼女と会うことは、また、彼女を危険に巻き込むことになりかねないということか?」
「その恐れはあります」
「しかし、それは僕としては耐えがたいことだな」
「ドンにしては珍しいですな。あっしはてっきり、ドンは男色家かと思ってましたぜ」
大樹が亀を呆れた顔で見た。
「どうして?」
「いやあ、この歳になられるまで、まったく浮いた話はなかったですからねえ」
「それは、今まで僕の心を捉えて放さない女性に巡り会えなかったからだよ」
「野原様は、その女性だと?」
「そういうことだ。彼女だけは絶対守る。将来、僕の奥さんになるかもしれないんだからね」
「そんなところまで考えてらっしゃるんですかい?」
「まあ、僕の中ではだけどね」
「そういうことであれば、こっちから積極的に動いて、遠藤一派を殲滅しますぜ」
「そうだな。鶴の報告によると、また、我々に危害を加えようと考えていることは間違いないようだ。彼女に危険が迫る前に排除してもらいたい」
「分かりやした。鶴! 遠藤の行動は掴んでいるのか?」
「もちろんだ」
「そいじゃ、これから早速に」
「うむ。任せる」
大樹が力強くうなずくと、鶴と亀の二人は深く頭を下げてから、部屋から出て行った。
フェニックス・シンジケートは、表と裏の二つのグループからなっていて、それぞれのグループは、その長の名前を取って「亀グループ」と「鶴グループ」と呼ばれていた。
亀谷が率いる表のグループは、飛鳥家の人々の護衛を表向きの仕事にしているが、裏では暗殺も行っている実行グループだ。
鶴屋が率いる裏のグループは、情報収集を手掛けるスパイ集団で、亀グループのターゲットの情報のみならず、他の企業に対する産業スパイ的な活動もしていた。
そして、このフェニックス・シンジケートの指揮は、経済活動で忙しい飛鳥財閥の総帥に代わり、歴代の次期総帥が執ってきており、今は大樹が「首領」なのだ。
フェニックス・シンジケートの荒くれ野郎どもを鵜飼の鵜のごとく操ることができてこそ、日本の経済界に大きな影響力を持ち、時の政権も無視できない存在である飛鳥財閥総帥を務めることができるという考え方で、次期総帥が勤め上げるべき責務となっていた。
そして、大樹は、今は飛鳥財閥の総帥である父親から経済的センスや人心掌握術を受け継ぐとともに、広域暴力団「風月会」会長の娘である母親からは、暴力的言動に対する耐性と、戦闘において的確な指示を出すことができる司令官としての素質を受け継いでいて、フェニックス・シンジケートの構成員からの信頼も厚かった。
首都東京では、もともとは稲山会の一強多弱の状態が続いていたが、飛鳥財閥との繋がりができた風月会がじわじわと力を付けてきて、稲山会を脅かす存在になってきたことから、東京の覇権を掛けて、稲山会と風月会の全面抗争が始まったのが半年前。
最初は稲山会が有利な展開となっていたが、密かにフェニックス・シンジケートが抗争に参加したことで、一気に形勢は逆転して、三代目総長が暗殺された稲山会は滅亡の危機にまで陥っていた。
新たに就任した稲山会の四代目総長は、風月会に対して、休戦を申し入れていたが、その裏では、一発逆転を図って、水面下で暗躍を続けており、大樹を急襲したのもその作戦の一つだった。
そして、逃亡中に出会った花は、大樹にとって運命の女性だと思わざるを得なかったのだ。
「彼女は絶対に守る。彼女に手を出そうとする者は誰であっても許さない」
その気持ちを抑えきれないように、大樹が呟いた。




