トキコと花火(卅と一夜の短篇第14回)
「ねえ花火しようよ、花火」
目を覚ました途端、おはようの代わりにそう言われた。
僕はまだ寝ぼけていて、なんと言われたのかしばらく理解できなかった。
「はなび……? え、花火? どうして」
段々頭が冴えて来てようやく、彼女が何を言っているのか理解した――が、何故言っているのかはわからなかった。眼鏡を掛けてのそのそと起きだした僕を、彼女はにっこりと見つめた。
彼女は花火がとにかく好きで好きで、どのくらい好きかというと夏には何度も――というかほぼ毎週、花火イベントに出掛けるくらいだった。僕はそのたびに付き合わされていたのだ。付き合い始めてからずっと、毎年の話だ。
打ち上げ花火も好きらしいが、なんと言っても手持ち花火が一番、らしい。
そして手持ち花火のために、僕は小さな庭付きのテラスハウスへ引っ越すことになったのだ。
ある程度自由に使える庭が付いている物件を探している、と言うと、少々太めの不動産屋は「バーベキューですか?」と愛想笑いで尋ねた。
そこで彼女が「いえ、花火です!」と目を輝かせながら答えると、不動産屋は戸惑いながらまた愛想笑いを繰り返した。
念願の庭付き物件に引っ越したのは去年の暮れ近くだった。
気の早い彼女は、夏用に縁台と蚊取り線香を入れるブタの焼き物もすぐに購入していた。
彼女が去年の残りの花火を持ち出して来たのは、昨日のことらしい。
納戸の片付けをしていたら出て来たという。
朝食の準備をしながら僕にそのいきさつを話し、朝食を食べながら「だから花火しようよ」とよくわからない主張をし、食器を洗っている間は鼻歌を歌っていたけど、それが終わったらリビングで寝転んでいる僕にのしかかって来て、彼女はまた「花火しようよ」言った。
「何言ってんの? まだ五月じゃん」
五月最後の週末。そろそろ梅雨に入る頃だ。やっぱり花火といったら梅雨明けからが本番だろう。
申し訳ないが、僕はそれほど花火好きじゃない。嫌いでもないけど、花火よりも彼女とビールの方が断然好きだ。
花火は夏限定で楽しむものだ、という先入観もある。
更には風鈴、スイカ、蚊取り線香、枝豆、ビール……一通り揃っていないとね。かき氷なんかもあると、もっと雰囲気出るかもね。
「何言ってんのよ。北海道行った時、真冬の花火も観たじゃない」
彼女は僕にのしかかったまま、ぷうっと頬を膨らませる。
そういえばそうだった――だがしかし、あれだって彼女の希望でわざわざ探したイベントだ。
いくら雪の王国北海道だって、日常的に冬の花火大会が開催されているわけじゃあない。
「あーゆーのは観光地ならではだろ。手持ち花火は夏でなきゃ認めらんねえ」
僕は言い返して寝返りを打った。
G.W.明けから約二週間。
ちょっとした修羅場の後にやっと確保できた連休だった。
「この週末は朝からビールを飲んで徹底的にゴロゴロするぞ」って、昨夜宣言したはずなんだけどなあ。
「そんな待ってらんないよぉ。明日は天気が崩れるらしいしさ。今夜、しよ?」
その声に僕がつい反応してしまう。ちらりと振り返ると、彼女は極上の笑顔でおねだりしている。
そんなに可愛く誘われたらさ……
「今夜、何をするって?」
僕はそのまま、彼女の腕を引き寄せた。
* * *
「花火もさ、梅雨を越すとしけっちゃうらしいのよね。だからその前に。ね、いいでしょ?」
伸ばし掛けの髪をくしゃくしゃにしたまま、彼女は僕を見つめる。
眼鏡を外した僕の視界には、少しぼやけた彼女の笑顔。
「もぉ~わかったよ。そんなに花火したいなら」
僕の負けだ。
「でも遅いと近所迷惑だろ。何時頃がいいのかなぁ。暗くなるのって何時?」
ため息をつきながら、問い掛ける。
「お日さまが沈むの、七時くらいだったかなぁ?」
「じゃあ早くても七時半か」
「縁台、持ち出す?」
「お、いいねぇ。ついでに蚊取り線香も焚こうか」
なんだ。やると決めたら、僕まで段々その気になって来た。
彼女は起きあがり、背中を見せたまま髪を整えた。振り返った肩越しに笑顔を向ける。
「じゃあ両方ガレージから出しておいてね、頼んだわよ、あ、な、た」
語尾にハートマークがついている。きっと。
うちの奥さんは新婚四ヶ月にして既に、旦那の操縦が上手いらしい。
* * *
縁台とブタの蚊取り線香をベランダの外に設置した。埃を落とすためにシャワーを済ませたら、少し早めの晩酌だ。
ダイニングに入った瞬間、思わず目を丸くした。
「うわすごい。夕飯まで夏仕様かぁ」
テーブルの上には、さっぱりひんやりメニューが勢ぞろいだった。
豚の冷しゃぶに山盛りの茹で野菜。タコときゅうりとわかめの酢の物。ピーマン、パプリカ、ズッキーニと茄子の煮浸し。
僕が好きな、ミョウガをたっぷり乗せた冷や奴。
あとは、丸いチーズとトマトのスライスを重ねてオリーブオイルを掛けた……これ、なんていうメニューだっけ。彼女の好きなやつだ。
今日の日中は思いのほか気温が上がったから、夏メニューでも違和感はないな。
「枝豆がないのは残念だけど、これでスイカが出たら完璧夏だな」
そう言いながらビールの缶を開ける。
まだ調理中の彼女に向かって「はい、奥さんにも」と言いながらもう一本取り出したけど「あたしはいらないかな」と断られた。
ちぇっ。
「ラーメンの麺、茹でるぅ?」
「あ、そうだね、いいね」
ぐびり、と先にひと口飲みながら、僕はこたえる。
冷しゃぶと冷たく〆た麺で、冷やし中華モドキを作るのだ。
彼女は野菜をたっぷり乗せるので、どちらかというとラーメンサラダだな。
優しい旦那さんとしては、冷蔵庫からドレッシングやタレの瓶を出しておくくらいの手伝いはしておこう。
「夕暮れを眺めながら晩酌ってのもいいなぁ。休みって感じがするよ」
やっと席に着いた彼女に微笑みながら、しみじみとした気分に浸る。
「独身の頃は、朝から晩まで遊び倒してた感じがするけどねえ」
そう言いながら彼女が持ち上げたグラスには、氷と麦茶が入っていた。
「一足早い夏だなぁ」
「食べたら、花火、ね」
僕が飲み過ぎないうちに、と思ったのだろう。さり気なく念を押された。
* * *
「やっぱりちょっと肌寒かったかしら」
念願の花火なのに、夜風が出て来た。
ピシパシとカラフルな火花を散らしながら、彼女は苦笑する。
「上着、持って来ようか?」
「あぁ、ありがと。カーディガンじゃなくて綿のパーカーの方、お願い」
花火の灯りに照らされた、半分だけの笑顔がこたえる。
カーディガンは繊維が溶けちゃうもんな。そう思いながら玄関付近を捜すが、いつもの場所に見当たらない。
「普段なら鏡の近くに――あ、バッグの上に落ちてたのか」
昨日彼女はどこかへ出掛けていたらしく、姿見の側には無造作にバッグが置かれていた。
「パーカー、見つからない?」
僕がモタモタしているのを感じ取ったのだろう。彼女までやって来た。
「いや、あったよ。バッグの上に――ん? これ、なんだろ?」
パーカーを持ち上げた時に引っ掛けたらしい。小さなノートのようなものがバッグからこぼれ落ちた。
拾って見ると、表紙には可愛らしい絵がついている。
でも彼女はキャラクター雑貨の趣味はないはずだけど。
「母子、けん、こ、ぅ……えぇ?」
彼女の方を振り返る。
アルコールが突然効いて来たみたいに、心臓がばくばくしている。
「だから、今のうちに花火をしたかったの。夏にはもう、無理っぽいでしょ?」
彼女は照れたように微笑んだ。




