002「エリシアの仕事」
「記憶喪失、というものですね」
記憶喪失──健忘とも言うそれは、事実や経験の記憶が、僕の脳から削除されたということを意味する。
自分の今までの行動がなかったことになり、全てが『無』に還る。つまり今の僕は──『無』だ。
「······困りましたね。名前がわからないとなると、あなた事をなんとお呼びすれば良いのでしょう?」
そんなことを僕に聞かれても困る。記憶がないのだから。
「じゃあエリシアが考えてよ、僕の名前」
「よ、よろしいのですか!?」
「うん、君に助けてもらった命だしね。好きに決めてもらって構わないよ」
自分の恩人に名前をつけてもらうのだ。文句はあるまい。
当のエリシアは、難しい顔をして、僕の名前を考えてくれている。
「ところで······エリシアは敬語をやめないの?」
ずっと気になっていた。自分でよそよそしいと言っておきながら、エリシアは敬語をやめない。
「ああ、お気になさらず。これは癖のようなものですから」
「······ふーん」
まあ、エリシアがそれでいいと言うのなら気にしなくてもいいか。
僕がとやかく言うことではないだろう。
エリシアはしばらく考えて、口を開いた。
「申し訳ありません。あなたにお合いする名前が見つかりません。人の名前を考えるのがこんなに難しいとは······」
エリシアは、本当に申し訳なさそうに言う。
「気にしなくていいよ。こっちこそ無理に頼んで悪かったね」
「······あ、では王都に戻ってから考えるというのはどうでしょう。王都に行けば戸籍を作ることも出来るでしょうから。」
「············」
僕がポカンとした顔をしていると、エリシアは説明を加えてくれた。
「あ、王都というのはですね、リースティアのことです。ここはオリシオンという王国で、その中心、もっとも盛んな場所がリースティアという王都です。ですからそこへ行けば仕事も見つかると思うのです。」
「ほ、本当に!?」
戸籍を作って仕事も見つかる。自分の名前もわからない絶望的な状況だったけど、なんとかなりそうだ。
「ええ、本当です。けれど、わたくしはまだ仕事が残っています。ですので、わたくしの仲間と先に王都へ向かってください。私もしばらくしたら、王都へ向かいますから。それまでの間、わたくしはあなたを『ソルナさん』と呼ぶことにします」
「ソルナ······さん?」
唐突に示されたその名前には、疑問しか浮かばなかった。
「この名前は、その昔、オリシオンと敵国との戦いにおいて、英雄的な功績を挙げた人物の名前です。その英雄の肖像画と、あなたの顔があまりに似ているものですから。それはもう、同じ人なんじゃないかってぐらいに」
そう言ってエリシアは微笑みかける。
「······はは」
僕は苦笑する。
昔の英雄、か。随分と重い名前を付けられたもんだ。まあ、彼女がそれでいいと言うのならそれでいいか。
エリシアが言っている仕事と言うのは、監視の事だろう。
敵国の監視をしているから、むやみに離れる事は出来ない。だから何人かいるうちの一人が、僕を王都に連れていってくれるのだろう。
「でも監視の方は大丈夫なの?人数を減らしても」
「え?えっと······わたくしたちは、監視員ではありませんよ?」
「······え、でもここは砦だよね?」
「ええ。ですがわたくしたちは監視員ではありません。監視員は別にいます。それに、いくら複数いるからと言って、役目を放棄してまで、あなたといっしょには行かないでしょう」
「あ······」
恥ずかしいー!
超恥ずかしいー!
思いっきり勘違いしてた!
確かにそうだ。監視してるって言ってたけど、自分がしているとは一言も言っていない。
あーあ、やっちまった。
でもよく考えたら、これって仕方なくない?だってめっちゃ自分が監視員っぽい言い方してたし。うん。僕だけが悪い訳じゃない。
そういうことにしておこう。切り替えていこう。
「じ、じゃあ仕事っていうのは?」
「わたくしたちは国王の命を受けてここに来ています。もっとも、目的地はまだ先なのですが」
そして彼女は続けて言う。
「わたくしたちが国王から受けた命は──『魔獣』の討伐です」
「ま、魔獣!?」
「ええ。魔獣と言うのは、そのまま魔の獣のことです。500年程前に、この世界に現れた魔獣は、ただ破壊のみを行って来ました。魔獣が現れて以来、人間は魔獣と戦い続けています。1年程前にも、オリシオンの隣国であるハルミア王国に、強力な魔獣が現れました。ハルミアは、国としての機能を失う程の壊滅状態となり、現在ではオリシオンが、ハルミアを統治しています。その後も魔獣が出現しては、わたくしたちは戦っています。」
「そ、そんなやつに勝てるのか?」
一つの国を破壊するような化物を、人間が相手にして勝てるはずがない。
それとも、何か対抗策があるのだろうか。半端な物ではおよそ相手にならないだろう。
「対抗策ならありますよ。それは──」
エリシアが次の言葉を発そうとした瞬間、部屋の扉が勢いよく開いて、そこから鋭く尖った物体が、僕をめがけて飛んできた。
「うわぁぁぁっ!!!!」
間一髪のところでその物体をかわす。その正体は氷だったようで、僕の後ろの壁に当たると、パラパラと砕けていく。
扉の方を再び見ると、黒い髪の女がこちらを睨みつけていた。
「この下衆がぁぁぁ!姫から離れろぉぉぉ!さもなくば、この氷が貴様の心臓を貫くぞ!」
女は恐ろしい形相でそう叫ぶ。かなり興奮しているようだ。
「ち、ちょっと待った!とりあえず落ち着こう!話し合おう!僕は何もしてない!」
僕はなんとか彼女を抑えようと話し合いを試みるが、それも馬の耳に念仏だったようで、
「問答無用!どかぬと言うならその命もらい受けよう!」
と言って、こちらに氷を飛ばしてくる。しかも今度は一つではない。
そのすべてが、僕の体を目掛けて飛んでくる。
(かわしきれない!)
僕は目を伏せる。
(嘘だろ······。僕こんなところで死ぬのか?記憶は失くしたままだし、名前も思い出せない。はあ······もうちょっと、エリシアと話していたかったなあ······。)
その思いも虚しく、氷が僕の心臓に突き刺さる──ことは無かった。
「え······?」
伏せていた目を開けると、氷は僕の目の前で静止していた。
「······なっ!?」
そしてまた、その氷は砕け散る。先程と違うのは、何かに当たった訳ではないということだ。
「下がりなさいレイディア!この方に手を出すことは、いくらあなたでも許しません!」
それは、エリシアが初めて見せた怒りの表情だった。
「し、しかし姫!そのような者を──」
「レイディア!」
「······申し訳ありません。失礼致しました」
彼女はそう言って部屋をでていった。あまりに突然の事だったので、まだ状況が理解出来ていない。
なんだ今の?
何がどうなったんだ?
「申し訳ありません。先程の者は、わたくしの仲間です。後で注意しておきますので、どうか許してあげてください」
「そ、そんなことより、今のは何なんだ!?氷が飛んできたり、突然止まったり消えたり······」
人間の力では到底出来そうにない現象──それが今、目の前で起こったのだ。
訳が分からなかった。果たして、それは一体何なのか。
僕が混乱していると、エリシアが、その答えを教えてくれた。
「これが、魔獣への対抗策──『魔術』です。」