サクラ
激しい夕立が行く手を遮る。私は、傘を持たずに塾に来てしまった。確かに今朝の天気予報では夕方に雨が降ると言っていたような気がするけれど、なんとなく、持って来るのを忘れてしまったのだ。
鞄の中を漁っても、当然の如く折り畳み傘なんて入っていない。今朝の私は、かなりうっかりしていたらしい。
樹に電話をして迎えに来て貰おうか。一瞬そんな考えが頭を過ったけれど、すぐに私の中から消し去った。
樹に迷惑をかけない。それはやっぱり私にとって、一番大事なことなので。
アーケードになっている場所を駆け抜ければ、少しは濡れずに帰れるかもしれない。商店街に塾があって良かったと思う。ずぶ濡れにさえならなければ。風邪さえ、引かなければ。
「よし、行きますか」
そう自分に言い聞かせ、鞄を抱え込む。けれどなかなか一歩目を踏み出す気にはなれなくて、私はそのまま立ち尽くしてしまった。正直、邪魔になっている気がする。人影はまばらだけれど。
一歩を踏み出す勇気が大事なのだ、何事も。藁があるなら縋りたい。傘があるなら入りたい。体調管理は至上命題。ぎりぎりの私に余裕はない。
溜め息混じりに周囲を見回すと、同級生の姿が目に入った。樹と同じクラスの男子。どうやら買い物の帰りらしい。声をかけようか迷ったけれど、しっかりと結論を出す前に、口が勝手に動いていた。
「マサキくん!」
こういう時の私の底力は、どこから湧いてくるのだろう。
「……え?」
突然声をかけられて、マサキくんは固まってしまった。当たり前だ。大して仲が良いわけでもない女子に、声をかけられたのだから。
「傘、一緒に入れて貰えないかな?」
私の神経の図太さは異常だ。とはいえ、こういう時はお互い様のような気がする。勝手な言い分ではあるけれど。
「え? あ、別に良い、けど」
「やった! ありがと」
同級生とはいっても、マサキくんとはクラスが違うし、面識もほとんどない。何度か樹と話しているのを見かけたことがあったので、覚えているだけだ。多分、一方的に。
それに何より、彼はとても目立つ。中性的で綺麗な顔立ちに、すらりと高い身長。色白の肌に切れ長の瞳。男子に使うのはおかしいのかもしれないけれど、美人、という言葉がよく似合う。
「別に良いよ。はい、どうぞ」
にっこりと微笑むマサキくんは、私よりずっと色気があった。悔しいことに。
「あ、と。ごめんね。私、三組の……」
自己紹介をしながら傘に入れて貰う。なんだかすごく、奇妙な状況だ。
「……サクラさん、て、呼んだ方が良いかな」
「どっちでもいいよ」
これは今度、貴美子に報告しなければ。羨ましがられるに違いない。あのマサキくんと会話をしたのだ。かなりの事件に違いない。
いわゆる相合傘状態で歩きだす。同級生の女子が見たら、この状況をどう思うだろう。少しだけ、優越感を覚える。とはいえ、私には樹がいるのだけれど。
「倉橋の、彼女だよね?」
マサキくんが樹の苗字を口にする。私は頷き、左に立つ同級生を見上げた。切れ長の瞳は薄茶色で、淡い色の髪によく似合っている。興味がないはずなのに思わず見惚れてしまうほど、彼は美しい。まるで絵に描いたように完璧な風貌だと思う。男性としても、女性としても。
私はぼんやりと、惹き込まれるようにマサキくんを見つめていた。薄く形の良い唇が、言葉を発するたび動く。奏でられる声音は低く落ち着いていて、耳触りがとても良い。
「へえ、じゃあ、サクラさんって倉橋と一緒に住んでるんだ」
当たり障りのない会話を交わすつもりだったのに、何故か樹の話題になっていた。
「そうなの」
共通の話題がない相手との会話では、必然なのかもしれない。数少ない共通項が出てきてしまうのは。望む望まざるにかかわらず。
樹は。私にとって、家族であり恋人であり。マサキくんにとって、それなりに仲の良いクラスメイトであり。
深く事情を聞かれたら、どう答えれば良いのだろう。樹が我が家にいる理由は、私の口からは言えない。絶対に。
「倉橋ってさ、何であんな頭良いの?」
樹は昔から勉強が出来る子だった。ガリ勉というわけでもないのに、うちの中学はおろか、全国で見てもトップクラスの成績を誇っている。
中学に上がるときに、有名私立に行くのではないかと噂になっていたくらいだ。なぜ地元の公立に進んだのかが判らない。樹なら余裕で難関私立に行けたはずなのに。
「何でだろ。何かすごい記憶力が良いらしいんだけど」
けれど。今となっては、公立で良かったと思う。
「私にも同じ血が流れてるはずなのにね」
あんなことがあって、ただでさえ目立つのに。私立に通っているとなれば、更なる色眼鏡で見られていたかもしれない。樹にはこれ以上目立って欲しくはない。樹のためにも、平穏な生活は大事だと思う。
コンプレックスを抱く余裕もないほどに、樹は高い所に居続けている。これまでも、そしておそらくは、これからも。
だから私とは釣り合わないのだ、本当は。
「……ずるいんだと思うよ、イツキは」
どうしてあんなに睫毛が長いのかも知りたい。沈み掛けた感情を引き上げるため、私は冗談めかして呟いた。
「あはは。でもさ、サクラさんも充分可愛いんじゃないかな」
何ですと。幻聴を聞いたのではないかと思うような言葉が、マサキくんの口から飛び出した。聞き間違いでは、ないようで。
「あ、冗談だと思ってるでしょ?」
目を細め笑顔を浮かべるマサキくんに向けて、私は大きく頷いた。当たり前だ。私なんて、何の取り柄もないのだから。
可愛いなんてあり得ない。樹の方が余程顔立ちが整っていると思う。勉強だけでなく、容姿も。私には何ひとつ、樹に敵うところなんてない。
「……本気なんだけどな」
この人は何てことを言い出したのか。耳が赤いのが自分でも判る。樹にさえ言われたことのない言葉。私の中を駆け巡る。
こんなの、冗談だと一蹴してくれた方が。
「ほら、サクラさんうちのクラスにたまに来るでしょ? 倉橋のとこにさ」
冗談だと笑い飛ばしてくれた方が、良い。こんな風に褒められてしまったら、私は、どう答えれば良いのかが判らない。
「ずっと、可愛いなあって思ってたから」
樹なら、どう答えるのだろう。
「……でも、倉橋の彼女なんだよね」
何と言葉にするのが正解なのだろう。これは、結構な大事件だ。少なくとも、私にとっては。
自意識過剰などではなく、きっと、これは。
「あ、ごめん。その、変なこと言って」
マサキくんは慌ててそう言うと、横を向き押し黙ってしまった。私は私で、口を開こうにも何を言えば良いのかが判らなくて。
傘にあたる雨の音が激しさを増していく。私の鼓動が、激しさを増していく。
ざあざあと激しい雨音が、言葉を掻き消しているのだと思いたい。互いに口を開いていないけれど、そうだと、思いたい。
ふいに前方に目をやると、雨の暖簾の向こう側に、我が家のマンションが見えて来た。
「ありがと、助かったよ」
私はマサキくんの顔を見ずに声を出し、傘から飛び出した。これ以上、気まずい空気には耐えられない。何より、樹を裏切ることになってしまいそうで、怖い。
走ろうとすると、マサキくんに左腕を掴まれた。先ほどまで傘を持っていたはずの、右手で。
思わず振り返り、目が合った。吸い込まれるような綺麗な瞳に、私の姿が映っている。激しい雨が容赦なく頭上に降り注ぐ。マサキくんの綺麗な髪が雨に濡れ、額にぴったりと張り付いている。
「ごめん。僕の言ったこと、気にしないで」
足元に転がった傘を拾い、私に差し出す。
「じゃあ。僕の家、近くだから」
私に傘を押し付けるように手渡し、マサキくんが背を向ける。私がどうすべきか迷っている間に、彼の姿は見えなくなっていた。
空から降り注ぐ雨は、相変わらず、激しい。