サクラ
我が家のクーラーは飾り物なのかもしれない。氷河期のような寒い塾から帰宅すると、地球温暖化の影響を受けまくったかのような暑いリビングが待っていた。
樹は空調があまり好きではない。四季折々の気候を楽しみたいから、らしい。クーラーをつけていても楽しめないことはないと、私は思うけれど。私が暑がりなだけのような気も、しなくはないけれど。
「……どうだった?」
表面に水滴の付いたボトルに入っている麦茶を、既に並べられていたグラスに注ぎ。八分目ほどに注がれたグラスを私に差し出しながら、樹が静かに訊いてきた。
「あんまり良くないかも」
今日が模擬テストだったということを、樹は知っている。
「そっか。でも、サクラなら大丈夫だよ」
何が大丈夫なんだか、とは思わなくはないものの、樹の優しさが嬉しいのも事実で。
「うん、ありがと。頑張るね」
樹の綺麗な顔を見ていると、少しはやる気が湧いてくる。私のやる気の源泉は涸れているわけではなくて、きっと、樹にしか掘り出せないのだ。
温い麦茶を一口飲み、窓際へと移動する。吹き込む風が心地良い。生温くても、吹いていないよりはよっぽどましだ。扇風機の生温い風でも涼しく感じるのと、原理は同じだろう。多分。
窓の外は既に日が落ちていて、薄明るい空に星が微かな煌めきを添えている。ぼんやりと外を眺めながら、夏の空って案外綺麗じゃないなあ、などと余計なことを考えていると、いつの間にか樹が隣に立っていた。
「ねえ、サクラ。無理はしないでよ?」
窓の外を見上げ、樹が口を開く。
「僕に出来ることがあるなら言ってね」
私は黙って頷き、樹の横顔を見上げた。長い睫毛に、きめ細かい肌。少し長めの髪はさらさらと風に揺れていて、本当に綺麗だった。私と血が繋がっているのか、疑わしいくらいに。まあ、血が繋がっていると言っても、結構遠いのだけれど。
祖父の弟の息子の息子。何という呼び名かは忘れてしまった。けれど、それでも構わない。
私にとって樹は、樹でしかないのだから。
「……イツキこそ、気を使わないでよ?」
樹の事情は複雑だ。私には、どうすることも出来ないくらいに。
「大丈夫。おじさんは優しいし、それに、サクラがいるし」
私が樹のことを好きだということに、きっと樹は気が付いていた。だから付き合おうと言い出したのかもしれないと、疑っている自分もいる。
他人の感情は測れない。樹の本心は、判らない。
それでも。嫌われてはいないということだけは確信している。自意識過剰かもしれない。けれど、こうして隣に立てていることが、何よりの証拠だと思う。
「私なんて何の役にもたってないじゃん」
欲する答えが返ってくることを知っていて、自虐めいた呟きを漏らす。私は、最低だ。
「そんなことないよ。サクラがいてくれて良かったって、思ってる」
私の頭に手を添えて、樹が優しい微笑みを見せた。何も裏のない純粋な笑み。少なくとも私にはそうとしか思えない。否、そう思いたいだけなのかもしれない。
サクラがいてくれて良かった。この言葉を、樹の本心と思いたいのだ、私は。どうしても。
「本当に?」
尋ねても本心が返ってくるとは限らない。けれど、私は確認したい。
「当たり前だよ。サクラ……」
言いながら樹は、私の頭を抱え込んだ。耳元で樹が優しく囁く。その言葉を聞き終えた私は、疑う心を忘れてしまった。樹の温かさが、胸の鼓動が、私の身体に染み渡る。
大好きだよという囁きが、私の中をこだまする。
樹が側にいてくれる。これ以上、私は何を望むのだろう。