イツキ
最初は、鈍い痛みを感じただけだった。右手に走った衝撃は、おそらくそれほど大したものではなかったのだろう。本来ならば。
倉橋の手を握っていたはずの右手に、力が入らない。入らないどころか、感覚すらも危うい。何がどうなっているのかが判らない。この僕が。
「イツキ!」
背後から聞こえてきた女の声で、ようやく現実を思い出す。ああ、そうか。僕は右手を失ったのだ。自らの糸によって。
決して切れることのない黄金の糸が僕の手首をぎりぎりと締め付け、そのまま手首を切り離した。糸を引いたのはこの女。
何故この女に糸が見えた? 何故この女に糸が操れた? 何故、僕以外に。
「どういうことだ? サクラ、説明しろ」
傀儡に過ぎない女に命令を下したが、しかし。
「嫌だよ。説明なんてしたくない」
目尻から雫をこぼしながら、女は僕に反抗する。何故、命令を聞かない? どうなっているのだ、これは。
僕は落ちた右手を拾おうとしたが、倉橋に蹴り飛ばされてしまった。僕の宝、僕の右手は、この場からは手が届かない。
「……どうして?」
未だ人間でしかないこの身体は、手首から大量の血液を流し続けている。あと少し、もう少しで新たな世界の神になれるというのに。
否、違う。僕は神だ。真の神になるための試練。僕は試されているだけなのだ。しかし、誰に?
ああ、力が抜けていく。人間の身体とは不便なものだ。脆弱で醜く、生命の器としてはあまりに不出来な。
「五木正輝、僕は」
糸に包まれ動き辛そうな様子で、倉橋はゆっくりと歩いている。僕の右手。僕の至宝へと手を伸ばす。
「……僕は、君に惑わされない」
僕の右手だった物を握り、倉橋が決別を宣言した。
「永遠なんていらない」
雲間に隠れゆく太陽を睨みつけ、永遠が僕を救い上げることを信じた。宴は続いている。死の淵に立とうとも、僕が僕である限り、永遠に。
そう、僕は死なない。命を落とすことはない。たとえこのまま倒れようとも、右手に蓄えた生命が僕を長らえさせるはずだ。
「さよなら、五木……」
右手があった場所を見つめ、露出した内部を慈しむ。切断面が綺麗だ。白い骨は月のようで、僕のようで。
頭上が、地面が暖かい。
間に合ったのだろう。黄泉比良坂の解放。頭上に広がる常世の国。死者の楽園に、僕を。
ああ。温かい。
流れる生命が僕を包む。黄金の糸が僕を包む。視界がかすんできた僕を、優しく、永遠に包み込んでいる。
三途の河が僕を迎え入れようとしている。常世の神を迎え入れようとしている。支配者を。僕を。包み込む世界は、常に。
僕の世界は、永遠に。




