サクラ
ごめんね。私の分も、長く、幸せに。
最後の方は小さすぎて、樹には聞き取れなかったかもしれない。けれど私は、樹の母親は。確かにそう言っていた。
――サクラちゃん、お願い。
この声は、誰のもの?
――少しだけ、貸して頂戴。
この声は、おばさんのもの?
私には肯定も否定も出来ず、ただ声を聞き続けることしか適わなかった。動くこともままならない身体。きっともうすぐ、死の世界へと足を踏み入れる。
そうでなければ、今見た走馬灯の説明がつかないのだから。
「……五木、僕は決めたよ」
まぶたに明かりを感じる。動く影を感じる。まるでただ目を閉じているだけのような錯覚。私はまだ、生きているのだろうか。
頬を撫でる風を感じる。側に立つ樹の温もりを感じる。私はまだ。
「倉橋。神に、なるんだろう?」
まだ。欲望に忠実に、生にしがみ付いている。
「ならないよ」
相変わらず身体は重く、自由に動きそうにはない。それでも、確実に。
「ならない?」
マサキくんの声。いつもの穏やかな心地良い響きとは違う、悪意を孕んだ声。けれど、おそらくは。
「……じゃあ、その女がどうなっても良いってことか」
鼓膜をじかで振動させるような、脳に直接響くような声音。間違いない気がする。けれど私には、何の話かは判りそうになかった。
樹は今、側にいるのだろうか。温もりは感じるのに、存在は確認できていない。目を開き姿を見たいのに、私の身体は言うことをきいてくれそうにない。凍りついたかのように動けず、ただじっと横になり続けていて。
「良くないよ。だから」
樹が動く。私の側から離れ、どこかへと。靴底の擦れる音。ゆっくりと、おそらくはすり足で進んでいる樹。何をしようとしているのかは、判らない。
判らないけれど。
「だから、僕は」
何かを決意したような口調。
「僕は、護る」
何かを覚悟したような口調。
「サクラも母さんも、僕自身も」
弱々しい風と共に漂う鉄の臭いが、これからの樹の行動を示唆している。そんな、気がしていた。