サクラ
灼熱の地獄から不意に解放され、私はゆっくりと身体を起こした。
ここは、どこだろう。先程までいたはずの場所とは違う。学校の屋上ではない。もっと見馴れた光景が、目の前に広がっている。
これは、樹の家だ。
小さな机の前には、まだ幼い樹が座っていて。その隣には幼い、私の姿。まるで映画のように客観的に振り返る記憶。走馬灯の光と影。私の全て。
散らかったカラフルなクレヨンに、何枚も重ねられた画用紙の山。私たちは二人、並んで絵を描いていた。手を動かし、口を動かし。窓の外からはうっすらと、蝉の鳴き声が聞こえてくる。だからこれは、夏の思い出だと思う。
樹が描いているのは、樹の両親の顔だった。私はそれが羨ましくて、絵を描くのを邪魔ばかりしていた。何で私にはおかあさんがいないの、なんて、困らせるようなことばかり言って。
この頃から、樹はとても優しかった。一所懸命描いていたはずの絵をゴミ箱に捨て、サクラちゃんの顔を描く、と、にっこり微笑んで私を見つめて。
思えば迷惑しかかけていない。私が忘れているだけで、きっと樹は覚えている。些細な出来事の積み重ね。優しい樹に、頼ってばかりの私。幼馴染のあの頃も、今も変わらない関係。
私は、不要な存在だ。
「ほらふたりとも」
記憶の中の私が声を出す。
「冷たいジュース、用意したわよ」
違う。私の声ではない。これは私の記憶ではなく。これは、樹の母親の記憶だ。走馬灯が絡まり、他人の過去を眺めているのかもしれない。
私と樹の幼い頃。幸せな記憶。死にゆく記憶は共通なのだろうか。走馬灯が駆け巡り、私の記憶を歪めているだけなのだろうか。
じっとりと汗ばむ感覚はまるで体験しているかのようで、これが偽りとは思えない。きっと私は樹に必要とされたいがために、樹の母になり替わっているのだ。記憶の中で。
「わーい。ありがと」
これは、幼い私の声。
「おばさんの絵、描いたげる」
無邪気で残酷な、私の提案。樹の邪魔をしていたにもかかわらず、自分は樹の母親の顔を描こうという矛盾。樹はきっと気付いていた。
気付いた上で、私に優しくしてくれていた。
「ありがとサクラちゃん。イツキもお母さんの顔、描いてくれるの?」
「……僕は、サクラちゃんを描く」
少し曇った表情からも、それは間違いのない真実に見えた。幼い私は、気付いていないようだったけれど。
ふいに、視界が霞む。記憶の断片は終了し、別の記憶へとすり替わる。
これは病院の天井。真っ白な世界が広がっていた。私は病院に入院したことがないから、この記憶も、きっと。
「母さん!」
樹の母親の記憶。
「頑張って。僕が付いてるから」
握られた手は暖かく、燃えるような熱を帯びていた。私の体温が低いから、熱く感じているのかもしれない。あるいは本当に、燃えているのかもしれない。
白い天井が微かに滲む。目蓋が重みを増してくる。手に力がこもらない。全てがすり抜けていくような、虚しさばかりが広がっていく。
ああ。これは、私が手放した記憶の欠片だ。
電話を受け、病院に向かい。それ以降の記憶の断片。私は廊下でほくそ笑み、樹の家族の死を願っていた。その時の、失われた時間の一部だろう。
「父さんもすぐに来るから。ねえ、母さん」
樹の必死な声が聞こえる。聞こえていたのを、思い出す。
廊下で手を組み、目をつむり。私は何を願っていた? 死を。生を。そのどちらを、願っていた?
樹の声が胸を斬り裂き、醜い感情を否定する。今からでも間に合うからと、正しい感情を肯定する。私はこの時、正しい選択をしていたのだろうか。
ああ、それにしても。身体が重い。
「母さん、返事してよ!」
声を返したいのに身体が動かない。息をするのも難しい。これは、追体験。樹の母が死へと向かう、その瞬間の追体験。罪を自覚しろという、私に下された罰の一環。私はきっと、選択を誤っていたのだ。
力が抜けていく。呼吸もままならない。頭がぼんやりとする。苦しい。痛い。熱い。寒い。
ああ、きっと。このまま。
「イツキ……」
何も発することなく、このまま。
「……聞いて、頂戴」
このまま目を閉じることになるのかと、思った。




