表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
新世界へ  作者: 戸雨 のる
陸-6-
30/36

サクラ

 灼熱の地獄から不意に解放され、私はゆっくりと身体を起こした。

 ここは、どこだろう。先程までいたはずの場所とは違う。学校の屋上ではない。もっと見馴れた光景が、目の前に広がっている。

 これは、樹の家だ。

 小さな机の前には、まだ幼い樹が座っていて。その隣には幼い、私の姿。まるで映画のように客観的に振り返る記憶。走馬灯の光と影。私の全て。

 散らかったカラフルなクレヨンに、何枚も重ねられた画用紙の山。私たちは二人、並んで絵を描いていた。手を動かし、口を動かし。窓の外からはうっすらと、蝉の鳴き声が聞こえてくる。だからこれは、夏の思い出だと思う。

 樹が描いているのは、樹の両親の顔だった。私はそれが羨ましくて、絵を描くのを邪魔ばかりしていた。何で私にはおかあさんがいないの、なんて、困らせるようなことばかり言って。

 この頃から、樹はとても優しかった。一所懸命描いていたはずの絵をゴミ箱に捨て、サクラちゃんの顔を描く、と、にっこり微笑んで私を見つめて。

 思えば迷惑しかかけていない。私が忘れているだけで、きっと樹は覚えている。些細な出来事の積み重ね。優しい樹に、頼ってばかりの私。幼馴染のあの頃も、今も変わらない関係。

 私は、不要な存在だ。

「ほらふたりとも」

 記憶の中の私が声を出す。

「冷たいジュース、用意したわよ」

 違う。私の声ではない。これは私の記憶ではなく。これは、樹の母親の記憶だ。走馬灯が絡まり、他人の過去を眺めているのかもしれない。

 私と樹の幼い頃。幸せな記憶。死にゆく記憶は共通なのだろうか。走馬灯が駆け巡り、私の記憶を歪めているだけなのだろうか。

 じっとりと汗ばむ感覚はまるで体験しているかのようで、これが偽りとは思えない。きっと私は樹に必要とされたいがために、樹の母になり替わっているのだ。記憶の中で。

「わーい。ありがと」

 これは、幼い私の声。

「おばさんの絵、描いたげる」

 無邪気で残酷な、私の提案。樹の邪魔をしていたにもかかわらず、自分は樹の母親の顔を描こうという矛盾。樹はきっと気付いていた。

 気付いた上で、私に優しくしてくれていた。

「ありがとサクラちゃん。イツキもお母さんの顔、描いてくれるの?」

「……僕は、サクラちゃんを描く」

 少し曇った表情からも、それは間違いのない真実に見えた。幼い私は、気付いていないようだったけれど。

 ふいに、視界が霞む。記憶の断片は終了し、別の記憶へとすり替わる。

 これは病院の天井。真っ白な世界が広がっていた。私は病院に入院したことがないから、この記憶も、きっと。

「母さん!」

 樹の母親の記憶。

「頑張って。僕が付いてるから」

 握られた手は暖かく、燃えるような熱を帯びていた。私の体温が低いから、熱く感じているのかもしれない。あるいは本当に、燃えているのかもしれない。

 白い天井が微かに滲む。目蓋が重みを増してくる。手に力がこもらない。全てがすり抜けていくような、虚しさばかりが広がっていく。

 ああ。これは、私が手放した記憶の欠片だ。

 電話を受け、病院に向かい。それ以降の記憶の断片。私は廊下でほくそ笑み、樹の家族の死を願っていた。その時の、失われた時間の一部だろう。

「父さんもすぐに来るから。ねえ、母さん」

 樹の必死な声が聞こえる。聞こえていたのを、思い出す。

 廊下で手を組み、目をつむり。私は何を願っていた? 死を。生を。そのどちらを、願っていた?

 樹の声が胸を斬り裂き、醜い感情を否定する。今からでも間に合うからと、正しい感情を肯定する。私はこの時、正しい選択をしていたのだろうか。

 ああ、それにしても。身体が重い。

「母さん、返事してよ!」

 声を返したいのに身体が動かない。息をするのも難しい。これは、追体験。樹の母が死へと向かう、その瞬間の追体験。罪を自覚しろという、私に下された罰の一環。私はきっと、選択を誤っていたのだ。

 力が抜けていく。呼吸もままならない。頭がぼんやりとする。苦しい。痛い。熱い。寒い。

 ああ、きっと。このまま。

「イツキ……」

 何も発することなく、このまま。

「……聞いて、頂戴」

 このまま目を閉じることになるのかと、思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ