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新世界へ  作者: 戸雨 のる
壱-1-
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イツキ

 暑さは苦手だ。無駄に汗をかき、不要に体力を消費してしまう。なるべく消耗は抑えたい。蓄えが減ることを、僕はあまり良しとしない。

 冷たい麦茶を冷蔵庫から取り出して、ガラスのコップになみなみと注ぐ。一気に飲むと身体が冷える。冷たい飲み物は美味いが、それはそれで体力の消耗に繋がってしまう。仕方がない。ぬるくなるのを待つことにしようか。

 刻の到来はまだ遠い。蓄えは多い方が良い。普通に生活しているだけならば、僕はまだ若いので、命の危機に晒されることは少ないが。しかし、何が起こるか判らないのが世の中だ。用心するに越したことはない。

 ほんのりと温かい右手を握りしめ、コップに口を付ける。冷えた麦茶は美味い。しかし、それだけだ。栄養を蓄えるには至らず、健康を増幅させるにも至らない。価値のないものだ。

 無意味なものを美味いと感じる。僕はまだ、人間であることを捨て切れていないのかもしれない。

 弱肉強食の頂点に立つ、この僕が。

「……まだまだだな」

 左手から過去の熱を伝え、麦茶を温めた。自分の人間らしさが腹立たしい。常なる世界の創造主たるこの僕が、移ろいゆくものを良しとするとは。

 常なる世界、常なる時間。悠久の刻、永遠。僕には、永遠を作る責務がある。この現世に生を受けたのは、その使命を果たすためなのだ。

 若干減った蓄えを満たすよう、括り付けている糸を引き寄せた。この糸が繋がっているのは、はたしてどのような餌だったか。食卓に上る魚の顔をいちいち覚えていないように、括り付けた先の餌など、いちいち覚えているはずもないのだが。

 右の掌に繋がる黄金色の糸を手繰り寄せ、餌の鮮度を確認する。使える餌なら残してやろうか。撒き餌や囮に使えるようなら生命を摘み食いするだけに留め、利用価値のない相手なら生命の全てを貪ろう。

 最近は数が増えてきたので、いちいち確認しなければならないのが面倒だった。釣りはそれなりに楽しいが、あまり効率はよろしくない。もう少し合理的な方が僕の趣味ではあるが。

「小学生か。残しだな」

 しばらくは派手な行動を控えたいので、仕方がなかった。大きなうねりと違い、細波ならば目立たない。

 引き寄せた生命の相手を確認し、上澄みを少し掬い取る。若い生命は新鮮で美味いが、利用価値も高い。丸ごと貪るのは刻が来てからにしよう。

 若い餌は勝手が良いのだ。行動力があり、恥じらいがない。多少の突飛な行動も、若さ故か許される。囮としてこれほど優秀な存在が、果たして他にいるだろうか。

 温くなった麦茶を喉に流し込み、こそいだ生命を右手に収めた。栄養が、蓄えられる。

 周囲に合わせるために仕方なく摂取をすることはあるが、僕の身体は基本的に、食事を必要としていない。現世の住民とは違う、素晴らしく効率の良い肉体。欠点はほとんどない。

 たまにしか物質から栄養を摂取をしないので、胃腸が極端に弱い。それが、欠点といえば欠点か。

 ふいに、生温い風が窓から吹き込んできた。僕のうっすらと汗ばんだ全身から、熱を適度に奪い去る。

 心地の好い風だ。しかし残念なことに、常なる世に風は存在しない。刹那の刻を永遠に引き延ばすのだから、流れる風は存在し得ない。緩やかな川のせせらぎも、打ち寄せる波飛沫も、全てが。

 停滞という名の至上の楽園。僕が生まれ出たこの世界は、素晴らしい未来へと繋がっている。

 人が神を生む。混沌から生まれた神は穢れを知らない。混沌はすなわち、生と死の狭間。僕は混沌から生まれ、この現世を変革する。生と死の狭間を取り除く、唯一絶対の存在として。

 新たなる世界を得るには、相応の犠牲が必要だ。僕の寿命は残念ながら、人間のそれに準じている。世界の時が止まるまで、僕は蓄え続けなければならないのだ。面倒なことに。

 薄く開いた窓から、宵闇を眺めた。曖昧な空は美しく、淡く滲んだ月が浮かんでいる。弓張月。夜の世界の守人は、気高く妖艶に微笑んでいる。

 月は、嫌いではない。

 常なる世には、常なる月を。決行は満月の晩にしよう。月夜見神が見守る世界。僕は、月の神になる。

「綺麗だ……」

 美しい双児の片割れを見上げ、微笑み返した。ゆっくりと腰高窓に近寄り、硝子戸を開け放つ。生暖かい風が立つ。僕は窓枠に腰掛け、上半身を乗り出した。

 掌から繋がる糸は束のまま階下に流れ、黄金の反物のように柔らかなうねりを湛えている。僕にしか見ることの適わない、至上の絶景。淡く輝く月明かりと、黄金の生命帯。眼下に広がる黄金の川。

 三途の川というのは、きっと、このような荘厳たる美しさを称えているのだろう。

 この反物を三途の川とするならば、僕の住むマンションは、さしずめ賽の河原といったところか。随分と俗世にまみれた賽の河原だ。積み石の出来ない、永遠に救われることのない場所というのは、案外悪くないが。

 目を細め、慈しむように地上を眺める。幹線道路を走る自動車や、塾帰りらしき中学生の集団。子連れの主婦もいる。誰もが皆、幸せそうに見えた。

 眼下の俗人共が、仮初めの幸福に酔いしれている。くだらない。非常に、くだらない。

 時の流れに逆らう術を持たない愚かな者共に、新たな糸を括ることにした。主婦の連れている男児が、この中で一番鮮度が高い。平均寿命は八十年。残りは、七十年以上あるはずだ。

 右手を浮かせ、左の掌にゆっくりと押し当てた。徐に熱を帯び、伴い皮膚がぬめる。慎重に両の手を離すと、粘ついた糸が現れた。

 黄金色の、生命の糸。蜘蛛の糸に似たそれは、僕だけの美しい。

「……行っておいで」

 右手の人差し指と親指で丁寧に摘み上げ、下界へ優しく放り投げた。月明かりに照らされて、流星の如き煌めきを放ち。子供の頭上に到達した糸は、やがて子供の左手に括られた。

 新たな蓄えが、またひとつ。

 僕はどうしても歪んでしまう口元を押さえ、月光に背を向けた。幼子は操るのが容易い。自我の発達が未熟なので、僕の思想を植え付け易いのだ。

 あの男児には撒き餌になって貰おうか。保育園にでも通っていると良い。豊かな漁場に入れると良い。

 嗚呼、愉快だ。

 博愛精神の行きつく先は、全ての生命を平等に愛すること。僕の行いは正に、博愛精神そのもので。分け隔てなく、平等に搾取する。頂点に君臨する者だけに与えられた、万物への愛の証として。

 既に抜け殻になっていることにも気付かずに延々と鳴き続ける虫たちの合唱が、ひどく心地好く、ひどく耳障りだった。

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