サクラ
足が竦んで動かない。目の前で微笑む樹の母親のせいか、周囲の惨状のせいかは判らない。進まなければ思っているのに、足が言うことを利かなかった。
樹が私の手を握る。影を見つめ、ゆっくりと口を開く。
「……母さん、何で?」
樹の母親は今年の春に亡くなった。出産時の大量失血が原因と聞いた覚えがある。手放した記憶の欠片からは全てを思い出すことは出来ないけれど、亡くなったことは事実として認識している。
樹が立ち会い、手を握り。それでも引き留めることが叶わなかったと聞いている。
母子ともに死亡。一度にふたりの家族を失う。私には、それがどれほど辛い出来事だったのかを知る術はない。私にとっても大切な、家族のような人ではあった。それでも、本当の家族である樹の気持ちは知り得ないのだ。
なにより、私がそう願っていたのだから。樹を奪われることを恐れ、新しい家族の誕生を拒み。
冷静になれた今、謝りたいと願ってもそれは叶わぬ願いで。
「どうして、ここにいるの?」
叶わぬ願いだったはずで。
けれど今、目の前に。罪を咎める当事者がいる。適うはずのない状況に、叶えなければならない願い。私の発する言葉なんて、きっと届きやしないだろう。
「ごめ……な、さ」
それでも、声を出す。自らのためだけに赦しを乞う。私は、私に。
葬儀は親族だけでしめやかに行われ、樹は父親とふたりで暮らすことになった。私の家に来る必要なんてなかったのだ。本来ならば。
なるべく誰にも心配をかけないようにと、樹は明るく振舞っていた。ふたりともとても頑張っていた。頑張り、過ぎていた。
「母さん、何で?」
精神的にも肉体的にも、頑張れる限度というものがある。限度を超えてしまったから、あんなことになったのだろう。
「どうして?」
気付いたら、樹はひとりになっていた。
「母さんは、死んだんじゃ……」
樹の父親は、突然いなくなった。生きているのか、死んでいるのかも定かではなく。朝、いつも通りに家を出て、そのままどこかに消えてしまった。私が樹から聞いた話は、これで、全てだった。
施設に入るより、我が家に来た方が良いだろう。父の一言で、樹は私の家族になった。昔から憧れていた樹が、私の家族になる。それは私にとっては願いが叶った瞬間でもあり、同時に、自分の罪に気付かされた瞬間でもあった。
あまり周囲に言わないようにと口止めをされていたので、事情について語ったことはない。父親の仕事の都合で、と、学校には告げてある。樹は友人にもきっと、そう言っているのだろう。
奪ったのは、私だ。私が願わなければ、樹は、幸せなままだったのに。
「イツキ、逃げて」
きっとおばさんは、私を迎えに来たのだ。罪深き私を、死の世界へと。
「何で……?」
今日のこの惨劇は、そのための序章に過ぎないのかもしれない。私の罪がもたらした、全てを奪う悪意の権化。
「いいから!」
罪は、償わなければならない。私の身をもって。
ゆっくりと近付いてくるおばさんの表情はとても穏やかで、大罪人を裁くにはあまりにも不釣り合いで。胸に抱いた子供をあやし、慈しむように微笑み。けれど私と目が合うと、瞳の色が寂しそうに変化した。
樹が私の前に歩み出る。影の視線が樹に移動する。
「……母さん、僕」
自身を抱くように腕を交差させ、震える声で樹は続けた。
「父さんを」
私をちらと一瞥し、彼の母に向き直る。窓から吹き込む風が、樹の髪を揺らしていた。
「この、手で」
けれどそれ以上はもう、言葉になっていなかった。樹の懺悔の意味を、私は考える。あっさりと導き出された答えは、私の推測でしかなく。しかしとても恐ろしいもので。
「イツキ……」
信じる気には、なれなかった。
樹は優しい。樹は誰よりも優しい。誰よりも優しいから、無理をしている姿を、見続けることが出来なかったのかもしれない。
これはひとつの推測でしかない。私と同様に樹も罪人であれば良いという願望が生み出した、誤った答えかもしれない。けれどもし、そうであれば。影が捕らえに来たのは私だけでなく、樹も同様で。
樹の父親は行方不明になっている。死んでいるかもしれないと、心の片隅では思っていた。それでも。
「僕が」
殺されているとは考えなかった。崩壊した家庭で樹がとる行動。これ以上は見ていられないという優しさ。父親が行方不明になったというのに、あまり慌てた様子ではなかったことを思い出す。きっと私の推測は、正しい。
影が揺らめき、樹に歩み寄った。
「イツキ」
それでも。樹に罪を犯させたのは私だ。全ての原因は私にある。私のせいだと言って欲しい。私を非難することで樹が救われるのであれば、いくらでも。
影がゆっくりと手を伸ばす。樹の頬に触れ、首を傾げた。口を開き何かを告げているけれど、私の耳には届かない。
母親の腕の中で大人しくしていたはずの赤ん坊が、ぐずり、泣きはじめた。
「でも」
樹が口を開く。樹の手を影が握る。導き、赤ん坊の額に添えさせる。触れると、赤ん坊は泣き止んだ。
「でも、僕のせいで」
妹を見つめ、樹が呟く。
「僕のせいで父さんは」
母を見つめ、樹が呟く。
「……母さんは、知ってるんだよね」
樹の罪を。私の罪を。
鉄の臭いを孕んだ風が廊下を吹き抜け、私の足を動かした。影の方、階段の方へと歩みを進める。途中、影に腕が触れた。
触れた場所から全身へと、さざ波のような肌の震えと毛穴の逆立ちが広がっていく。冷たく全身に広がる感覚はまるで冷水を浴びせられたかのようで、治まる気配を感じない。
初めて触れた死の感覚。温もりを感じさせない肌。曖昧な存在感。当たり前に存在している生とは比較にならないほどの、吸い込まれるような恐ろしい。
「サクラ……」
虚無。
「イツキ、一緒に」
行こう。逝こう。罪を犯した私たちは、温もり溢れる世界には似つかわしくないのだから。
樹の手を握り、影を見据える。口を開こうとしたその瞬間、吹き抜ける風と共に声が聴こえてきた。
――行っては駄目。
聞き覚えのある、優しい声。影が発しただろう声は、私の脳に直接響くようで。まるで、私自身の考えのようで。そんなはずはないのに。私は、行かなければならないと思っているのに。
行く。逝く。どこに? どこから?
「え?」
私の中のもう一人の私が囁く。私の中の影が囁く。
「……サクラ?」
行ってはいけない。偽りの意志に身を委ね、偽りの感情を抱き、偽りの罪に苛まれ。
樹を連れて。樹と共に。
「一緒に」
呼ばれている。私は、使命を果たさなければいけない。樹と共に、屋上へ。
逝かなければいけない。




