サクラ
世間は夏休みだ何だと浮かれているけれど、私にとってそんなものは存在していない。これだけは断言出来る。何故なら、受験生だから。
連日続く猛暑を乗り切れと言わんばかりにクーラーをがんがんに効かせた教室内で、黙々と勉強に励む。これぞまさに受験生、完璧な受験生絵巻の完成だ。なんて。
あれやこれやを妄想しながら、存在していないやる気を引き出そうとして。我ながら本当に考えが浅いと思う。
勉学に勤しむ気はさらさらない。かといって、受験をしないわけにもいかない。義務と夢の狭間で揺れる心。これが青春ど真ん中の乙女の頭の中ですよ。どうかしているなあ、私。
勉強はそこそこ出来る方ではある。高望みさえしなければ、別にこうして塾に通う必要はないのかもしれない。そんなこと、判っているのに。
私は、結構な勢いで高望みをしている。その割にやる気が出ないので、困っているのだけれど。
嗚呼、青春の一ページ。十五の夏をこんな風に過ごすなんて、去年の私は思っていた? 否、思っていなかった。親友の貴美子と同じ高校に入れれば良いや、と、適当な毎日を過ごしていた。
やっぱり高望みなんてするものじゃない。とは言っても、私にはそれなりの理由があるのだ。仕方がない。その理由が『彼氏と同じ高校に行く』だったりするあたりが、何とも。やっぱり少しは乙女街道驀進中かな、と思わなくもなかったりするけれど。
彼氏は、樹は、私より頭が良い。否、私と比較するのは間違っている。とにかく賢いといった方が正しいと思う。記憶力が良いだけだと前に自嘲気味に話していたけれど、絶対にそれだけではない。
だから同じ高校に行くには、猛勉強は必至なのだ。樹は私に合わせてくれると言ったけれど、私の普通の知能に合わせて高校を選んでしまったら、せっかくの樹の賢さが無駄になってしまう。
ただでさえ、私はいつも樹に迷惑をかけているのに。
「……はい、回収」
いつの間にか時間が終了していたらしい。私の妄想の源こと、模擬テストが回収されていく。今の私は、完全なる手持ち無沙汰だ。もちろん、本来ならこういう時間にこそ参考書を読んだり自習に励んだりして勉強した方が良いのだろう。判っては、いる。
それでもやっぱり、私にはやる気が湧いてこないのだ。心のどこかに、樹が私に合わせてくれるからという、甘い考えがあるのかもしれない。
最低だ、私。甘えて頼って足引っ張って。彼女失格の烙印を押されても、反論が出来そうにない。全く、我ながらどうかと思う。
樹は、私のどこを気に入ってくれているのだろう。
付き合い始めたのは三年生になってからで、それまではそういう意味での仲の良さはなかった気がする。謎だ。世界七不思議のひとつに入れても良いくらいの謎が、そこには潜んでいる。
それでもやっぱり。私は樹のことが好きなのだ。
自分で言うのも変な話だけれど、私なんて大した女の子ではない。特別可愛いわけでもないし、勉強は普通のちょっと上程度。運動に至ってはかなり残念な状態で。
樹との共通点は、たったひとつ。
それが決め手だとしたら悲しいし、最低だ。樹の境遇を喜ぶなんて、本当にどうかしている。
教室内にクーラーが効き過ぎているせいか、自己嫌悪のせいかは判らない。私はふいに、寒気に襲われた。
私以外の塾生たちは皆、見せ掛けだけかもしれないけれど、勉強に夢中になっている。こんな風にもやもやと色々なことを考えて勉強という名の現実から逃避しているのは、きっと、私だけだろう。
家で樹に勉強を教えてもらった方が、効率が良いような気がする。月謝だって掛からない。判っては、いる。それでも夏期講習に通うと言い出したのは私なのだから、勉強をしなければと思う。思っては、いる。
けれど思うだけなら簡単で、実行するのは難しいのだ。否、実行するのも簡単なはずだ。難しいのは、やる気の継続。樹と同じ高校に行くという目標があるにもかかわらず、私のやる気は殺がれていく。まるで街中を歩いている時の汗のように、どんどん蒸発して消えていってしまう。
樹が優しいからいけないのだ。自分のやる気のなさを棚に上げ、逆切れも良いところだとは思う。同じ高校に行かなくても一緒にいられるからという、逃げ口上のせいかもしれない。
私のこのやる気のなさは何なのか。勉強はそこそこ出来るし、優しい彼氏もいる。生活全般に不満がないから、このままぬるい世界に浸っていたいのだろうか。判らない。
鞄の中から上着を出し、羽織る。この間も寒くて仕方がなかったので、念のために忍ばせていたのだ。持って来て大正解。鳥肌を立てていた肌が、滑らかさを取り戻し始めた。
クーラー効かせ過ぎ、と感じているのは私だけではないはずだ。それなのに、何故か誰も文句を言わない。塾とはこういうものなのだろうか。
テストをして、授業を受けて、寒さに凍える。外の暑さとの差異が激しくて、夏風邪をひきそうな気がするけれど。風邪にも耐え得る強靭な肉体を云々。そういうものなのだろうか。
勉強出来なきゃ元も子もないじゃん、と、私は声を大にして言いたい。もちろん、そんなつもりでクーラーをがんがんに効かせているわけではないだろうということは、判っては、いるけれど。
やっぱり家で勉強した方が良いような気がしてきた。樹の方が、塾の講師より私に教えるのが上手い。それに何より、家の中ならこんなに寒くはならないのに。
ぼんやりとそんなことを考えていると、いつの間にか休憩時間が終わりを告げていた。私にとって比較的苦手な科目、歴史の授業が始まろうとしている。歴史。樹の一番得意な科目。
そういえば。樹は文系科目が得意で、私はあえて言うならば理系寄りだ。同じ高校に入っても、同じクラスにはなれないのかもしれない。
気付かなければ良かった。否、同じクラスになれなくても、同じ学校に通うだけで満足としよう。それすらも、叶うかどうかは判らないのだけれど。
大体において、最近の私は贅沢過ぎるのだ。何もかもを欲していて、何もかもを手に入れられると信じていて。
そのくせ、やる気が全然なくて。
求めるだけなら赤ちゃんでも出来る。私は、そこまで幼くはない。求めるには対価が必要なことくらい判っている。
だから。樹を手に入れるには、それなりの対価が必要だったのだ。あれはきっと、私が樹を欲していたからこその。
つまりは、私は。最低の人間だ。間違いなく。