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新世界へ  作者: 戸雨 のる
死-4-
18/36

サクラ

 悲鳴が、聞こえてきた。

 何が起こったのか。最初は、理解出来なかった。誰かが貧血で倒れたのだろうか。それにしては、騒然とし過ぎているけれど。

「ねえ、サクラ」

 貴美子が私の腕を引く。そこはかとない不安が滲んでいる。状況は把握できていない。それでも、何かが起こっていることは間違いようがなく。

「どう、したのかな」

 私にはただ、貴美子の手を握ることしか出来なかった。声が聞こえてきたのは一年生の列の方角で、私たちからは遠く離れていて。

 判らないから不安に思う。ただそれだけのことだろう。けれど、胸の奥を逆撫でるような、嫌な感覚は確かにある。冴えない天気のせいかもしれない。予感が、不安が、私の中を渦巻いている。この感覚は、前にも一度味わった。思い出せない、思い出したくない記憶の中で。ただ、一度だけ。

 檀上から騒動の中心を確認したのだろう。校長が、マイクを通して注意を促そうとした。

「避難し」

 けれど途中で、言葉を発することを止めてしまった。いや、違う。止めざるを得なかったのだ。

 ゆっくりと倒れていく校長の背中に、鈍く光る銀色の何かが見えた。それが包丁だと判るより前に、二年生の集団がざわめく。悲鳴が上がる。

 校長は背後から一突きにされていた。刺したのは、教頭。校長の背に突き立った包丁を抜き取り、自らの首に押し当て。

 薄曇りの空の下、赤い飛沫が校庭を染めた。

 人は自分の理解を超えた出来事に直面すると、表面上は冷静になるのだろうか。二年生が騒ぎ始めた原因に気が向かないほどに、私は茫然としていた。その場に立ち尽くし、なす術もなく。惨劇をただ見守るのみで。

「サクラ、ねえ」

 貴美子に腕を引かれ、我に返った。この場にいてはいけない。壇上に転がる二人分の死体だけでなく、騒乱の原因は他にもあるのだ。間違いなく。飛沫が散るよりも前に、逃げ出す生徒がいたのだから。

 顔を向けても、人波の向こうに広がる光景を目視することは適わない。けれど震える空気は確実に、私たちのところに届いている。混乱は容赦なく、私の元へ押し寄せてきている。

 まともではない。現状は、異常だ。

 この目で確認は出来ていないけれど、暴れているのが一人でないことは判る。同時多発的に、無秩序に。逃げ惑う人波から想像が付く。混乱が、混沌を招いているのだと。

 当たり前の日常は、当たり前に消えてしまった。けれど私は、立ち尽くしている。逃げることなく、立ち向かうことなく。

「サクラ、私……」

 ふと、腕が軽くなった。貴美子が私の腕を離す。

「私、行かなきゃ」

 竦んでいる私とは違い、喜美子は歩けるらしい。身動ぎしない私を置いて、何処かへ向かおうとしている。

「キミコ、どこ行くの?」

 私は貴美子の腕をとった。置いていかないで欲しい。ひとりにしないで欲しい。けれど。

「……し、なきゃ」

 願いは届かない。私の非力な手は、力強く振り払われた。意志を持った喜美子のことを、意志を持たない私は抑えられないのだ。

 確認するよう小さな声で呟き、目標を定め喜美子が進む。混沌の渦に向かい、私のことは眼中にないらしい。腕を振り払われてしまった私には、彼女を止める術はなく。

「キミコ! 一緒に逃げようよ」

 叫んでも足は止まらない。危険に飛び込もうとしている貴美子は、まるで何かに取りつかれているかのようで。

「ねえ、キミコ」

 何を叫んでも耳には届かない。貴美子を追うべきか、樹を探すべきか。友人も恋人も、私にとって大事な存在であることに変わりはない。欲張りな私には、どちらも捨て置けるような存在ではない。

 ふいに、貴美子が向かった方向を思い出した。隣のクラス。樹の、クラス。その向こうには下駄箱がある。ならば。貴美子が向かった先に、樹もいるはずだ。きっと、ふたりともいるはずだ。いるに決まっている。

 私は決心し、強張る身体に鞭をうつ。無理矢理にでも足を動かし、ゆっくりと歩みを進めた。

「キミコ! イツキ!」

 混乱の最中では、私の声は小さ過ぎて誰にも届かないのかもしれない。それでも、出来る限り大きな声で、出来る限り届くように。

 私は叫ぶ。

「イツキ!」

 喉が潰れても構わない。もしも今、会えなかったら。きっと。きっともう二度と会えない。そんな、気がしていた。

「……倉橋、保健室にいるよ」

 隣のクラスの男子が、校舎に向かいながら私に教えてくれた。苛立ちを含んだ声に、びくりとして振り返る。

 彼は確か、島崎先生の葬儀で見かけた顔だ。名前は判らないけれど、マサキくんの友達だろう。

「保健室?」

 一緒に、会場に入って来たのを覚えている。

「ああ。寝てんじゃないか?」

 刺々しいその口調は、私がいることで流れが悪くなっている人波に対するものだろうか。

 私はありがとうと言おうとしたけれど、声を出すより前に彼の姿は見えなくなっていた。もしも次に会えたなら、その時は必ず礼を言おう。会えるかどうかは、判らないけれど。

 樹の、とりあえずの無事は確認出来た。保健室にいるのなら、おそらくは。だから。

 あとは、貴美子を探すだけ。探して、腕を引いてでも逃げるだけ。逃げる。逃げ出す。何処かへ。保健室へ。

 生徒の大半は既に校外へと逃げ出しているらしく、校庭に残っているのは私を含め少数だった。中にはマサキくんの友人のように、校内へ向かった生徒もいるだろう。おそらくは、喜美子もそう。どちらが安全なのかは、誰も知らないだろうけれど。

 深呼吸をして、辺りを見回す。

 視界の開けたこの場所は、想像以上に現実味が希薄だった。私の知っている日常からは、ひどくかけ離れた光景。出来の悪いホラー映画のようでもあり、趣味の悪い仮装パーティのようでもあり。

 校庭いっぱいに広がる赤黒い海に、溺れ倒れた人たち。腥い、鉄の臭い。ふいに、酸味が喉を駆け上がった。

 私の感覚は、麻痺しているわけではないらしい。

 場所を弁えず、吐いた。涙も流れる。どうしてこんなことになったのかが判らない。悪夢なら良い。幻なら良い。けれどこれは白日夢ですらなく。

 込み上げる。少し冷静になったおかげで、否定が出来なくなっていた。吐き出す。これは、現実だ。どうしようもなく、現実だった。喉が焼けるように痛い。目を逸らし遠くを見つめる。けれど世界は非情で。

 たぶん、一年の列があった場所だろう。何か光るものを手にした男子が、横たえた女子の腹に蹴りを入れているのが見えた。カッターナイフか、彫刻刀か。はっきりとは判らないけれど、おそらくは、笑顔を浮かべて。

 異常だ。この現実は、異常でしかない。だから。

「……イツキ」

 早く逃げたい。早く会いたい。会って、無事を確かめて。

「キミコ!」

 一緒に。

「ねえキミコ、どこにいるの?」

 一緒に、逃げたい。

「……サクラ、さん?」

 どこからか、私を呼ぶ声が聞こえてくる。低く響く心地良い声色。樹とは違う。樹より聞きなれない、脳に直接届くような声音。この異常な光景にはそぐわない、落ち着きを孕んだ声。

 私は声の主を確認するため、周囲を見回した。

「どうしたの? 逃げないと」

 背後から聞こえてくる声の主は。

「……サクラさん、あの」

 隣に、貴美子の。

「逃げようとしたら、転んじゃって」

 背中に彫刻刀を飾り付け、赤い絵の具で染め上げられた貴美子の。

「サクラさんの、友達……だよね」

 今はもうほとんど呼吸をしていないであろう貴美子の。隣に立って。

「僕がつまづいた時に、僕の代わりに……」

 冷めた目で、悲しそうに懺悔の言葉を述べていた。

「……キ、ミコ……?」

 私はマサキくんに構う余裕などなく、貴美子の傍にしゃがみ込んだ。口元に耳を寄せ、呼吸の有無を確認する。自分でも驚くほどに、冷静な行動。

 感情が飽和して機械的になっている。そんな、気がした。

 ただ漏れ出しているだけの、力ない呼吸しか聞こえない。ひゅうひゅうと喉の奥に何かを詰まらせたような音を鳴らし、視線は宙を彷徨っていて。

「キミコ……」

 私の呼び掛けに反応し、貴美子が視線を私に移す。私を安心させるよう軽く微笑み、口を動かした。静かに、ゆっくり、喜美子は声を出そうとする。

 けれど、音が出るより前に動きが止まった。止まってしまった。苦しげな呼吸音ですら、今はもう、聞こえない。

「キミコ……?」

 どんなに話しかけても、どんなに身体を揺すっても反応がない。それでも私は貴美子が反応することを期待していた。

「ねえ、キミコ」

 本当は判っている。頭では理解していた。貴美子は死んだのだ。目の前で。私の目の前で。なす術もなく。驚くほどにあっけなく。

 信じられない。信じたくない。逃げ出したい。これは夢だと言って欲しい。

 強風が吹き抜け、砂を舞い上がらせた。身体に当たる砂粒が、夢ではないと告げている。無情な無機物が告げている。

 気付くと、叫んでいた。声にならないくらいに激しく、せき止められていた感情を一気に爆発させるように激しく。喚くように、激しく。

 頭の中に空白が広がっていく。何も思考出来そうにない。判らない。判りたくもない。

 しばらくそうしていたのかもしれないし、ほんの一瞬だったのかもしれない。マサキくんに腕を掴まれ、私は現実へと引き戻された。現状を思い出し、逃げることを思い出す。けれど。

「サクラさん、一緒に行こう?」

 私はただ、頷いた。考えることを放棄したまま、樹のことだけを思い出し。静かに、歩き始めた。

 校庭で横たわる、赤く染められた貴美子の姿が脳裏に焼き付いて離れない。私には何も出来なかった。何も出来ることなどなかった。思考を放棄していても、そのことばかりが頭をよぎる。私のせいではないと、自分を肯定するためだけに。

 私は、無慈悲な罪人なのだ。本当は、きっと。

 手を引かれ校舎に向かっていると、おそらく後輩であろう女子がコンパスを構えているのが目に入った。尖った部分をこちらに向け、じりじりとにじり寄ってくる。虚ろな瞳がゆっくりと動く。にやりとした笑みを浮かべ、マサキくんを凝視した。

「危ない!」

 私が声に出すよりも早く、彼の目の前に誰かが立ちふさがる。体格の良い男子生徒。きっと、校内に逃げ込もうとしていたのだろう。けれど。

 全速力で駆けてきた女子のコンパスが、男子の胸に突き刺さる。狙っていたのか、偶然かは判らない。左胸の辺りを一突きにされた男子は、ゆっくりと、女子に覆い被さるように。倒れた。

 下敷きになった女子の頭から、赤い液体が流れ出す。じわじわと水溜りが広がっていく。流れ出す血液と校庭の砂が混ざり合い、彼女の髪を汚していく。

 倒れた女子がもがくように腕を動かすと、赤い液体が激しく飛び散る。自分の怪我の具合が、判っていないのかもしれない。判らなくなっているのかもしれない。素人目にも判る、致命的な出血量なのに。

 ふ、と。一瞬だけ、視界が暗くなった。気付くと、先ほどの男子生徒が目の前に転がっている。女子が突き飛ばしたらしい。体格差を考えると有り得ない。

 汚れた髪を掻き上げ、女子生徒がにやりと笑う。赤く染まった制服は、絞れそうな程に濡れていて。

 飛沫が舞う。視界が奪われる。反射的に目を瞑ってしまう。絶体絶命。逃れられない。けれど、何も起こらない。

 恐る恐る目を開くと、二人、折り重なり倒れていた。

 私たちに危害を加える前に、尽きたのだろう。広がりゆく赤い水溜りが、淡々と事実を語っている。私の目の前で死んだのだ。人が。私ではなく、他人が。

 そのことに安堵する自分に、自然と嫌悪感が募る。身勝手だ、私は。

 自分の身さえ守れればそれで良い。私の根底にある意識に気付く。喜美子のことは、私のせいではない。私は何も悪くない。この二人も、私のせいではない。私は何も悪くない。

 本当に?

 責任逃れのような思考は、殺意と何が違うのだろう。伝染しているらしき殺意に、既に汚染されているのかもしれない。私は。

「……とにかく、逃げよう」

 私の手を引き、マサキくんが言う。逃げる。逃げて、樹に会って。それでどうなるというのだろう。

 怖い。

 恐怖は人を臆病にする。私の意志はマサキくんについていくと決めているのに、身体が言うことをききそうにない。私の足は、竦んでいる。

 逃げることが怖い。逃げてしまったら、今起きたことを現実として認めなければいけなくなってしまう。貴美子の死を受け入れなければならなくなってしまう。偶然隣にいただけの、マサキくんを恨んでしまうかもしれない。私を、許すために。

 それが怖い。

 私はこれ以上、誰かに対して憎しみを抱きたくはない。勝手な思い込みで恨みたくはない。あんなことをもう二度と繰り返したくはない。

 あんなこと。そう、私のせいで。

「サクラさん」

 戸惑う私の腕を掴み、マサキくんが校舎へと向かう。引き摺られ、足が動く。うまく歩けているとは到底思えないけれど、それでも、進んでいる。進まない方が良いのかもしれないけれど、それでも、進んでいる。

 凍えながらかく汗が、吹き抜ける風に溶ける。鼻を突く湿り気は、ほんのり赤く染まっていた。

 どのくらい歩いたのだろう。玄関に着くと、見たくないものが視界に入った。幾度見ても慣れるはずのない、非現実的な。

「もう、駄目みたいだ」

 マサキくんが首を横に振り、現実を肯定する。下駄箱の端にこびりついた肉片が、何が起こったのかを無言で述べている。

 転がる彼らを踏まないよう、私はゆっくりと足を動かした。

「……とりあえず、倉橋の無事を確かめよう」

 樹は保健室だと、マサキくんの友人が教えてくれた。マサキくんも同じクラスだから、言わなくても知っているだろう。

 赤黒い水溜りが広がる廊下を、マサキくんに手を引かれながら進む。現実を直視しないように。出来ることなら目を瞑って。ぬめりけに足を盗られないように。ゆっくりと、確実に。

 不思議と、生きている人間の気配を感じない。皆、尽きている。穏やかさを微塵も感じさせない表情で。まるで私を睨むかのように。廊下に、転がっている。

 樹が無事ならそれで良い。樹さえいれば、それで良い。私がそんな風に願っていたから、このような事態に飲み込まれたのかもしれない。

 前もそうだった。私が樹を欲したから、樹の周囲を不幸が見舞ったのだ。

 中学二年から三年にかけての春休み、樹は家族を失った。あれは、きっと、私のせいだった。だから今回も私のせい。最低な私の最低な願望が形になって、それで。

「サクラさん、大丈夫?」

 私の存在が、樹を不幸にしている。

「……大丈夫」

 私さえいなければ、樹は何も失わずに済んだのかもしれない。家族も、学校も。何もかもを。

 樹の家族を襲った出来事は、ただの不幸な連鎖だった。因果関係なんて存在していない。理解はしているけれど、私は、自分のせいだと思っている。

 所々の窓ガラスが割れているせいか、時折、腥い風が吹き込んでくる。廊下はまだ夏の残り香を感じる時期にもかかわらず、ひどく、寒かった。

 寒気を感じるのは、私が。

「サクラさん。保健室、あと少しだから」

 どこからともなく、ぽたり、と、水の滴る音がした。何もないはずの廊下に響く音。目の前には私の手を引くマサキくんの姿。背後には。

「……え?」

 振り返った先に立っていたのは、マサキくんの友人。樹の居場所を教えてくれた彼が、私を見下ろしていた。変色した辞書を手に構え、精気のない瞳を私に向け。

 水音は、辞書から垂れる赤い液体のものだろう。ぽたりぽたりと規則正しく聞こえてくる音は、まるで呪詛のように私の身体を硬直させる。

「さっきは、ありがとう」

 たぶん、言っても無駄だ。彼は既に殺意に取り憑かれている。取り憑かれ、正気をなくし、私を。

 けれど、それでも構わない。私のせいで、このような事態になっているのだから。

 覚悟をきめ、彼を見据える。樹に二度と会えないのは悲しいけれど、私如きが樹の隣に立つこと自体が、罪だったのだ。

 不相応な歪んだ状況だからこそ、不幸が生じる。私がいなくなれば、きっと。

「……ありがとう」

 私は、樹にとって枷にしかなり得ないのだから。

 目をつむり、歯を食いしばる。空気が揺れる音が聴こえた。けれど、いつまでも痛みがやって来ない。

 不思議に思い目を開くと、マサキくんが彼との間に割って入っていた。身を呈して私を護ってくれている。背の高いマサキくんの向こうで何が起きているのかは、私からは見えそうにない。

 けれど。そんなことをしたら、マサキくんが。

「サクラさん、保健室まで走って」

 そんなこと、出来ない。させられない。

 刑を下されるべきは罪人であって、マサキくんではない。私はこれ以上、被害を広げたくはない。

「僕もすぐに追いつくから」

 どこか余裕を感じさせるような口調でマサキくんはそう宣言し、私を後方へと突き飛ばす。けれどそれほど力が込もっていたわけでなく、私はよろけながら振り返り。

 ゆっくりと、彼の姿を確認する。

「大丈夫。話せば判ると思うから」

 前に立つ友人だった人と対峙し、両手で動きを封じている。辞書から滴る血液が、マサキくんの腕を赤く染めていく。

 変わり果てた友の姿を見るというのは、どういう気持ちなのだろう。細い呼吸すら止まってしまった貴美子を見て、私はどう感じたのだろう。

 言いようのない恐怖感。不安。認めたくない気持ち。

「……僕の、従兄弟だし」

 やっぱり私には、出来ない。

 これ以上誰かが苦しむ姿は見たくない。これ以上、私のせいで誰かが傷付く姿は見たくない。

 微動だにしないふたりを瞳に映し、私は口を開いた。

「でも」

 マサキくんは逃げて。そう言いたいのに言葉が出ない。私は弱いから。助かることが可能なら、そちらを選択したいと願っているのかもしれない。

 欲深く罪深い私は、食い止めることより自分のことを願っている。樹に会いたいと、願っている。全ての現実から逃げだしたいと切望している。

 あの時のように。

「わ、私……」

 本当は、私なんかが助かってはいけないと思っているのに。

「いいから!」

 本当は、私なんか助けても仕方がないと、思っているのに。

「サクラ! 逃げろ、早く」

 本当はそう、思っているのに。

 それなのに、私の脚は自然と動いていた。はじめは後退さるように。次第に、前を向き。速度を上げ。保健室へと、走っている。

 撥ね上がる血飛沫も苦しくなる呼吸も物ともせず。自分の意志とは裏腹に。欲望だけに忠実に。

 私は、樹の元へと、走っていた。

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