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新世界へ  作者: 戸雨 のる
惨-3-
16/36

サクラ

 すっきりしない曇り空。新学期の幕開けは、重い空気に包まれていた。

「ねえイツキ、本当に大丈夫?」

 先日雨に撃たれたせいか、樹は少し体調を崩している。休んだ方が良いのではないかと思ったけれど、本人が学校に行くと言っているので、仕方がない。

 樹は意外と頑固なところがある。私が何を言っても聞かないだろう。初日から休むのが嫌なのかもしれない。

「うん。別に熱もないし大丈夫だよ」

 そう答える樹の顔色は、あまり良くない。

「本当に? 何だったら保健室とか行って休む?」

 私の心配は、樹に届いているのだろうか。

「大丈夫だって」

 届いていないのだろうか。

「でもなんかふらふらしてるし。横になってた方が良くない?」

 軽くあしらわれつつ、食い下がる。私が何を言ったところで、意味がないのは知っていたけれど。

「大丈夫だよ、気にしないで」

 だからこれは、半分以上が自分の為なのだ。樹を心配しているという、自己満足。偽善にも似た自己保身。

 私は、私のことしか考えていないらしい。絶望的なまでに。

「初日から休んだりしたら、行きたくなくるかもしれないし」

 ふと、気付いた。今日は新学期の初日であると同時に、樹のクラス担任が亡くなってから初めての学校でもあるのだと。

「何より、僕は平気だから」

 自分たちがどうなるのか。どうしたって不安だろう。もしも樹の立場なら、私もきっと、無理をしてでも学校に向かっていた。

 始業式で校長から語られるはずの今後の予定を聞き、新しくやってくるはずの担任教師を確認する。受験生だから余計に、不安は早めに取り除きたい。

「自分の身体は、自分が一番よく知ってるよ?」

 未だに、あの事件は嘘だったのではないか、と考えてしまう自分がいる。何度も報道されていたにもかかわらず。幾度となく、先生の奥さんが投身自殺を謀り被疑者死亡のまま書類送検になった、と聞いていても。

 人間の心は複雑に出来ている。自分にとって都合の悪い事実は捻じ曲げ、真実として認めようとはしない。

 知識と理解は違うのだと、念を押されているようで。

「だけど、イツキは無理をしがちだと思うよ?」

 私は理解をしていない。事件のことを。樹のことを。自分のことを。

「倒れたりしない? 心配なんだから」

 私はそれを判っていて、樹に押しつけているのだ。

「とにかく無理はしないでよ」

 校舎の入り口での別れ際、樹の手を握った。ひどく温かな左手。熱があるのかもしれない。

「僕は大丈夫だって」

 拒絶するでなく優しく微笑み、樹は下駄箱へと向かった。その背中はどこか頼りなげで、いつもより儚く見える。今からでも追いかけて、無理矢理にでも休ませようか。私の身勝手は遠慮を知らず、けれど自制は促せるはずで。

 踏みとどまる。樹の言葉を信用する。大丈夫だと言っているのだから、心配する迄もない。判っては、いるのだ。

 樹の姿が見えなくなるまで、私は身動ぎもせず、その場に立ち尽くしていた。うっすらと、汗が滲む。休みは明けたけれど、夏はまだ終わっていない。曇り空でも、隙間から覗く日差しは眩しい。

 しばらくそうしていると、後ろから肩を叩かれた。振り返る前に声を掛けられる。

「おはよーサクラ」

 喜美子の声だった。夏休み中は電話で話をしたくらいだったので、かなり久しぶりの。

「ねえサクラ、ちょっと訊きたいことがあるんだけど?」

 けれど昨日も遊んだような、不思議なほどに当たり前で。

「なに、キミコ? 私に答えられることなら答えるけど」

 友達って良いなと、思う。大切な人たちが周りにたくさんいることが、私にとって幸せなことだと。

 下駄箱に向かう喜美子に、付いていくように歩き出す。何も考えずに言葉が出てくる感覚は、とても心地がよいと思う。

「なら大丈夫だわ。イエスかノーか、それだけで良いから」

 喜美子はにやりとしながら、わざとらしく指を立てた。振り返って見せる笑顔はとても健康的で、かなり日焼けしているようで。

 まさに夏といった肌の色。そこには受験生らしさの欠片もなく。

「えっと、ちょっと待って。やな予感するし」

 冷房地獄に苛まれていた私とは、明らかに異なる夏休みを過ごしたのだろう。季節を満喫するよう、遊び呆けていたに違いない。

「てか、それよりキミコ、どこ行ったの? 海?」

 羨ましくないと言えば嘘になる。成績自体は、私の方が喜美子より上だけれど。ほんの少しばかり。

「すっごい焼けてるじゃん」

 喜美子はきっと、私と違って高望みをしていない。樹が私に合わせてくれるのが余裕なように、彼女が志望校に入るのも余裕なのだ。きっと。

「ああ、これ? てかアンタ、誤魔化そうったってそうはいかないんだからね」

 私も喜美子と同じ高校を目指していれば良かった。樹に合わせるために猛勉強をして、それで叶うとも限らないのに。

 いや、違う。最初から諦めていたら、きっとどこかで後悔している。だから、こうするしかなかった。私は、そういう性格だ。

「何? 誤魔化すって」

 無駄なことをそれと知りながら行い、過剰なことをそれと知りながら積み重ねる。独り善がりでどうしようもなく、結果より過程を求めていて。

「とにかく。あんた、あのマサキくんと仲が良いんだって?」

 そのくせ、結果を欲している。隠しきれない程度には。

「え? ちょっとキミコ、何よそれ」

 マサキくんの名前を聞いて、思わずどきりとしていた。喜美子が誰に聞いた話かは判らないけれど、まごうことなく誤解で。

「一緒に歩いてるのを見たって、トモコが言ってたんだから。ズルイわよ、サクラばっかり」

 マサキくんのことは考えたくない。樹のことだけを考えていたい。

「あんたにはイツキくんがいるってのにさ」

 そうなのだ。私には樹がいる。判っている。誰よりも優しく頼りになる、少し強情な愛しい人がいる。

 マサキくんとはただ一度、話をしただけなのに。一方的に知っているだけの、たまに会話に出てくるだけの、そういう存在だったはずなのに。

「……雨の日に、傘忘れてさ」

 彼の姿が忘れられない。雨に濡れる綺麗な立ち姿が。耳に馴染む声が。冷たい右手が。そして。

「そしたら、マサキくんがいたから。だから、入れて貰ったの」

 あの、言葉が。

「えっと、そんだけ」

 首を振り、否定するように吐き出した。それだけなのだ。私と、マサキくんの接点は。それ以上でも、それ以下でもなく。

「もー。それがズルいっての」

 不満げな喜美子の表情に、何故か救われた気分になった。私のはぐらかしを受け入れて貰えたような、事実が上書きされたような。

「ズルくってもしょうがないじゃない。あの時は他に誰もいなかったんだから」

 マサキくんはとても綺麗でひどく思わせ振りだったけれど、気にしても仕方がないのだと思う。真実がどうであれ。

 私には樹がいる。私には樹しかいらない。それが、私の全て。

「じゃあさ、その時だけ? トモコが仲良さそうに歩いてたって言ってたからさ。私はてっきり」

 知子は、噂を広げるのが趣味みたいな子だ。なんというか、面倒なことになっていそうな予感がする。

「本当、その時だけだって。あとはほら……」

 そこまで言って、口を噤む。先生の葬儀で見かけた。その言葉は、今の空気からは完全に浮いてしまう。落ち着きを取り戻し始めていた感情が、少しずつ、落ちていくのが判る。

 貴美子は、何よ? と言いたげな顔をしていたけれど、私は何でもないと伝えるため首を横に振った。先生が亡くなったことは貴美子も知っているだろう。それでも、せっかくの平穏な空気を崩したくはない。

 私は、利己的な人間だから。

「ほら、それより。早く教室行こ!」

 意味もなく貴美子の背中を押し、下駄箱を後にした。三年の教室は三階にある。そのままの状態で階段の前まで進むと、貴美子が足を止め振り返った。

「……サクラ。どうなるんだろうね」

 不安げな瞳。おそらくは、私も同じような表情を浮かべてしまっている。

「判んないけど、きっと」

 大丈夫なんじゃないかな。私は取り繕ったように明るくそう言い、階段を駆け上がった。踊り場から貴美子を見下ろし、わざとらしく腕を腰に当て。

 大丈夫。これは、私への言葉でもある。

「そう言えば貴美子さ、夏休みどこ行ってたの?」

 白く厚い雲に覆われ、隙間からわずかに顔を覗かせる太陽。どこか重苦しい日差しが、現実味のない現状を肯定しているかのよう。

「おじいちゃんトコ。海が近くて良いんだ」

 階段を登ってくる貴美子を羨ましく思いながら、私はゆっくりと階段を登った。

 おじいちゃん。親戚。そういったものが羨ましい。そんなことを口にしたら、可哀想な子、というレッテルが張られてしまうので、口にすることはないのだけれど。

「良いなあ。だから日焼けしてんだ」

 私には親戚がいない。父には兄弟がいないし、祖父母は既に他界している。母方とは疎遠で、一度も顔を合わせたことがない。

 血縁で言ったら遠いはずの樹の家族が、私には一番身近な親戚だった。

「……受験生なのに?」

 だから。私にはもう、親戚はいない。けれど。

「受験生、は、余計だっての」

 貴美子が私の頭を小突く。少しも痛くない、形だけの喧嘩ごっこ。

 私には親戚はいないけれど、こんなに気の置けない友人がいる。大切な最愛の恋人もいる。頼りになる、仕事が忙しい父もいる。

 淋しく感じるのは贅沢だ。欲深い私の、贅沢な悩みなのだ。

「だって実際、受験生でしょ」

 二発目を避けながら反論する。自然と、笑顔がこぼれてくる。

「サクラ、こういう時は黙ってごめんと言うものよ」

 不安はたくさんある。学校のことも、将来のことも。けれど、受験生である前に今を楽しみたい。

「黙ってたらごめんって言えないじゃん」

 上げ足をとるようなことを言ったり、ふざけて戯れ合ってみたり。

「そういう話じゃないでしょ?」

 なんだかこれこそ青春かもしれない。私は貴美子の攻撃を避けながら、そんなことを思っていた。

 遠くで、始業五分前を告げるチャイムが鳴っている。平穏な日常。退屈で楽しい毎日。受験生としてのちょっとした苦悩。かけがえのない日々。

「貴美子、急ご!」

 大切な、今という時間。

「言われなくても判ってるっての」

 聞こえてきたチャイムがそれらの終焉を告げるものとは知らずに、私たちは、笑いながら教室へと向かった。

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