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新世界へ  作者: 戸雨 のる
惨-3-
14/36

サクラ

 来る必要はなかったのかもしれない。けれど、先生は私のクラスの数学の授業を受け持っていたし、一年の時には担任でもあった。人数が増え過ぎても、混乱するだけだというのは判っている。それでも、私は樹について来てしまった。

 先生の葬儀。

 降りやまない雨の中、私は、黙って俯く樹の後ろをついて歩く。間を埋める何かを喋ろうと思うのに、口から漏れるのは溜息に似た感傷だけで。

 私は、何のために樹に付いてきたのだろう。

「……ねえ、サクラ」

 歩みを緩めつつ、樹が振り返る。ビニール傘越しの樹は、泣いているような笑っているような、曖昧な表情を浮かべていた。

「涙雨っていうんだよね、こういうの」

 ぱらぱらと、雨音が響く。空からこぼれる涙の雨。樹の瞳を滲ませる。

「そう、だね」

 果たして肯定しても良いのだろうか。判らないまま、私は曖昧に頷いた。悲しみを増長させたくはない。けれど、否定もしたくない。

 私は樹の傍にいたい。傍にいて、励みになるような存在になりたい。

 樹の手を握ろうと、そっと腕を伸ばしてみた。傘の庇護から離れた途端、私の身体は雨に濡れる。生暖かく、冷たい雨。秋の気配の混ざる雨。

「サクラ、風邪引くよ」

 引き寄せるように私の手を掴み、樹が傘を傾ける。二人で入るには小さいけれど、温もりを感じられる距離。私は自分の傘を畳み、樹の隣に立った。

「ありがとう、イツキ」

 樹は私の望みに敏感だ。いつだって、私を優先してくれる。

「最初から、サクラと一緒に入れば良かったね」

 それが私を傷つけることに、少しも気が付かないまま。手を握る。指を絡ませる。勝手に膨らむ被害者意識に、罪悪感を折り重ねて。

 私はきっと必要ない。樹にとって必要ない。判っているから、傷が増える。判っているから、自ら傷を増やしているのだ。

 アスファルトを眺め、歩く。樹の顔は見られない。こぼれる水滴が地面に融ける。傘の端、私の指先。或いは雨雲からの。

 ふいに、樹の指先が強ばった。前を向くと、通夜の会場が見える。受付に立っているのは、先生の兄弟らしき男性だった。

「……生徒さん?」

 先生に少し似た男性が、口を開く。私は、黙って頷いた。樹の方を見ると、深々と頭を下げている。

「先生には、お世話になっていました」

 頬に雫を一筋こぼし、樹は、ゆっくりと頭を上げた。遠くから経を読み上げる声が響いてくる。雨音に混じって遠く、現実味を帯びない程度に遠くから。

 繋いでいた手を離し、傘を持つ。一歩後退りすると、足下に目をやった。小さな水溜まりの中に、雨粒が消えていく。浮かぶ無数の小さな波紋。ゆっくりと広がり干渉を続ける。ゆっくりと広がり感傷を教える。

 私に。細波のように。

 思わず手を伸ばし、樹の左手を握ろうとしていた。堪え、空を掴む。樹の枷になりたくない。阻む存在になりたくない。縋るべきは私ではなく。

 手の甲に水滴が当たる。夏の終わりの冷たい雨。しとしとと、心の底を冷やす。

 傍にいたいのはただの我が儘で、自分勝手な自尊と自負で。ならば私は。

「お待たせ。行こう、サクラ」

 受付を済ませたらしい樹に導かれ、会場内へと足を運ぶ。ビニール傘は二本とも閉じた。歩きながら。樹が。

「……ねえ、イツキ」

 小さなホールに入る。ひどく綺麗で無機質な、見慣れぬ空間が広がっている。

「傘、私が持とうか?」

 線香が匂う。簡素な椅子に腰掛ける。淡々と響く経が、現実味のなさを増幅させる。

「大丈夫だよ」

 落ち着かない気持ちを誤魔化すため、周囲を見回した。制服姿の見知った顔が、ちらほらと混ざっている。樹のクラスメイトたち。半数くらいだろう。残りは既に帰ったか、あるいはこれから来るのか。

 場内にマサキくんの姿がなかったことに、私はどこかほっとしていた。こんな場でそんなことを考えてしまうなんて、どうかしているけれど。

「なあ、倉橋」

 樹より背の高そうな男子が、椅子に座ったまま樹に声をかけた。辛そうな顔はしていないものの、瞼が赤く腫れている。

「俺、こういうの初めてだからさ、どうしたらいいのか判んねえんだよ」

 まるで樹は慣れているだろう、とでも言いたげな口調。けれど、当人たちはそれに気付いていないようだった。ただの、私の勘繰り過ぎなのかもしれない。樹の事情は誰も知らないはずなのだから。

 本当の理由を知っているのは、私の家族と中学の校長、担任だった島崎先生。会場に飾られた写真の人のみだ。

 力ない微笑みを見せ、樹が頷く。静かに、手が触れた。暖かい指先。私の指と絡む。

「僕も、そうだよ」

 私の指をぎゅっと掴み、樹は答える。

「どうすればいいのかなんて、判んないんだ」

 不安定な感情を、小さく震える指先に乗せる。困惑と悲嘆。何度体験しても慣れない事象。私は、樹の手を強く握り返した。

「先生が、安らかに眠ることを祈るだけだよ」

 慣れるはずがない。いくら体験していても、どんなに接していても。人の死になんて慣れようがない。

 樹の能面のように無表情なまま発せられる呟きを聞き、私は。

「イツキ……」

 私は改めて、樹の側にいると、伝えたくなった。

 握る手に力を込め、もう一方の手を添える。樹の手を包み込むように、優しく、力強く。もう誰も、樹の周囲から誰も。誰もいなくならないから、と。声を出さずに、そう、伝えた。

 経を読む声が会場内をこだまする。木魚を叩く音に合わせるかのように、参列者のすすり泣きが聞こえる。大きくなり小さくなり、時折混ざる呟きがあり。

 まるでこの世の終焉を嘆くかのように。

 ふいに、声が止んだ。経は聞こえ続けている。けれど、会場を覆う空気が変わった。ような、気がした。 

「……マサキくん」

 斜め前に座っていた女子が、入口を見て声を上げる。泣きはらしたらしく目の周囲が赤く腫れていたけれど、その瞳は希望を映しているかのように、少しだけ、輝きを増していた。

 私は息をのみ、振り返る。そこにいたのはマサキくんと、樹のクラスの男子だった。肩から下は雨に濡れ、制服がまだら模様を描いている。手や髪も、少し濡れているようで。

 端正な顔を悲しみで歪ませ、マサキくんは正面の写真を見据えていた。恭しく両手を合わせ、ゆっくりと目を伏せる。

 そのさまはとても綺麗で、まるで作り物のようで。映画の一シーンのように美しく、今のこの状況は夢だと錯覚するほどに神々しく。

 目が、奪われる。

 ほんの僅か、時が止まっていた。その錯覚を破ったのは、マサキくんの手から滴る、雨の雫の音だった。

 ぽたり。床に広がる。じんわりと、浸食する。マサキくんがおもむろに目を開く。私の思い過ごしでなければ、一瞬、目があった。

「倉橋」

 けれどマサキくんは、樹の名を口にする。隣にいる私には気付いていないのか。あるいは、気まずさから気付いていないふりをしているのか。

 後者だろうとは思う。けれど、前者だとしたら淋しいような気がした。私は、最低だ。

 私は目を逸らし、正面に飾られた先生の写真を見据える。少し昔のものらしく、写真の中の先生は今より少しだけ若かった。

「どうなるんだろうね、これから」

 樹の後ろの席に座り、マサキくんが語りかける。

「……怖いよ、僕は」

 私の手を握る力を強め、樹は不安げに声を漏らした。

 死は誰にでも平等に訪れる。いつか、必ずやってくる。周囲で多発していようとも、一度も目の当たりにしたことがなかろうとも。必ず。私も、樹も。誰でも必ず、いつかは迎え入れなければならないものだ。

 慣れようのない、生命の終焉。幾度も経験していても、否、幾度も経験しているからこそ。樹は不安なのだろう。

 頭の中に響き渡る、木魚を叩く音。律動的な響きはまるで、現実を忘れさせるかのようで。背後に感じるマサキくんの存在を、忘れさせるかのようで。

 樹が俯き、私の手をじっと見る。しばらくそうしていたかと思うと、握る力を弱め、ゆっくりと立ち上がった。

「僕はもう、帰るね」

 追いかけるように立ち上がり、樹の後を追う。会場から出る際に振り返ると、マサキくんが私たちの方を見ていた。

 美しく澄んだ瞳。頬に筋をなしているのは涙のようでもあり、髪から滴る雨のようでもあり。

 無理矢理笑顔を浮かべているようなぎこちない微笑みで、彼は小さく何かを呟いていた。けれど私の耳には届かない。届くのは、読経の響きのみだった。

 場外は相変わらず雨が降り続いている。樹は閉じている傘を私に手渡し、自分の傘を開く。私も傘を差そうと思ったけれど、止めた。代わりに半ば強引に樹の傘に入り込み、空いていた左手を握る。

「イツキ、私がいるからね」

 何の意味も持たない言葉を口にして、私は、小さく震える樹の力になりたいと願った。樹の周囲からこれ以上誰もいなくならないようにと、願った。

 これ以上樹を傷付けないで欲しいと、切望した。

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