サクラ
電話を取りに行ったまま戻らない樹を迎えに、私は廊下に出た。通話は既に終えているらしく、受話器が置かれている。
自分の部屋にでも戻ったのだろうか。私は、廊下のさらに先にある、樹の部屋の前へと進んだ。軽く扉を叩き、様子を窺う。
中からは、何やら大きな音が聞こえてきた。
「イツキ、開けても良い?」
強めに扉を叩き、声を上げる。すると、私の存在に気付いたのか、内側からゆっくりと扉が開かれた。手に大きな荷物を持ち、樹が申し訳なさそうに呟く。
「サクラ、ごめん。ちょっと動揺してたみたいだ」
俯き加減で謝る樹に、かける言葉が見つからない。手に持った物の正体に、気が付いてしまったから。
樹が持っているのは、中学校の制服だった。
「さっきの電話……」
尋ねるべきではないかもしれない。けれど、私の口をついて出てくる言葉はこれだけで。
「クラスメイトからの電話。先生のこと」
それきり、沈黙に包まれてしまった。
制服は、正装。冠婚葬祭に出席する際に着用する、かしこまった服装。樹がそれを手にしている理由は、おそらくただひとつ。夏休みに必要になることなどないはずのそれを着用する理由は、たったひとつ。
先程の報道は、既に事実として受け入れなければならないのかもしれない。それはあまりにも唐突で、あまりにも辛い現実で。
ふいに背後に気配を感じ、振り返る。廊下には、不思議そうな表情を浮かべた父が立っていた。手にはマグカップを持っている。
「どうした?」
神妙な面持ちの私たちを見つめ、父が口を開く。
「父さん……」
私が続きを言うより先に、樹が簡潔に説明を述べた。
「僕のクラスの担任が、亡くなったそうです」
あまりにも淡々と、まるで自分とは関係のない世界での出来事のように。樹が言葉を紡ぐ。ひどく冷静で、ひどく落ち着いていて。けれど。
制服のかかったハンガーを握る手に、異様なまでに力が込められていた。それに気付かなければ、きっと。
「それで、その」
きっと。樹は感情の一部が欠落しているのだと、私は思っていただろう。
「友人から電話がかかってきたんです」
目の前の樹は平静を装ってはいるものの、動揺している。私にはそれが判った。私を、父を落ち着かせるために、静かに語っているだけなのだ。
「……事故か、何かで?」
父は優しく問う。樹は静かに返す。
「事件です。先ほどニュースで、見ました」
経験が、人をつくる。樹は死に接し過ぎている。
「そうか……」
父はそれを知っている。だからこそ、忙しい合間の息抜きで部屋から出てきたはずなのに、樹の話に耳を傾けているのだ。私には向けてくれたことのない、真摯な眼差しを。
「ええ。明日辺りには、きちんとした連絡が来ると思います」
判っている。樹は、私なんかと比べてはいけないのだと。経験が違い過ぎる。背負うものが違い過ぎる。けれど、父を盗られたような気持ちになってしまう。
私には、樹がいる。樹には、私がいる。父もいる。
「暖かいコーヒーでも飲もうか」
気を使うような優しい父の声を、私は他人の声のように感じていた。父一人、子一人。忙しい父と、放っておかれた私と。樹の家に預けられることの多かった私にとって、父よりも、むしろ。
「そう、ですね」
樹の家族こそが、本当の家族だったのかもしれない。けれど私は、樹ほど経験を積んではいない。どこか他人の家庭の話だと、思っている節がある。
私は、最低だ。最低で、冷酷で、欲深く。
おじさんとおばさんが樹の元に戻って来ることがあれば良い。そんな非現実的な願いを胸に抱くほど、私は欲に塗れている。




