六話
小柄で細身の体を壁に凭れかからせ、
顎下までのびたぼさぼさの髪から眠そうな目を覗かせて、
壊れたドアの横にトラシーボが立っていた。
「…いつ入ってきたんだ?」
兄貴が問いかけると、「今」とだけ返ってくる。
プラナも気づいていなかったと見えて、名前を呼んだ声はかわいていた。
相変わらず無愛想で不気味な野朗だ。
ルー・トライブ出身の奴らは皆、殆ど異常といえるほどの聴覚を持っている。
入室したのが言葉通り「今」だったとしても、
当然その耳で俺の侮蔑の言葉も全て聞いただろうに、
トラシーボはつまらなさそうに俺を一瞥しただけで、特に何も言ってはこなかった。
無言のまま、廊下へ出るように手で俺たちを促す。
プラナが真っ先にそれに従い、兄貴がつづいて、
俺もガキを押し出すようにしながら部屋の外へ出た。
「あー、そういえば、ここの研究結果を示すものは?」
若干気まずくなった雰囲気を取り繕おうとしてか、
無理に明るい声で兄貴がプラナに問う。
「残念だけど、調べている途中で警報が鳴り出して…。
書類その他は見つからなかったから、
その少年を殺してしまえば、私たちの努力は水の泡ね。」
「まいったな、さっきのは軽い冗談だろ」
苦笑しながら兄貴が返すが、プラナの言葉に険があるのも無理はないだろう。
あれは本気で殺そうとしていた。
「ガキのことはともかく、
書類はまた探しゃあいいんじゃねぇの?
見つかって結構時間経ってるけど、何も起こんねぇし。
警報もブラフだろ。」
兄貴をかばうつもりで、自分の発言と矛盾するのを覚悟しながらの意見だったが、
言った後自分で、妙に真実味があるように感じた。
―そうだ、それに見つかったとしても、相手は攻撃してくるどころか、
どうせ自己防衛すらできない奴らなんじゃないか?
しかしそれも、トラシーボに素気無く跳ね除けられる。
「さっき言ったように脱出だ。
通路を変なのがうろつきだしている。
これ以上は危険だ。
少し走ったさきに、飛竜を待たせているから、ついて来い。」
それを先に言え。
と、思っても口に出さないあたりが俺も大人だ。
「ふん、このガキは誰が運ぶんだよ?」
睨みおろした顔が、軽くブレた気がして目を見張る。
気のせいだと思った瞬間またブレが生じた。今度はさっきより大きく。
揺れている。
立て続けに起こる振動。
―地震か?
向かいに立っているプラナとヒョードルの引き攣った顔を見て、それも思い直す。
地震なんかじゃない。
廊下全体を揺るがせながら、背後からなにかが来ている。
「来たぞ走れ!」
俺は振り返る暇もなく、ガキを脇に抱えて走り出した。
「トラシーボ、『変なの』って表現はちょっと控え目すぎないか…。」
俺の横を走りながら、兄貴が呆れたような声で呟く。
先頭を行くトラシーボは例によって無言だ。
兄貴の声に混じった、隠し切れない震えに興味を持って、ふと振り返る。
ちょうど角を曲がる寸前だったが、後ろに迫ってくるそいつを確かに目に捉えた。
そいつは、今まで殺してきたやつらと、今連れて帰ろうとしているこいつと同じ、黒い髪に青い目をしていた。
ただし、比べ物にならないほどもっとずっと醜悪でおぞましい。
頭部の中心には口と思しき穴がぽっかり開き、泡と腐臭が同時にふき出す。
皮膚は赤黒く変色して泡立つように盛り上がり、肉の間から片側の眼球だけがのぞいている。
怪物検定があればこれだけでも合格だろうが、とどめはその巨大さだった。
けして狭いとは言えない廊下を、巨体で殆どふさいでいる。
膨らんだ手足で一歩這うたびに肉が擦れ、弾け、黄色い体液が飛び散って白壁を汚していた。
「なに、なんかいんの!?」
腕に抱えたガキが、急に必死になった俺の顔を見上げ、小うるさい声で喚く。
―こいつを放りだしゃあ、もっと早く走れるな。
「あの角の先だ!」
不穏な考えを呼んだかのように、トラシーボが短く叫ぶ。
進むたびに慣れ親しんだ外気に近づき、気分が高揚するのを感じ、急き立てられるように速度を増す。
十歩と行かないうちに、出口にたどり着いた。
夜の口のように開け放たれたその先の暗闇は激しく吹雪いている。
トラシーボが指笛を吹き、プラナが鞭を振るう。
上空を旋回していた飛竜たちが高く鳴きながら下降を始めるのを確認して、
背後に化け物の長い咆哮を聞きながら、
俺達は身を切るような冷気の中に飛び込んだ。




